<東京怪談ノベル(シングル)>


罪跡


 時間は慎ましやかに流れ、過ぎていく。窓の外を流れる風の静けさ。太陽はまだ高い位置を保ち、降り注ぐ陽光は窓枠の影をテーブルの上に焼付けながらも柔らかな温度で辺りを包む。休診日である今日は殊更にそれが際立ち、急患が運び込まれる気配もないひっそりとした院内は常なら明るい騒がしさを生む家族が家を空けていることもあって静寂のなかに沈んでいた。
 しかしそこに純然たる穏やかさはない。僅かに軋み、歪む気配。ふとした拍子に僅かな齟齬が気にかかるような違和感がそこかしこに点在している。静かに存在が鮮明になる。緩やかに棘が鋭さを増すようにして院内の空気を塗り替える。
 遠く明るい声を聞いたような気がして、耐えるように診察室の机に縋りつくようにしていたオーマ・シュヴァルツは軋る頸をゆっくりと持ち上げる。正面にある窓の向こうは明るい世界。
 厭な汗が背骨をなぞるようにして肌の上を滑り落ちていく。
 薄く開いた目蓋、その隙間から双眸に差し込む光がもたらす世界。
 網膜に映るそれはひどく美しかった。
 自ずと浮かぶ涙が滲ませるせいだからではなく、ただそこに当然のように存在し、陽光に照らし出されることが当然であることとして受け止める世界だからこそひどく美しいものとしてオーマの目に映る。
 網膜が映し、視神経が震え、脳で受信する映像。
 複雑に絡み合う脆弱な一つの神経が映すそれは僅かにではあったが今、オーマの身を襲う鮮やかな苦痛を緩和してくれるような気がした。
 まだここにいられるのだという自覚。世界は終わることなくそこにあるのだという確信。だがその幸福をただそれだけのものとして受け止めることができない過去が今も消えることなく確かに存在している。
 あの日、一つの大陸が消えた。
 記憶に焼きつく事実は今も鮮やかな崩壊の風景を伴って、今オーマの躰にひしめく苦痛を強くする。
 存在理由が静かに足元を崩し続けていたあの頃、ただまっすぐに求めていた。自分が一体何であるのか。生きているこの時間を独りではなく過ごす術はないのか。多くのものの一つとして数えられるものになりたかった。特別などというものではなく、異端と呼ばれるようなこともなく、ただ大多数の一部に含まれることができればただそれだけで十分だと願い続けていた。
 今ならばなんて愚かなことを願い続けていたのかと思うこともできる。
 しかしあの頃の自分にはできなかったのだと、オーマは苦痛に顔を歪ませながら自らを嘲るような引き攣れた笑みを浮かべる。苦痛がもたらす生理的な涙が視界をゆがめ、ぐずぐずと世界が輪郭をぼやかしていく。あの日とは違う刹那の歪み。再生を約束された崩壊。たとえ苦痛が伴うものだとしても、この場だけのものだと思うことで耐えることができるそれは罪の証明だ。
 娘が生まれた直後のことだった。新たな小さな命を前に同じ命の流れを生きていきたいと強く願ってしまっていた。娘のためにも自分が何であるのかという確証がほしいと思った。視界を狭くしていたのかもしれないと今だから思うことができる。しかしあの頃のオーマにはそうしたことはおろか、手に入れた後にある不幸さえも考えることができなかった。ただほしいと思ったそれだけのために行動としていたといっても過言ではない。愚かだと嘲られても仕様が無いほどに、純粋だった。けれどそれ故に罪が生じ、あの日一つの大陸を消してしまうことになったのだ。
 異世界ゼノビア総てとソサエティが様々な思惑のもとに求めていた力。具現とウォズの真と総ての時、そして創世の道を開き繋ぐ鍵とされるWOZ。ウォズと同名でありながらも別物であるそれに触れることができれば、何かが変わると確証も無く信じていた。自分というものへの確証。愛する者と共に生きていける。そんな明るい願いだけが鮮明だった。
 それらが浅はかな考えであったことを知った時には総てが手遅れだった。後悔の念では引き返せないところに総てが押し流され、大陸に当然のように存在していた日々の営みは消失した。大陸というそれさえも塵一つ残すことなく総てが消失したあの日を境にオーマもまた本来の姿を失った。身の内に宿るWOZの欠片の代償。しかしだからといって決して本来の姿に戻れないというわけではない。戻れる可能性を残すことこそが罰だった。
 不意に神経を鋭利な刃で逆撫でられるような痛みが脳髄を刺して、オーマは詰めていた息を吐いた。血を吐くような痛み。ソーンでの日常では決して見せることがない凄惨な顔付きでオーマはただ与えられる罰を受け止めるかのようにして苦痛に耐えている。それこそが紛れも無いあの日の代償だった。だが苦痛が以前よりも和らいだことは確かだ。四肢が千切れ飛ぶほどの凄惨な業を背負わなければならなかったあの頃に比べて、今その身を襲う痛みは些末なものであるのかもしれない。
 だがどんなに苦痛に耐える術を身に着けることができたとしても、罪が消えることはない。自らの望みを追い求めるが故に壊したものが確かにあった。大陸一つ、そこに生きる命一つ残さずに殲滅させてしまった罪は誰の手によっても消すことはかなわない。あの日、孤独を厭い、愛する者たちと同じ命の流れを得られぬものかと願いさえしなければ、今もまだ続く慎ましやかなそれぞれの日常は存在することができた筈だった。大陸で生きる人々のささやかな幸福をエゴイズムで壊してしまった。自分の幸福のためだけに未知を求めて、それは鮮やかにもオーマを裏切った。否、裏切りではない。自身の考えが浅はかだったのだとオーマは思う。求めることばかりに目を向けて、それ以外の総てを見ることができなかった。
 痛みが鮮明になればなるほどに、それがもたらす苦痛よりも強い力で罪の存在を突きつけられる。
 だからこそこの報いをこれからも抱えていかなければならないのだ。
 骨が軋むような音が鼓膜の裏側に張り付いている。リンクしていくのは崩壊の音。じわりじわりと繰り返されるあの日の光景。映像ではなく痛みとなってオーマを襲うそれはまだ終わることを知らない。張り付いている。神経が忘れることなく微小なことまで覚えている。記憶されたものは消失されることなく、消去されることなく、今もまだ鮮明だ。リアルに痛覚を刺激される。棘は朽ちることなく躰のそこかしこで息づいている。ふと微睡みから目を覚まし、神経に触れる残酷さ。失われた者が抱いたであろう絶望の痛みは消えることがない。
 家族が今、ここにいなくて良かった。
 オーマは思う。無意識に口端に浮かぶ笑みは安堵の気配。こんな姿は見られたくなかった。せめて愛する者の前ではいつも笑っていたいと思う。そのための罪。そのための罰だからこそ、これはただ独り抱えていかなければならない。
 今が幸福だと思うことに偽りはない。代償があるということさえも享受できる。それほどまでに幸福な日々が確かにここに存在している。だからこそこの苦痛にも耐えていくことができる。
 独りではない。
 たとえこの痛みがただ独りのものでしかないとしても、それ以外の総てを共有することが出来る者が傍にいてくれる。少なくとも今の自分にはそれがあれば十分だとオーマは表情を苦痛に歪めながら思う。
 あの日、確かに一つの大陸が消えた。
 そしてそこに息づく人々の命を根絶やしにした。
 だからこの罪は決して消えることはない。
 今すぐ傍に存在する愛する者を奪われなかった。
 そんなせめてもの救いを与えられたことが幸い。
 罰はただ罪を犯した自身にのみ降りかかればいい。
 鼓膜の裏側に張り付いた崩壊の音をこれからも永遠に聴き続けなくてはならないとしても、耐えていくことができる理由が今はすぐ傍にある。
 絶望はまだ遠く、それは決して訪れることはない。
 人はそれを甘えだと、傲慢だと罵るかもしれない。
 けれど愛する者を本当に奪わなかった現実だけは、そんなことさえも許してくれるような気がする。
 何れ去るであろう苦痛に総ての神経を晒しながら、オーマはただ家族の笑顔だけを明るい世界のなかに見ていた。