<東京怪談ノベル(シングル)>


針神より 祝福を



我は縛りしもの
枷にして鎖、禁忌に触れし罪人の証



そして、汝を護るもの――




「がーっ。やってられるか!!」
 聖都エルザードの一角、ある意味、名物病院になりつつあるシュヴァルツ病院の院内に、悲鳴のような声が響き渡る。時刻は午後。どろんと、眠たげにまどろむ空気を引き裂いた叫び声の発信源は、どうやら診察室であるらしかった。
 その問題の診察室で、病院の院長であるオーマ・シュバルツは、苛立ったように叫ぶと同時に手にしていた白衣を机の上に投げ捨てた。何が原因で、普段は比較的温厚な彼が、ここまで苛立っているのか。
 それは、オーマの右手に握られたままの縫い針が雄弁に語っている。
 事の始まりは、普段、オーマが愛用している白衣の袖が綻びてしまったこと。最初は、病院の看護士か職員に繕ってもらおうと考えたオーマだったが、今日は病院の洗濯日であった。職員総動員の現場はまさに戦場で、彼に手を貸せる人間は病院内に存在しなかったのである。それでは仕方ない……と自ら、オーマは縫い針を取った。元々、手先は器用なオーマである。主夫としての能力も高い。
しかしながら。
彼に、裁縫の才はなかった。
「やめた、やめた。これだけは、いくら才能溢れるラヴリーマッチョな主夫オヤジの俺でも、手に負えねぇ。」
 後で、誰かに縫ってもらおう。
 さばさばとした口調で言いながら、オーマは椅子の上で踏ん反り返った。目に入ったのは、見慣れた病院の白い天井。そこでは、窓から差し込んできた陽光が、明るく踊っている。その中に、オーマは右手に持ったままだった、針をかざした。細く、華奢な銀色の金属物。それは、彼の手の中で、陽光に撫でられ、きらりと僅かに煌きを返す。少し指先に力を入れれば、簡単にへし折れるだろう身には似つかわしくないほどに、剣呑で鋭い光だ。その光に触発されたのか、オーマの脳裏を、とある人物の面影が過ぎっていった。
「こんな細いモンで、よくも、まぁ、縫えるもんだ……。最も、アイツは具現化能力で作ってるんだから、関係ないか。」
 ふっと、オーマの口元に笑みが浮かぶ。
 思い出したのは、ずっと昔、元の世界、異世界ゼノビアにいた頃の記憶。彼の世界において、ヴァンサーの持つ具現化能力は、世界の律に反した行為だった。その力は、世界に存在する全てのものに深刻な影響を及ぼしてしまう。その力を抑える為に使用されていたのが、『ヴァレル』と呼ばれる戦闘服だった。
オーマがヴァンサーになった時、小麦色の肌をした、そのヴァレルマイスターは、彼にヴァレルを渡しながら、にやりと笑ったものだ。生きるも死ぬも、所詮、お前次第だとでも言いたげに。針の先のように剣呑に煌いていた彼女の赤い目を、オーマは今でも、よく覚えている。
「今頃、どうしているんだが……。」
 ふぅ……と息を吐き出して、オーマは手にしていた縫い針を裁縫箱の中に戻し、きちんと箱に蓋をしてから、立ち上がった。そして、机の横にある診察台の上に放り投げておいたヴァレルを羽織ろうとして手を伸ばす。だが、オーマの手が掴んだのは、何もない空間だった。ん?という顔で振り返ったオーマの目に空に診察台が映る。
 ヴァレルが、ない。
 ソーンでは、具現能力の元ともいえる想いの力が、ことさら強い。それゆえに、世界の律に反する、言わば異端の能力である具現化の力の反動も大きく、オーマを含むヴァンサー達は、常に力を抑え、かつ自らの身を護る為に、ヴァレルの着用を心がけているのだ。そのヴァレルがない。
 さぁ……と音をたてて、オーマの顔から血の気が失せた。青く染まった彼の額から、次から次へと、嫌な汗が滴り落ちていく。
「も、もし、失くしたなんて事になったら、俺の命が危ねぇ……。」
 己のヴァレルを作り出した彼の人の、危険極まりない笑みが、オーマの頭の中でグルグルと回る。なんとしても、見つけなければなるまい。オーマが決死の決意を固めた時、一仕事終えた看護士が診察室のドアから顔を覗かせた。
「どうしたんです、先生。青い顔して〜。」
「どうしたも、こうしたも……。おい、俺の上着、知らねぇか?!」
 能天気な看護士の声に、いささか苛立ちながらも、オーマは必死な形相で、看護士に詰め寄った。ずぃっと、タトゥーの入った長身の身体を乗り出して、看護士の肩をガシリと掴む。その迫力に、一瞬ひるんだ看護士だったが、すぐに、あぁと言いたげな顔で手を打ち合わせ、オーマにとってはショックな一言を事も無げに言い放った。
「あれなら、汚れてましたので、洗いましたよ。」
「……なんだと?」
 ぽかんと大きな口を開けた間抜けな顔でつぶやいた、その直後。
「洗ったぁああ?!」
 本日2度目のオーマの悲鳴が、シュヴァルツ病院の建物を揺るがした。



 女性の爪先のような、細い細い三日月が、眠りに落ちた都を静かに見つめていた。月が光を失い、濃紺の闇の帳が世界を包みこむ。そんな夜の道を、ゆっくりと長身の男が歩いている。小麦色の肌に、奇妙なタトゥーを入れている男――オーマは、小脇に洗濯されてしまった己のヴァレルを抱えていた。ソーン内では、常にヴァレルを着用……と、分ってはいるものの、流石に生乾きの服を羽織る気にはなれなかったのだ。
「やってくれるぜ、アイツらも。」
 疲れきった顔に苦笑を浮かべて、軽口を叩く。その声が、青く光る石畳に落ちて砕ける前に、オーマは表情を引き締めた。夜風にさらした素肌に、棘が刺さったような違和感がある。
 濃紺の闇、幾つかの窓から零れるオレンジの灯火の色。
 月光を反射する、夜露に塗れた石畳。
 いつもと同じ。だが、何処かが違う。空気が僅かながら、変わっている。
「なんだ?世界の軸がズレたような……っ!」
 違和感の元を探ろうとした瞬間、オーマはそれを感じ、その場から大きく後ろへ飛びのいた。その直後に、それは起きた。
 ビシリ、と嫌な音を立てて、今まで彼が立っていた石畳の上に無数のヒビが入っていく。
 ビシリ、ビシリ。
 否、割れているのは石畳ではなかった。それは、世界の外殻ともいえるもの。それを、外側から破って、何かがソーンに侵入しようとしているのだ。
「ちっ、幾ら俺が、水も滴るマッチョ色オヤジだからって、勘弁して欲しいぜ。」
 亀裂の向こうから、素肌に突き刺さる世界の律に反する力を感じて、オーマは素早くヴァレルを羽織る。その途端に、スゥっと彼の身を刺激していた鋭い重圧が消えていった。それを感じながらも、オーマの目は油断なく空間の亀裂に向けられている。
 そして、彼の目の前で、一際、大きな音と共に外殻の一部が砕け散った。その向こうから。ずるり……と影のような、異形が姿を現す。
 ウォズ。
 そう呼ばれる異形の魔物は、初めて足を踏み入れた世界の空に向って気炎をあげた。黒い、黒い、揺らめく影のような体。獣のようであり、竜のようであり、また、ゆらりと揺らめいて、鳥のように姿を変える。だが、姿すら不安定な中でも、それは本能的に倒さねばならぬ相手を見つけていた。彼らの天敵たるヴァンサー。
 その1人である、オーマを。
 影の中の白く鋭い牙が見える。ウォズの大きく開かれた顎がオーマを狙う。寸でのところで避けたオーマを捕らえきれずに、石畳に突っ込むウォズの頭を踏み台に、彼は宙に飛び上がった。同時に、怒りの唸り声と共に生み出された無数の銀色をした針が、オーマに向って飛んでいく。
「話し合いが、出来る相手じゃなさそうだ。」
 ボソリと呟くと同時に、オーマの手の中に彼の具現化能力で生み出された銃器が姿を現した。そして、オーマは、それを無造作に手の内で、くるりと回転させる。身の丈ほどもある銃身と、針の雨がぶつかった。金属同士がぶつかり合い、凌ぎを削る。そして、嫌な音を立てながら、へし折られた銀色の輝きが、石畳の上に煌きながら落ちていった。その中で、オーマは銃を構え、引き金に手をかけながら、落下する。
「手荒い子守唄で悪いが――眠ってもらうぜ?」
 ウォズの上に落下した彼の銃器が、異形の中心を貫いた。



 ゆっくりと。
 だが、確実に外殻に開けられた穴が閉じていく。力任せにこじ開けられた傷跡を再生し、ずれてしまった軸を安定させて、世界は、また眠りの中に戻ったようだった。
 石畳の上には、ウォズのいた事を証明するものなど、残っていない。ただ、オーマの記憶の中に、それを封印したという痕が残っているだけだ。世界を蝕む異形と、それを倒す世界の律に反する咎人の戦いなど、明るみにでなくていいのかもしれない。
「異形が異形を狩る、か。だが……」
 自分には護るべきものがある。帰るべき場所もある。異形であったとしても、人間でありたいと思う気持ちも。
 だからこそ、自分を人間側に縛りつける枷であり鎖である、この衣を纏うのだ。
「……感謝してるぜ、姉貴。」
 呟かれた言葉は、その人には届かない。だが、オーマの足元で、かの人の祝福を宿したヴァレルの裾が、応えるように夜風に翻った。



■終■