<東京怪談ノベル(シングル)>
存在証明
目の前にいるものの存在を見失うような気配がした。崩れていく世界が網膜の裏側に焼きついて離れない。躰の輪郭が失われていく気配。鼓膜の内側で鳴り止まない音が響き続け、耳を聾にする。しっかり目蓋を押し上げて見ているというのに、眼前にある世界はあまりに脆い。そこにある存在の名前が上手く思い出せない。思い出さなければ前に進めないというのに、意識がそれを拒んでいる。躊躇しているとでもいうのだろうか。しかし一体何を躊躇しなければならないのか。考えるオーマ・シュヴァルツに答えを与えてくれる者はいない。
場所は森の奥深く。夜の闇は辺りを黒に沈め、立ち並ぶ鬱蒼と生い茂る木々がその黒をますます濃く変える。闇に慣れた目が見ているものは異形。人と呼ぶにはあまりに崩れた外形。直視するに耐え難いそれはオーマの視界で外形に似つかわしくない慎ましやかさで蠢いている。敵意が感じられない。だからといって友好的なのかといったらそうでもなく、感情の気配など微塵も感じられない。まるで変態を繰り返す途中の生命のようにオーマの目の前でそれはただ蠢き続けている。時折人の形を取るような気配を見せながらも、果たせぬまま脆く崩れていく様はどこか哀切だった。
これは一体なんだというのか、思う自分もまた姿を変える途中にあるとオーマは遠い意識のなかで思う。鼓膜に張り付くように響く音は骨が軋む音。常の姿が崩れていく苦痛。黒髪は色を失い銀色の艶をまとい、赤色の双眸をよりいっそう際立てる。年若く姿を変えるオーマの眼前にいる異形のそれはまるで、若返るその様を嘲笑しているかのように蠢き続けている。黒く染まる空に腕を差し伸べるように粘性の高い塊のなかから細く、長いものが突き出される。しかしそれは指先を形作る前に瞬く間に崩れていく。脆い変態の光景を眺めながら、オーマは自身の身に起こっている確実な変化を捉える。骨の髄まで痛みが張り付いて、神経や微細な血管の一つ一つにまで苦痛に支配されていく気がした。
不意に視界に一筋の赤が落ちる。右目のすぐ傍を滑り落ちていくのは赤く染まる液体。僅かな粘性と温かさ。血。そう認識すれば今、なんのために自分がここにいるのかは明らかだった。けれど上手く掴み取ることができない。わからないことが多すぎるとオーマは思う。何か肝心なものをどこかに落としてきた。その何かはきっと今とても必要な肝心なものの筈であるというのに、上手く認識することができない。手にしている銃の意味がわからないとは一体どういうことなのだろう。今、確かにすべきことが存在しているというのに何かがそれを削ぎ落としていく。まるで鋭利な刃がそれを忘れさせるための凶行に及んでいるかのような錯覚。
血が流れる理由など考える間もなく明らかだというのに、銃を手にしていながらオーマには自分がいまここで何をしようとしていたのかがわからない。
最後の鮮明な記憶。
右の足を貫かれた痛み。痛みと認識するには鋭すぎたそれを確かに覚えているというのに、それ以前に何を思ってここに来たのだったかが上手く思い出せない。銃を手に、姿を変えてまで何故ここにいるというのだろうか。目の前の異形は一体なんであったというのだろうか。考えれば思考は縺れ、絡み合い答えを奪い、オーマを動けなくさせる。
目的の消失。
膨大な量の疑問。
不可解な感情。
曖昧な現実。
変態する自分の躰の不確かさ。
何のために今ここで銃を手に、姿を変えてまで目の前の敵意の欠片さえも感じられない異形と対峙しているというのだろうか。目の前で蠢く粘着質のそれは情報を伝達することを拒否するようにして、ただぬらりぬらりと目の前で変態を続けている。時に人のような形を、時に植物のような形を見せるそれの一切は不可解の一言に集約される。なんであるのかがわからないままオーマはそれを眺め続け、人の姿を忘れていくであろう自分を遠くに感じる。姿を変えるのは一体どうしてなのかさえもわからないまま、躰だけは何か一つの目的に向かって変わり続けている。
お前は一体なんであるのか、とそう訊ねたい気持ちとは裏腹にオーマの胸の内には既に答えが生じている。しかしそれの輪郭はおろか一端にさえも触れることができない。では何故自分はこのようなことをしているのかと考えれば、ふと脳裏をよぎるものがある。
守らなければならないものが確かにある。
何であるとか、どうしてだとかそうした理由を超越する何かが確かに行動の一つ一つに息づいているのだということにオーマは気づく。だから今自分はここにいて、行動を起こしているのだと。何が、とか、どうしてといった言葉は無意味になる。今、ここにいるというただそれだけが理由になる。そんな単純なことをどうして見失っていたのだろうか。
オーマは痛みに支配されつつある躰を引きずり起こすように地にしっかりと両足をつき、一度勢いよく空を仰いだ。そして銃を収めた手に力をこめ、目の前の異形と正面から向かい合う。それ、が一体なんであるかなどどうでもいいことだ。思い出せないのならただ今すべきことをする他ない。今、守らなければならないものと目の前のなんであるのかも判然としないそれを秤にかけてどちらかを選べと云われたなら、考える間もなく答えは明らかだ。
守りたいと思ったその気持ちだけを信じ続けていけばいつかわからないことさえも明らかになる。
だから今は油断することはできない。生きていなければ意味がない。思った刹那、不意に銃を握る手が自由を失った。
「えっ……」
反射的に視線を向ければ、手首を貫く何か。それを視線で辿り追いかければ、人の形を成した異形のそれから伸びている。赤い液体が溢れてぱたぱたと地面に落ちる。銃を扱うには大きすぎる制約が課せられている。
『イギョウ……イタン……ナゼ其処ニ居ル……』
不意に鮮明になる攻撃の意思。
地を這うような声が低い声が響く。
『誰モオ前ヲ認メテハクレマイ……』
声はひどく不穏な気配を引き連れて、いつかの自分ならきっと紡がれる言葉に負けただろうとオーマは思う。異形が紡ぐ言葉が失われかけた現実感を引き戻す。今、ここで何をすべきなのか。目の前にいるものがなんであるのか。そうした全てが明確になっていく。目の前にいるものはなんでもない。ウォズだ。封じなければならない。放置しておくことはできないものだ。今、ここで共存を願っているのだと云い募ったところで届くわけはないだろう。わかっている。繰り返してきた戦闘のなかでそれを躰で知った。しかし願うことをやめることはできない。いつからか今すぐにではなく、いつか叶えることができればと願い続けるようになっていた。
気づけば全てが符合する。貫かれた手首を強引に引き、貫く異形の一部を振り払って、自身の腕から鮮血を撒き散らしながらもオーマは笑った。刹那の弱みをつかれたものだ。脆く崩れるその一部をついたウォズはやり手なのかもしれない。自分という存在の希薄さ。それはいつもどこかに張り付いて離れない。今、ただ一つ戦うというただそれだけのために変態しつつある躰。痛みと共に不確かにさせる自己というもの。全てはほんの僅かなことでオーマ自身を脆く崩す。
しかしそれを完全に崩さずにいられるのは自分以外の誰かを心から守りたいと思うことを知ったからだった。だから今ここで倒れるわけにはいかない。誰かを守りたいということ、そのために捨てる命などあってはならない。涙さえも流させることなく、ただ傍にいて幸福を感じていられるようなそんな関係でありたい。彼らならば姿を変えたとしても愛してくれるだろうことがわかるから、何も恐れることなどないのだ。ここで倒れることなく彼らの元に帰ろう。そうすれば確かなものを掴むことができる。
「悪いな。俺には俺を認めてくれる奴らがちゃんといるんだよ」
痛みを滲ませながらも告げた声はひどく力強く辺りに響く。
人の姿を忘れていく躰を遠くに感じながら、オーマはただうっすらと笑う。
形がなんだというのだろうか。
目で見えるものだけが総てではない。
愛する彼らと過ごす日々のなかでは形など無意味になる。
そうでなければこんなにも彼らを愛しく思うことなどなかった。
「俺はあいつらのためにここで死ぬわけにはいかねぇんだよ」
自分の耳で聞いた自分の言葉に救われると思う。
たとえ血に塗れてでも生きていかなければならない理由がいつからか生じていた。それを守っていきたいと思っていた。不安に揺らぐ心を支えてくれるものが傍に居てくれる日々はきっとかけがえのないものと呼ぶに相応しい。
彼らが認めてくれるならば、躰の形などどうでもいいのかもしれない。
思って不意に差し込む月光に銀の髪を煌かせながらオーマは常とは違う青年の面に力強い笑みを刻んだ。
今、ここで倒れないことは誰でもない彼らが約束してくれている。
だから何も恐れることはない。
たとえ刹那の間、人の形を失うことになろうとも守りたいと思う愛すべき世界は確かにここに存在している。
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