<東京怪談ノベル(シングル)>
自由な空へ
遠い空の下、一人の白い大きな翼を持った少年が『鳥籠』から青い空へと飛び立った。
少年は再び空を飛ぶ事を、自分の意志で選んだ。
姉から貰ったクロスを握りしめて。
ファセリア・フォン・ラディアは微睡みの中で幸せな夢を見ていた。
大切な弟と一緒に花畑で花の冠を作り、それを互いの頭に乗せて微笑みあっている過去の光景。
温かくて優しい記憶。
まだ幼い自分の後を必死について回る弟を、ファセリアは笑って抱きしめてやる。
いつでもファセリアと弟は一緒だった。
周りが家族の中で一人だけ違う弟の髪の色や瞳の色をなんと言っていようと構わなかった。
見た目で決めつけて欲しくなかった。
ファセリアにとって弟はかけがえのない存在だったのだから。
愛らしく笑う弟のその姿はファセリアの心をいつでも和ませてくれた。
二人だけの秘密、と二人で共有することの数々。
それは胸をときめかせ、二人の絆をより強くしていく。
しかしそんな楽しい時は長くは続かなかった。
両親から領主貴族の派閥抗争に巻き込まれ、最愛の弟が死んだと告げられたのだ。
何よりも大切にしていた弟が、そんなものに巻き込まれて命を落としたなどと考えたくはなかった。
ファセリアの体中の力が失われ、ガタガタと震えながらその場に座り込んでしまう。
思考が上手くまとまらない。
脳裏に浮かぶのは昨夜一緒に笑って会話していた弟の笑顔だけ。
その笑顔がもう見れないものだと悟るのに数分を要した。
両親はそんなファセリアの肩をそっと抱いてやる。
それでもファセリアの身体の震えは止まらなかった。
狙われても当然と言える立場に弟は居たのかもしれない。
だからといって命を落として良い訳はないのだ。
弟を守ってあげる為には自分が強くならないと、と剣の腕を鍛えていたのも全ては無駄になってしまったというのだろうか。
「あの子が居ないのなら‥‥こんな力など‥‥」
守ると誓ったのに、とファセリアは唇を噛みしめる。
「手の打ちようがなかったの‥‥」
母親はファセリアを抱きしめて背をさすってやる。まるでそのまま泣けという様に。
そこでファセリアは堪えていた涙を初めて零す。
悔しさと哀しさとが混じった感情を抱いて、母親の胸で声を殺して泣いた。
頬を伝う涙を感じ、ファセリアはその涙を手の甲で拭いながら目を覚ました。
どうやら転た寝をしてしまっていたようだった。
とても優しくて幸せな夢を見ていたはずなのに、途中でそれが悪夢に変わった。
目覚めた今も酷く苦しくて哀しい気持ちが胸の中に満ちている。
「あの子の夢‥‥久々に見たわ」
格子窓から空を見上げファセリアは呟く。
青い空が広がり、まるで世界には何も悩みがない様に見えた。
「本当に外の世界は呑気なものね」
でも私もそうかもしれない、と小さく呟いてファセリアはもう一度空を眺めた。
「脱出など容易いのに此処から出ようとしない私も、相当呑気だわ」
呟く言葉は青空に溶ける。
もう何日空の下に出ていないだろう。
ただひたすら格子窓から空を見上げるだけの生活。
ファセリアは虚偽の罪を着せられ、屋敷の片隅に幽閉されていた。
大人しくしていることなどファセリアの本意とする所ではない
しかし、ここを出たとしても何処へ向かえばいいと言うのだろう。
この世界で求めるものなど何処にもない。
思い出の詰まったこの屋敷に留まり続け、大人しくしている事でこの家に自らを縛り付け、ファセリアは崩れそうな足場をかろうじて保っていた。
「母様は賢い御方だから、私の存在など既に切り捨ててる筈。私が消えても迷惑はかからないわ」
ベッドの上で膝を抱え、膝に額を押しつけ呟く。
「でも‥‥此処から逃げたとしてどうなるというの? だってあの子は‥‥もう居ないのに」
何度も心の中で繰り返す言葉。
弟の命を奪った領主貴族の派閥抗争が憎くてたまらない。未だに続くそのことに辟易し、嫌悪感を持っていたファセリアは、くだらない、とその抗争を傍観していた。
昔から変わらないその風習。
たくさんの命を奪っても終わることなく繰り返されるその抗争を愚かだとファセリアは思った。
その愚かな事に巻き込まれ命を落とした弟を帰して欲しいと何度青い空を見ながら願った事だろう。
ただ一人の愛する弟を守れなかった事への罪悪感がファセリアに押し寄せる。
守って欲しいなどと言われもしなかったが、ファセリアにはそれが弟にしてやれることの一つだったのだ。
弟が何があっても笑顔で帰ってこれる場所でありたかった。
ここならば安心だと、いくらでも羽を休めなさいと言ってやりたかったのだ。
何が起きても相も変わらず空は青くて、その青さを目にする度に、青い空の下で笑顔を見せていた弟の姿を思い出しファセリアは何度も涙を流した。
枯れる事のないその想いと涙。
ファセリアは弟の事を考えると泣き出してしまう自分が、泣き虫になったように思えて仕方ない。
その時、夕食を持って一人の女性が現れた。
その扉の向こうには形ばかりの兵が詰めている。
扉が閉じられると、その女性はファセリアへ笑顔を向けてきた。
「お嬢様、お食事でございます」
「いつもありがとう」
「いいえ。私はお嬢様の顔を見にこちらへ来ておりますから。それにお嬢様の笑顔を見るとほっとするんですよ」
おっとりとした笑みを浮かべる女性は、幽閉される前からファセリアの身の回りの世話をしてくれた者だった。
よくお忍びで街を探索していたファセリアは、上流階級特有の身分を鼻にかけたところがなく、分け隔て無く他人と接して居た為、密やかに庶民達の間で人気があった。屋敷の内外にファセリアを支持する者は未だに多い。
そんなカリスマ性を持つファセリアを恐れた者達から冤罪を着せられ、屋敷に幽閉される事になったのだった。
「そうそう。お嬢様にお手紙が届いておりました。ちょうど私が受け取りましたので、捨てられてしまっては大変と思い内緒でお持ちしました。宛名も何もないものなのですが‥‥」
女性は一通の手紙をファセリアへと差し出した。
受け取り眺めるとそこにはファセリアの名前しか書かれていない。差出人も住所も不明な謎の手紙。
しかしファセリアはその手紙を開封し中に目を通す。
そしてその文面にファセリアは心臓を鷲掴みにされた気分を味わった。
『ボクは幸せに暮らしてるよ。だから心配しないでね』
ファセリアにはその言葉を紡ぐ人物の声が聞こえた様な気がした。
えへへ、と全開の笑顔を浮かべて、今すぐにでも目の前にひょっこりと現れる様な気がして。
「幸せに‥‥って、この目で確かめるまでは信じないわよ‥‥バカ‥‥」
ファセリアの瞳から嬉し涙が零れる。
その様子に慌てて女性がファセリアの元へと駆け寄った。
「お嬢様?」
「大丈夫よ。ちょっと驚いただけ」
ファセリアを今までこの地に縛り付けていた枷が外れる。
弟は生きていた。
そのことが分かった今、ファセリアには目的が出来た。
この場所から飛び出し、幸せに暮らしているという弟を捜そうと。
元から気の強いファセリアが、理由の無くなった場所に閉じこめられて大人しくしている訳がない。
枷がとれたのなら、飛び出せば良いだけだった。
ファセリアは女性に話を持ちかける。この女性は信用するに値する者だった。
「私、ここから出ようと思うの。そこで色々と手筈を整えて貰いたいのだけれど」
「えっ? それはもうお手伝いさせて頂きます。お嬢様がこんなところで一生を終えられるなど、私にも耐えられませんから」
「ありがとう」
ファセリアはにっこりと笑みを浮かべ、脱出に必要なものをあちこちに用意する様女性に指示をしたのだった。
身体が鈍って気分が悪いから、今まで自分が使用していた大剣と同じ硬度を重さを持った棒が欲しいと願いを出すと、幽閉している側はそんなものでは何も出来ないだろうとあっさりとファセリアに与えてくれた。
本当は大剣が欲しかったのだが、刃のついてるものなど渡してくれるはずもない為、初めから棒で良いと言ったのだった。
それから毎日ファセリアは怪しまれぬ様、棒を剣に見立て日に何度かそれを振るった。
多少身体が鈍っていたから、それを取り除く為にも丁度良い準備期間となった。
屋敷の外ではファセリアから要請された物資が用意され始め、あと少しで全てのものが揃うまでに至った。
料理を運んでくる女性からその状況報告を受けながら、ファセリアは辺り一帯の民の話も尋ねる。
「生活は苦しくはない?」
「今のところは‥‥豊作だった事もありますし」
「そう‥‥権力抗争などには辟易してるのだけど‥‥皆が辛い時はいつでも言って。出来る限りの事はするわ。きっと力になるから」
「えぇ、ありがとうございます。お嬢様のお心遣い、皆有り難く思っております」
首を振ってファセリアは告げる。
「私の方こそ皆が手伝ってくれなければ此処から逃げ延びる事なんて出来ないから。あのね、私ここから外に出たら弟を捜すの。とても大切な子だから‥‥」
「無事に再会できることを私もお祈りしておりますから。ですから、お嬢様もどうぞご無事で」
「もちろんよ。また笑顔を見せに帰ってくるから」
ね、とファセリアは軽くウインクしてみせる。
そんな表情に女性は、はい、と頷いたのだった。
翌日、ファセリアは毎日振るっていた棒を幽閉されていた部屋の壁に力の限り叩きつける。
岩を斬る様な気合いと力を込めて。
早朝から轟音が屋敷に響き渡った。
慌てて飛んでくる兵達だが、時既に遅し。
ぽっかりと人が通れる程に屋敷の壁には穴が開いていた。
腕力にものを言わせた無謀とも言える無茶苦茶な脱出劇の始まり。
純白の翼をはためかせたファセリアは、ひらひら、とあんぐりと口を開けた者達に向かって手を振ってみせる。
「女だと思って甘く見ない事ね。私を閉じこめておきたいのなら、鉄で囲まれた部屋にしておきなさいな」
これはお返し致しますわ、と艶やかな笑みを浮かべファセリアは押し寄せる兵に向かって棒を投げつけた。
見事になぎ倒されていく兵にウインクを投げると、ファセリアはそのまま空へと飛び出した。
久しぶりの青空。
いつもよりもずっと近くに感じてその青さに目を細める。
この青空を呪った事もあった。
しかし今はその青空に感謝をし、この同じ空の下で弟が本当に笑顔で幸せに暮らしている事を願う。
ファセリアは手筈通りに、準備されていたものを取りに路地を駆け抜ける。
白い翼は目立つ為、ボロを纏い街の中を駆けたのだった。
そして手招きされるままに一つの小屋に身を隠す。
そこで今まで使用していた大剣と同じ仕様のものをファセリアは手に入れた。
必要最低限の身の回りのものを詰めた鞄と動きやすい服。
ファセリアの要望通りの品がそこには揃えられていた。
「皆、どうもありがとう」
大変だったでしょう、と集まった人々にファセリアは声をかける。
「いいえ、お嬢様の力になれればそれでいいんですよ。しっかりと坊ちゃん見つけてきて下さいね」
「お嬢様が笑ってないとなんだか調子が出ないんですよ」
へへっ、と笑った男は頭を掻いた。
「皆の気持ちはちゃんと受け取ったわ。戻ってきたら、しっかりと私の気持ちも受け取って」
「もちろんでさぁ」
人々の間に浮かぶ笑顔。
ファセリアはその笑顔を胸にしまい込む。
「それじゃ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃいませ! お気を付けて!」
背後にその声を聞きながらファセリアは外の世界へと飛び出した。
頭上には青い空。
自由に飛び回れる青い空。
心残りは無かった。ファセリアを縛り付ける枷もない。
同じ空の下に弟が生きている事を喜びながら、ファセリアは再会の時を待つ。
きっともう過去の悲しい夢は見ないだろう。
今度は未来の楽しい夢を見るのだ。
弟と二人手を取り合う幸せな夢を。
ファセリアは青い空に向かって笑みを浮かべたのだった。
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