<東京怪談ノベル(シングル)>
馬に蹴られて死ぬ前に
その日、黒山羊亭を訪れたゾロ・アーの目は、山火事寸前の如き深く萌えた緑だった。一目見て、彼が何かに激しく怒っているのが分かる。
「どうしたの、随分機嫌が悪いみたいだけど……?」
メニューを持ってゾロのテーブルへやって来たエスメラルダは驚いて言った。
普段理性的なゾロが怒っている顔など、とても珍しい。
「あの男です……」
と、ゾロは奥のテーブルに座った一人の男をそっと指差す。
「あの人?」
中年の、少々太ったお世辞にも美男とは言えない、ゾロが来る少し前に店にやって来た男だ。
「あのお客さんがどうかしたの?」
ゾロは緑の目を爛々と輝かせて言った。
「あの男が、俺の馬を盗んだんですよ……!」
それはそれは大層出来の良い馬だったとゾロは言う。
「つやつやの栗毛にすんなりとした四肢、ふさふさした尻尾、何より、目が綺麗だった。ほっそりした顔に並んだ黒い目!これまでで最高の出来だったのに!」
奥のテーブルで、馬の創造主であるゾロに見られているとは知らず、男は酒を旨そうに勢い良く飲み干し、おかわりを注文する。
男はその美しい馬がゾロの持ち物であると知ってか知らずか、愚かにも目を付け、益々愚かにも盗み出した。
「あれだけの素晴らしい馬でしたから、人間が欲を出して盗むのも仕方がないと思い、一度は赦そうと思いましたよ……」
ゾロは深い溜息を付いて漸くメニューを受け取る。しかし、それを開くことはせず、力を込めて握り締め、憎憎しげに吐き棄てた。
「ところがっ!あの男は馬を働かせて働かせて、それはもう、惨いほどに扱き使ったんですよっ!」
興奮のあまり思わずメニューを破りそうになってしまう。
哀れにも心無い、審美眼の欠片もない男に盗まれた馬は、一日中鋤引きとして荒れた畑で働かされ、ほんの僅かな食事を与えられたと思ったら、小汚い、荒れ果てた馬小屋で眠らされ、翌日には水牛の代わりに川で荷物運びとして使われ、荷台を繋いで馬車として使われ、またしてもほんの僅かな食事と睡眠を与えられ、その翌日には前日よりも激しく扱き使った。挙句の果てには「駄馬」とまで罵り、何度も鞭で打った。
酷い雨の日も、風の日も、射すような日差しの暑い日も、扱き使い罵っては鞭打って、それはそれは酷いことこの上ない扱いをした。
「断じて!赦すわけにはいきませんっ!あの馬は愛でる為に創ったのであって、あんな風に働かせる為に創ったんじゃないんですっ!」
だんだんだんっ!と地団駄でも踏むようにゾロはテーブルを叩いた。その興奮振りに周囲の客が数人振り返ったが、奥の男は気付く気配がない。
「まぁまぁ、落ち着いて」
周囲の客に、何でもないのだと手を振りながらエスメラルダはゾロを宥める。
「それで、あのお客さんの後をつけてここに来たのね?どうするの、馬を取り返すつもり?」
「いいえ!」
ゾロは幼い顔に妙に楽しげな笑みを浮かべた。
「馬を取り返したくらいではこの気が治まりません。あの男には少々罰を与えなければ」
「罰ねぇ……。恋路を邪魔されたって言うんなら馬に蹴られるようにでも仕向ければ良いけど……、一体どうするつもりなの?」
「それを今、考えているところです」
一体どんな風にあの男を痛い目に合わせるか……、ゾロは真剣に自分の能力を如何に活用するかと考えていた。
「ま、ゆっくり考えなさいよ。あのお客、何時も長時間うちに居座ってるから」
エスメラルダはどうにかゾロの注文を取り、奥へと姿を消した。
ゾロは料理が届くのを待ちながら、時折男に視線を送りつつ罰を考える。
馬を酷使したのだから、馬を使って罰を与えるのも良い。それこそ先程エスメラルダが言った通り、嫌と言うほど馬に蹴らせてみるか……、それとも地震・雷・火事などの類に偶然巻き込まれるように仕向けてみるか……。
にやにやと嬉しげに酒を呷るあの男の顔が恐怖と苦痛に歪むのを想像すると、多少なりとも心がすっとする。
思わず顔がにやけてしまったところへ、慌てふためいたエスメラルダがやって来た。
「どうしたんです、そんなに慌てて」
「どうしたんですじゃないわよ!ちょっと聞くけど、あのお客さん、今日ここに馬を連れて来たんじゃないかしら?」
「ええ、連れて来ましたよ。外に繋いであるはずですが……」
首を傾げるゾロに、エスメラルダは深い溜息を付いてそっと耳打ちした。
「今、聞いたんだけど、あの男、馬をうちに売りに来たのよ。それで、馬刺しを注文したって……」
目を剥いでゾロは奥の男を見る。
折りしも若い女が皿に綺麗に並べた馬刺しをテーブルに置くところだった。
「え……」
一瞬理解出来ず、ゾロは呆然とその様子を見ていた。
男は嬉しそうな顔で赤い身を救い上げ、下品にも大きな口を開けてぺろりとそれを飲み込み、唇をべろべろと舌で舐めた。
「…………」
怒りに燃えた緑の目の色が更に深くなる。
ああ、これは大変なことになるわ……と、エスメラルダは慌てて身を引いた。
男はゾロの怒りなど露知らず、旨そうに酒と馬刺しを口に運ぶ。
エスメラルダが身を引き、未だ料理の並ばないテーブルに着いたまま、ゾロは男に視線を送り続ける。
その時、店内が激しく揺れた。
わっと一瞬騒々しくなり、暫く後、しーんと静まり返る。
揺れが収まってから、あちらこちらから「地震だ」と声が上がった。
テーブルから落ちた皿や杯、倒れた椅子に、転んでしまった客……。うめき声や安堵の声が上がる中、ゾロは奥のテーブルへと目をやった。
「……なんて男だ……」
男は平然とした顔で、テーブルの下に身を隠し、そこでしつこくも馬刺しを食べていた。男が受けた被害と言えば、倒れた酒瓶からこぼれた酒を肩口に被った程度。
何だか益々怒りが沸いてきて、憎らしくなる。
男は残った馬刺しと酒を平らげると、通りかかったエスメラルダに料金を支払って店を出た。
勿論、ゾロはその後を追った。
来る時に乗ってきた馬は、男の胃に納まってしまったので、帰りは徒歩だ。男はほろ酔いの心地よさに足元をふら付かせて歩く。
あちこちにさっきの地震の片付けをする人の姿がある。割れた食器や壊れた家具を家の外に運び出し、箒で床を掃く女もいる。幸い怪我人らしい怪我人はいなかったようだ。
男はそんな様子に目を留めることなく、川沿いを歩く。数日の雨で増水した川の水は今にも溢れそうなほどだ。
何処からか、誰かが男に声をかける。
「おおい、川は危ないぞ!さっきの地震で溜池が決壊したんだ!近寄らない方がいいぞ!」
しかし、その言葉は遅かった。
雨で増水した上に溜池から流れ出た水はあっと言う間に溢れ、酔っておぼつかない男の足をさらう。
男が悲鳴を上げて水に飲み込まれるのを、ゾロは楽し気に見守った。
ところが男は、思いのほか俊敏な動きで近くの木の垂れ下がった枝にしがみついた。
「え?」
と、流石のゾロも男の執念深さと言うかしぶとさに呆れる。
男はゾロが見守る中、自力で陸に上がり、酔いの覚めたような顔で濡れた衣服を絞る。
「……悪運の強い人間ですね……」
更に憎らしさが増した。
男はくしゃみをしながらも足を進め、酷い目に逢ったなとぼやきながら漸く自宅に戻った。
しかし、そこで男は呆然と目を開き、だらしなく口を開けた。
家が燃えていた。
近所の者が飛び出して来て、男の元気な様子に喜びながら、地震で倒れた隣家の蝋燭の火が風に煽られてあっと言う間に燃え広がり、手の付け様がないのだと興奮した様子で説明する。辛うじて残っているのは、近所の者が気を利かせて助け出してくれた年老いた馬が一頭と、未だ火の回っていない厩舎のみ。
ゾロが影で笑みを浮かべているなど知る由もなく、男はペタンとその場に座り込んで我が身の不幸を激しく嘆いた。
「それで、結局どうなったの?」
翌日、黒山羊亭を訪れたゾロは上機嫌で料理を注文し、運んできたエスメラルダにあの男の昨日の不幸の程を話して聞かせた。
「死にました」
あっさりと、ゾロは答える。
「え?」
まさかゾロが手を下したのかと、エスメラルダは顔を曇らせる。
「馬に蹴られて、死にました」
ゾロはもう一度言った。
昨夜、長年住み続けた家を失った男は大いに不幸を嘆き、近所の者の同情を寄せたが、元が図太い性格なのだろう、数時間後には気を取り直し、火の手を免れた厩舎の藁を敷き直して暫くの住処と決めた。
馬と同じ建物と言うのは頂けないが、まぁ暫くのこと。
盗んだ馬を売った金は懐にあるし、年老いてはいるが、鞭打てばそこそこに働く馬が一頭いる。必要ならばまた何処かから盗んでくれば良いのだから、そうそう嘆くこともない。家など、またいくらでも建てられる。
幸い寒い季節でもなく、同情した近所の者達が衣服や食料を分けてくれたので不自由はない。厚く敷いた藁の上に寝転がり、貰い物の薄い毛布を被って、男は眠りに落ちた。
その頭上を、ゆっくりと動く影があった。
男が馬を盗んでくるまで、長年僅かな食事で働かされ、激しく鞭打たれて来た老馬だ。
老馬は、自分の住みなれた狭い厩舎の地面に、男が眠っていることなど知らない。地震と火事とで騒々しい夜を過ごし、少々気が立っていた馬は、自分を落ち着けようと思ってか、後ろ足を思い切り跳ね上げた。
「……その、後ろ足があのお客さんに当たった、と?」
「そう言うことです。なかなか清々する光景でした。あの馬は、随分年老いて醜かったけれど、とても賢明です」
ゾロは嬉しそうに小さく切った肉を口に運ぶ。
「それはそれは……、災難なことね……」
エスメラルダは深い溜息を付いてゾロが美味しそうに口を動かすのを見る。
あの哀れな客が馬に蹴られて死ぬ前に、次々と酷い目に逢ったことを知っているのはエスメラルダとゾロの二人だけである。
End
ライターより
初めまして!この度はご利用有り難う御座います。
実は、ソーンでは初めてのシングルです。自分なりに頑張ってはみたのですが、お気に召さないところが多々あるかと思います……。
それでも、ほんのちょっとでもお楽しみ頂ければ幸いです。
納品が遅くなってしまい、申し訳ありません。
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