<東京怪談ノベル(シングル)>
chaconn
今も、夢を見る。
全てを奪われた時の夢を。
――未来が閉ざされた時の、夢を。
「――これ…」
古物市…月に1回程のペースで開かれる、いわばフリーマーケットに仕事を兼ねて来ていた青年が、珍しく震えた声を出した。
「どうしたの、お兄さん。これ、欲しいの?」
売り子の少女に満面の笑みで話し掛けられながら、こく、と物も言わずその品に手を伸ばす青年――如月一彰。
「お父さんがずーっと前に買って大事にしてた品なんだけど、もう弾けなくなっちゃったから大事にしてくれる人に買って欲しいんだって。――お兄さん、弾けるの?」
何度も布を張り替えたらしいケースにちょこんと収められたバイオリンが、春の日差しの中ニスの輝きを弾き返しながら、存在感を持ってそこに置かれている。
見れば、少女の周りは子供服の他は同じく古びた楽器ばかり。演奏家でもあったのだろうか。
「…ああ――昔、少しな」
10年20年は軽く経っているだろうバイオリンと弓を、許しを得てそっと持ち上げる。綺麗に拭いたのか、光沢のある胴体に指紋や松脂などは一切残っていなかった。
ずしりと来るその重さも、職人が丁寧に作ったものらしいそのデザインも、この楽器が持つ雰囲気も。
年月は違えど、一彰が昔買ってもらった品に驚く程似ていた。
「持ち方を見ると少しってレベルじゃなさそうね」
「少し、さ。持たなくなって、何年にもなる」
「ふぅん。じゃあ、どう?暫くぶりに買って弾いてみたら?」
値段は、と書かれた札を見て、一彰の手がぴたりと止まった。使わなくなった楽器だから、街で綺麗に飾られている楽器に比べれば随分安いのは確かなのだが、それでも一彰の手の届く値ではない。
あまり表情を変える事がない一彰だったが、この時ばかりは全身からがっかりオーラを漂わせ、布を借りて自分の指紋が残らないよう磨き上げてからケースへと戻していった、その時。
「お、お客さんか?ほほう、それに目を付けたか。なかなか目が肥えてるな、兄さん」
娘そっくりの笑顔を浮かべながら、黒光りした顔でぽん、と一彰の肩に手を置いた男がいた。
「それほどでも」
静かに応える一彰に、男がいやいや、と首を振る。
「これはな、クレモナーラの名楽器師が若い頃の品さ。何度も何度も頼み込んで譲ってもらった品だ。それがもう年で、腕が思うように動かなくなって来て、この際だから全部処分するつもりだったんだ。――見たところ、兄さんもやっていたんだろ?それも、相当長く」
「…いや、私は…」
「ほら」
ずいと男がバイオリンを取り出し、弓と松脂とを一緒に手渡す。
「演奏次第では、おひねり代わりに値段を下げてやってもいい。弾いてみな」
人が良い男なのだろうか、それとも自分と同じバイオリン好きな青年と言う事で気に入ったのだろうか。
「――それじゃ…」
そして…逡巡の後にそれを手に取ったのは、消えたと思っていた胸の炎が、未だくすぶっていたためだっただろうか。
――すう、と息を吸う。
弓の張り具合を確認し、軽く音を出してみて、音の調整がきちんと整えられている事に感嘆の目を光らせると、側にいる男へ小さく頷いて、顎でしっかりと冷たい…懐かしい木の感触を押さえ。
目を閉じて、自分が慣れ親しんだ曲をゆっくりと奏で始めた。
*****
覚えているのは、雪山の白さと、人の体温の暖かさ。
燃える機体で暖を取り、焼けていない毛布で、凍死しないよう必死に身を寄せ合ったあの日。
――突然の、飛行機の異常だった。後で、以前から指摘されていた金属疲労の部分が大事故を招いたのだと知らされ、激しい憤りを感じずにはいられなかった。
弟と自分が助かったのは、事故の衝撃が和らいだから。…前のシートに座っていた両親と兄の体がクッションになっていたのだから。
楽しかった筈の家族旅行は、こんな容赦の無い方法で幕を閉じた。
同時に、家族が望んでいたバイオリニストへの道も、あっさりと閉ざされてしまった。推薦で音大へ行ける筈だったし、奨学金もほぼ保障されてはいたが、自分と弟が食べる分を稼ぐためには大事な手を犠牲にして働かねばならなかったから。
*****
すすり泣くような音は、いつの間にか出来た人だかりの中から聞こえてきた。
「……ふん」
古書店の店主が、掘り出し物の数冊の本を手にちらと人だかりを眺め、さり気なく人の邪魔にならない位置に立って耳を澄ます。
哀愁たっぷりの、それでいて内なる情熱を爆発させたかのような一彰の演奏には、一番近くで聞いている親子も、その音に足を止めて聴き入り始めた周囲の人々も驚きを隠せないようだった。
目を閉じ、演奏に合わせて身体を揺すっている一彰から奏でられる音は、普段の彼を知る者からすれば信じられない程情感に満ちている。それは彼自身が憧れていた将来の姿だった。…閉ざされた道だと思い、もう1つの事件とも相まって7年間自身の中に封印してきたものでもあった。
*****
『――何だよ、音楽辞めたんじゃなかったのかよ』
『推薦も蹴ったんだろ?何で今も未練たらしく持ち歩いてんだよ』
学校からも期待され、度々メディアにも取り上げられていた一彰に憧れる女生徒が多くいた。そうした状態を面白くながっていた彼らには、一彰が見る影も無く精彩を欠いた事は非常に愉快な事だったらしく、また、それまでにもあった嫌がらせを防いでくれていた学校側にとっては、有名大学の推薦を蹴飛ばした事で一彰を庇うメリットが無くなったとばかりに放置されていたため、卒業するまでも、そして卒業してから働き始めた後でも、顔を合わせれば何かとちょっかいを掛けられていた。
そんな、ある日の事。
ひと気の無い場所で彼らとまた出会ったのは、運が悪かったとしか言いようが無い。
おまけに悪いことに、たまたま用事があって持ち出していたバイオリン…今では親の形見になってしまったそれにも目を付けられてしまい。
『やめ――やめろおっっ!!!』
小突かれても無抵抗だった一彰が唯一顔色を変えた事を面白がった彼らに、修復不能なまでに叩き壊され、散々踏みにじられた。
その時、最後の心の拠り所であったバイオリンと、その先に見えていたもの――かすかに残っていた未来への希望までが粉々になった、そう思っていた。
*****
15分あまりものちょっとした長さを持つこの曲は、一彰がコンテストのために連日連夜練習し続けた曲。変奏曲と言う意味あいの、『バッハのシャコンヌ』だった。
ただ、当時のレッスンを受け持っていた指導者からは、情緒が足らないと酷評されていたのだったが――。
「………っ」
最後のひと弾きを終えて、ふうっ、と大きく息を吐く一彰。気付けば、演奏中に感極まっていたのか、長い睫が冷たく濡れていた。
「……」
それが気恥ずかしくて、慌てて服の裾で目元を拭う。
だから、気付かなかった。
自分の周りをどれだけの人間が取り囲んでいたかを。
――ぱち、ぱち、ぱち。
「―――え?」
すぐ近くで拍手が鳴り響いた直後、
わぁあああっっっ……
凄まじいばかりの拍手と、褒め称える声、それに…ちゃりんちゃりんといくつもの小銭が上から降り注いで、流石に驚いて目を見張り――ついで、すざっ、と一歩後ずさる。
人の壁が幾重にも重なっていて、全くその向こうが見えなくなっていたのに驚いたのだ。
「凄いな、兄さん。音楽を聞きに来たんじゃない連中を観客に付けるなんて、そう簡単に出来るものじゃないぞ」
そういう男も、何となく目が潤んで見える。
「よし分かった。これなら十分釣りが来る、――このバイオリンは兄さんにやるよ」
「え――でもそれでは貴方が困るだろう」
「いいや。…見ろよ、足元」
言われるままに下を見て、気付いた。石畳の上に散らばるきらきらした輝きを。
「兄さんの演奏代を、観客が払ってくれたのさ。残りは俺が払う。――なに、この楽器を託すには十分すぎる相手だからな。娘も異存はないだろう?」
「うんっ!凄いよ、宮廷音楽家より凄いんじゃない、お兄さん?」
あははは、と楽しそうに笑った娘がもう一度にこりと笑って、
「いい演奏ありがとう。お父さんよりいい演奏聴いたのなんて久しぶりよ」
「親に向かってなんて言い草だこいつめ。そう言う訳だ、このケースと磨き布に弓、松脂の塊と一通りは揃ってる。さ、持って行くんだ」
こく、と頷くと、口に笑みらしきものを浮かべた一彰が深々と頭を下げる。
「…ありがとう」
「何、礼には及ばないさ」
――演奏が一曲のみと分かったのか、再び元の目的に戻って行った人々が去っていく、その向こうに見慣れた顔を見つけ、一彰がほんの少しだけ困った顔をして近寄って行った。
「本は見つかったか」
その場所にずっといて、一彰の演奏を聴いていた事などおくびにも出さず、古書店の店長が言う。
「…いえ。すみません」
本来の目的は、店に置けるような古書探し。滅多に見つからないものの、時折貴族が家の持ち物をこっそり処分しに来る事もあり、掘り出し物が手に入る事がある。
そのため、店主はこうした古物市には欠かさず顔を出していた。
今日は一彰も店主に誘われて、一緒にやって来たのだった、のだが。
「……今日は掘り出し物は無かった」
それでも数冊の古書を手に、帰るぞとも言わずすたすた帰り始める店主に、ケースを抱えながら慌てて後を追う一彰。
「――今日は…すみませんでした」
「なに」
どさりと本の半分を一彰に渡しながら、ほんの少しだけ穏やかな目で店主が言い、
「詫びはそれでしてくれればいい」
ちらと好意的な視線を、ケースに向けた。
「――――はい」
そして、その日から時折、夜に、静かな調べがどこからか流れて来るようになった。
-END-
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