<東京怪談ノベル(シングル)>


風の色は


 一人の男が、丘に寝そべっている。
 仰向けになり、組んだ腕を枕にして心地よさそうに目を閉じていた。
 横たわった状態でもなお、かなりの長身だとうかがえる。単に背が高いというだけでなく、屈強な体躯の持ち主だ。涼しさを求めてか、はだけられた上衣から、鍛え抜かれた半身が垣間見えている。
 短く刈った黒髪を風に遊ばせ、すっかり寛いだ様子だ。ひょっとすると微睡みの中にいるのか、腹筋の上下運動はゆったりとしている。
 空は見事な晴天で、木陰に身を投げ出した男に降り注ぐ日差しはどこまでも暖かい。木漏れ日が作りだす陰影が、彫りの深い男の顔立ちを一層際立たせていた。
 実に理想的な昼下がりである。
 穏やかに風は過ぎ、男の頭上で時折鳥が歌う。穏やかな表情を浮かべる男は良き夢でも見ているのか、口元を薄っすらと綻ばせさえしている。瞼に隠された瞳が露になっていたなら、さぞ幸せそうに蕩けていただろうと思わせる笑みだ。愛する者をその腕に抱いていると、そう思える様な。
「先生!」
 しかしその幸福な男の眠りは、突如響いた胴間声によって破られてしまった。丘の下から、声を張り上げた青年が駆けてくる。
 男は夢の片鱗も残さぬ真面目な顔で起き上がると、紅の双眸を声の主へと向けた。
「んだぁ? どうしたよ」
 一体何事かと問いかけながらがりがりと頭を掻き回す。
 次いで一つ、大きな欠伸をした。
「急患ですよ! 結構ひどい怪我をしてる!」
 叫びに近い言葉を聞くなり、男はさっと身を翻していた。先程まで微睡み、覚醒したばかりとは思えない俊敏さでもって青年と擦れ違う。
「俺の診察室にいるんだな?」
「え? あ、はい!」
「知らせてくれてありがとよ!」
 大股で丘を駆け下りながら、片手ではだけていた上衣を適当に合わせる。
 まるで跳ぶように街へ戻っていく男を、急を知らせにきた青年は額に浮いた汗を拭う事も忘れて見送った。
 オーマ・シュヴァルツ。
 これが、医師として知られた男の名である。



 己の仕事場たる診察室には、俄かに人だかりが出来ていた。誰もが、オーマを振り返ると道を空ける。ほっとした顔をする人々に穏やかな表情を向けながら、オーマは人だかりの中心へ赴いた。
 途中、誰かが差し出した白衣を羽織る。
 白いシーツは点々と血の染みを作り、あるいは泥で汚れていた。
「崖から落ちたらしい。ここまで運んできた時には、まだ意識があったんだ」
 患者は、まだ年端の行かぬ少年だった。
 傍らに妹と思しき少女がぴたりと寄り添っている。
「母様に、花をあげようと思ったの……」
 彼女からすれば巨木にも等しいだろうオーマを見上げ、少女はしゃくり上げながら訴えた。綺麗な花が咲いていたのだと。その花は、そこにしか咲いていなかったのだと。
 兄妹は、母親にその花を見せようと思ったのだと。
 力なく横たわる少年の手には、その花がしっかりと握り締められていた。薄青の、空に透かしたガラス玉に似た、可憐な花だ。
「嬢ちゃん。ここは俺に任せて、花が萎れない様に面倒みてやりな」
 そっと少年の手をこじ開け、オーマは花を少女に手渡した。労わる様に少女の頭を大きな掌で撫で、そっと周囲の大人たちへと委ねる。
 振り返りながらも人の輪に呑まれてゆく少女に背を向け、オーマは患者へと向き直った。
「大した坊主だなぁ、お前さんはよ」
 意識のない少年へ微笑みかけ、オーマは擦り傷のついた額を指先で撫でた。
「そいじゃ、始めるか」
 呟いた時にはすでに表情は引き締まり、彼は一人の医師へと変貌を遂げている。
 まずはざっと傷を検分し、消毒を施す。小さな擦り傷その他は少年の自然治癒力に任せれば良い。強いて必要がなければ、空気に当てて乾燥させた方が治りは早いはずだ。
 問題は、比較的大きな打撲や傷だ。
 出血のひどい傷は幸いなかったが、打撲はあちこちに痣を作っている。自然に治ると言えなくもないが、このままでは動くのに支障がでるだろう。
 少し考え、オーマは少年の上に手をかざした。
 紅の瞳を伏せ、意識を集中させる。傷を癒す魔法を行使する為だ。
 オーマの集中が高まるのに呼応するかの如く、少年の身のあちこちに広がっていた痣が消えていく。
 ついでにいくつかの目立つ傷を癒した頃少年が瞼を震わせた。
 覚醒の兆しに、オーマは魔法の行使を止める。
「花は無事だぞ。妹もな」
 やがて瞳を開いた少年へ、オーマは真っ先に彼が気にかけているだろう事柄を告げた。にやりと笑って、頭を撫でてやる。
 少年の瞳は、風の色を思わせる澄み切ったライムグリーンをしていた。



END