<東京怪談ノベル(シングル)>


++   片隅に   ++

 思い出したのよ
 あの時 あの場所で
 この人を選び
 この人と共に歩もうと 心に決めた事を

 思い出したわ
 これまで私は……どうしてこんなにも大切な人のことを忘れていたのかしらね?
 ルベリアの輝石が無ければ きっと…想い出す事も無かったのかもしれないわ。

 それでも

 時は過ぎたのよ
 今更何を言おうというのかしら?
 私は  彼は  もう 戻れはしない
 望んだ「嘗て」のあり方
 心の中に在る過ぎし日の笑顔――
 貴方が笑うのが好きだった
 幸せだと  思っていた

 でも、今は

 もう「過去」へは戻れはしない
 「嘗て」などにはもう帰れない
 私は変わった――「彼」も
 捨てきれぬ想いや割り切れない事、どうしてだろう―――
 「忘れられない気持ち」を忘れていた私には 言う資格は無いけれど
 それでも  「好きだった」「愛していた」――口には出ない
 その言葉の全てが「嘗ての自分」でしかないのだから。


「ユンナ」

 誰かが呼んだ 記憶と重なる声。

「ねぇ、キミは……本当に」

 本当に、何……?

「僕はね、ユンナ」

 穏やかな声―――


 暖かな日の光を浴びてこっちを見ている――優しい笑顔。
 ずっと友人だったというのに、何時の間にか自分の中でも近くに感じられた。
 彼の触れた自分の頬をそっと手の平で覆うと、少しだけ困惑したような、微かに、緩やかに…心をかき乱されるような気持ちになる。
 いつも不安だった…「何か」を無くす事が。
 いつも後一歩という所で踏みとどまっていた。
 「無くした」事自体を忘れて とても強くなど在れはしなかったから
 でも、今は―――「無くす事」の哀しさや辛さ 切なさと苦しみ それらを踏み越えて、もっと強くなれる。
 振り返るかもしれない、けれど――

「「好きだった」と「好き」とでは大違いだものね」

 くすりと微笑む少女の横顔に 春の蝶々がふわりとはためいて天高くへと飛んでいった。


 もう「嘗て」へは戻れない
 けれど 嘗てを「想う」事はできる
 それは今在る全てとは異なるものだけれど
 どちらも選べないほど「大切なもの」
 それが永遠というものの形――そうでしょう?


「お前らしいな」
 そう聞こえた気がした。
 それだけでユンナの心は少しだけだけれども、軽くなった。



 彼女は「依頼人」の指定の場所へとたどり着くと、すっと背筋を伸ばして周囲を見回す。
「……時間通りだわ。どうして来ていないのかしら。女を待たせるなんて最っ低ね!!」
 普通は先に来て待っているものでしょう? 何をどう間違ったらこの私が「あんなの」を待っているだなんて事になるって言うわけ!?―――などと、ユンナはぶつくさと一人で文句を言っている。
 今日はその「依頼人」が、ユンナの美声を是非聴かせたいという人間が居るというので、特別公演を開く事になっているのだ。
 会場は秘密。当日待ち合わせをしてそのまま自分が連れて行くと言った――あの優男、まかり間違っても「詰まれた金が良かった」からであり、決して慈善の意を持って承諾した訳ではない、と彼女は豪語する。
 ユンナは柔らかな桜色の髪の毛を春風になびかせると、大きな瞳を瞬かせてふわふわと宙を舞う蝶々に視線を送った。
「病気の彼女が居るだなんて言うからよ……」
「はい。ありがとうございます、お優しいんですねぇ」
 ぼそりと呟いたところで、背後からその男が現れた。ユンナはびくりと体を引き攣らせる。
「ちょっと貴方! 盗み聞きなんて真似をして恥ずかしくないの!?」
「盗み聞きだなんて人聞きの悪い…丁度ここへ来て、声をお掛けしようとした時にユンナさんが口になされたんですよ」
 人の良さそうな笑みを浮かべながらそう口にする男は、慌てて走ってきたのか、額に汗を浮かべている。
 呟き事を聞かれてしまった動揺は、少なからずユンナの出端を挫いたに違いない。
「女性を待たせるだなんて最・低・よ!! 一体どういう「躾」を受けてきたのかしらね??」
「はは、済みません。すぐにご案内しますから…」
 決していい男という部類には入らないし、お金持ちそうでもない。でもユンナに提示してきた額は大した物だった――という事は、見た目に反して結構な額を持っているということだろう。ここは高圧外交だ。
 ユンナは乙女の秘め事(?)を聞かれてしまった腹いせに、よからぬ考えを更にその奥に秘めながら、柔らかな桜色の装飾を施した爪をした人差し指で唇を艶っぽく撫でつけ、くすりと意味深に微笑を浮べた。
「おやぁ…? 怖いですねぇ」
「(美しい私に向かって)一言多いわよ」
「はは。実は先にお話しておかなくてはならない事があるんですが…」
「あら、何よ。下らない話だったら許さないわよ? 今、この瞬間に、美しいこの私と肩を並べて立っていることで既に貴方は罪を犯しているのよ?? これ以上の罪の上塗りはやめておくべきだわね」
 確かに服装面から見ても美しく着飾っているユンナに比べて、彼は少々もっさい感じである。
 高圧外交開始。
「……はは」
「どうしたのよ、早く言いなさいよ」
 二人は「会場」へと向かいながら、話を続けた。
「実は、少し言い辛いんですが…会場というのは療養施設の方でして」
「何よそれ?」
 ユンナの眼光に鋭い光が走った。
「いえいえ、本当は気持ちよく歌っていただこうと思いまして、店を一つ貸しきる手はずを整えていたのですけれど…彼女が、動きたくないようでして…」
「貸し切る!?」
 これは相当のお金持ちに違いない。人間見た目ぼんやりのとても「そう」は見えないような相手でも、分からないものである。
 ユンナはにっこりと妖艶な微笑を湛えると、男性をじっと見据えた。
「……なんでしょうか?」
「特別出張にあたるわね、大体にして依頼した相手に場所の詳細を伝えておかないなんて、おかしいと思っていたのよ」
「はは。済みません。こういう事も想像していたものですから、一概にどことは言ってはおけなくって……特別出張ですか……ギャラを上乗せする形でいいですかね…?」
「……仕方が無いわね.それで我慢しておいてあげるわ」
 内心「してやったり」である。ユンナは先程とは打って変って聖母のように優しく微笑みかける。
「ユンナさんはおきれいですねぇ」
「当然だわ!」
「………はは」
 それさえなければ、もっといいのに……などと男が思ったかどうかは定かではない。


 療養施設は周囲を自然に囲まれ、とても美しい風景の中にあった。
 草木の緑に川のせせらぎ――そこに忽然と現れる白く美しい、清潔感の溢れる建物。
「なかなかいい所じゃない」
「ありがとうございます」
「貴方を誉めたのではなくってよ?」
 こういう台詞をさらりと言う、きょとんとした顔の女王様を見て、「あぁ、これがこの人の素なんだな」と、男性は心の中で呟く。
「はは。ここは僕が彼女の為に設計したんですよ」
 それでもうまく惚けて見せる所はなかなかのやり手だろう。
「………貴方、相当のお金持ちのようね?」
「それなりに。あぁ、ギャラの方は御安心下さいね」
「ふふっ期待してるわよ?」
 ユンナは機嫌よく療養施設の門を開いた――
 しかしそこは外見とは裏腹に一切光のさしては居ない、薄暗い爽やかさの欠片も無いような部屋だった。
 男性は薄暗いながらも、ベッドの上に座っている女性らしき人物の方に顔を向けると優しく微笑んだ。
「またカーテンを全部閉めてしまったんだね…済みません、ユンナさん。今準備をしますから」
「…えぇ」
「開けないで!!」
「どうして? 太陽の光を浴びないと元気になれないよ? それと、前に話しておいたけど、彼女が有名な歌姫のユンナさんだよ。今日は特別に君の為に歌いに来てくれたんだからね? ちゃんとお持て成しをしなくては失礼だろう」
「そんな人帰らせてよ!! 私は明るいのが嫌いなの!!!」
 そう言いながらも彼女はユンナを一瞥しようともしない。
 おまけに「そんな人」という台詞に少しカチンときたユンナは、赤を基調としたきらびやかなドレスを靡かせ、身につけたアクセサリーをしゃらりと鳴らしながら、女王様オーラ全開で女性の元へと歩み寄っていた。
「何よっ来ないでよ!! 私は貴方の歌なんか聴きたくなんて無いわ!! そんなお飾りの言葉なんて御免よ!!!」
 そう言いながらも尚も彼女はユンナの方を見ようとはしない。
「「弱って」いるようね? 貴方…」
「えっ……?」
 女性はぴくりと体を揺らすと、初めてユンナの姿を真正面から捉えた。
「漸くこちらを見たわね、お嬢さん? 私が「眩しい」という気持ちもよーーーーっく分かってよ?」
「ユンナさん、そういう意味ではないかと……」
 男の突っ込みにお黙りっ! とばかりに一瞥をくれると、ユンナはふっと微笑を零して彼女の瞳を真っ直ぐに捕える。
「…………そうなんです」
 思わず呟くようにそう口にした女性は、はっとして口元を両手で押さえた。
 そんな彼女に、ユンナは紫色をした目を少々細めて唇から笑みを零した。
「今更隠す事なんて無いのよ? 私にはもう「わかって」いるのだから。貴方の心に巣食う闇や、伝えられない想いなんか……をね?」
 ユンナは彼女の双眸の中に在る一つの輝きを見とめ、長い睫毛を振るわせるように瞬きをする。
「いうべき事はちゃんと言うべきじゃないかしら? 少なくてもそうやって一人で考え込んでいる時間が減るわ。解るかしら? 貴方は随分と若いのに…そんな事で時間を浪費していていいの?? きっと後悔するわよ?」
「……ねぇ、何か言いたい事があるなら言ってくれて構わないんだよ?」
 男性が後押しをするように彼女に語りかけると、彼女は顔を俯けて小さな声で呟いた。
「私はもう長くないのでしょう?」
 その言葉に驚いた男性は、思わず女性の方へと駆け寄る。
「そんな事無いよ。君さえ治す気になってくれれば、ちゃんと頑張ろうって思ってさえくれたら、すぐに良くなるんだ」
「嘘よ…だって、私……聞いたもの」
「聞いたって…何を?」
「貴方とお医者様とのお話よ!! お医者様が言っていたもの、「このままじゃ駄目だね」って!!」
「それは……そう言う意味じゃなくって…、本当にちゃんと治るんだよ?」
「嘘よ!! そんな嘘つかないでよ……私、これ以上貴方に迷惑かけたくないもの、この療養施設だって、貴方が……」
「……「だから」ここから出たくはなかったのね?」
 二人のやり取りを静かに見守っていたユンナは、柔らかな笑みを浮かべて女性を見つめる。
 彼女はユンナの言葉にこくりと首を頷けた。
「貴女……この人のことが本当に大好きなのね」
「……そんな」
 女性は顔を赤らめながら首を左右に振った。
「要するにそういう事なのではないかしら? 」
「え……?」
「医者がした事よ。今の貴女みたいな行動だったのではないのかしらね?」
「ユンナさん? 一体どういう意味…?」
 女性はわからない様子で首を傾げている。
 ユンナは困った子ね、と苦笑を洩らした。
「貴方は今、私に彼が好きなのね、と言われて顔を赤らめてそれが事実である事を証明しておきながら、首を左右に振ったわ。……まだ解らないのかしら? これ以上無粋な事を私に言わせないで欲しいものね」
 そこまで言われてから、女性は「あ……」と小さく呟いた。
「まさか…そう言うことなの?」
 女性が男性をじっと見つめると、男性は強く首を頷けた。
 そう、女性は医者の言った「このままじゃ駄目だね」という言葉をそのまま治らないという意味に取ったのだが、その言葉に実際は「「彼女自身が」このままじゃ駄目だね」、という意味が隠されていたのである。
 女性は自分の勘違いを恥ずかしそうに、顔を真っ赤にして俯いた。
「ユンナさん…御免なさい、貴方の歌を聞きたくないだなんて言ってしまって…」
「あら、それも失礼だけど、貴方はもっと失礼な事を言ったとは思わない?」
「あ…あの……」
 戸惑うようにユンナを見上げた女性は、小さく御免なさい、と力無く言った。それが今の彼女の精一杯だったのだろう。
「いい? 歌う事は想いを伝える事よ。
想いを伝えるという事は、少なからず伝えたいと思うような強い心があるという事なのよ? 彼は貴方の為に私を呼んだわ。汗だくになって、走り回って、貴方の為に私を呼んだの。いい事? 彼が私を呼んだということは、私は歌う為にここへ来たのよ。私の歌は彼の想いとは直接的に繋がっては居ないけれど、彼が貴方を想うからこそ私が歌うのよ?
今この瞬間の歌は、想いは、貴方の為に紡がれているという事なの。それだけは解っておいて欲しいものだわね」
「……済みませんでした」
「解ればいいのよ。さぁ、そろそろ私のステージの用意をして頂けるかしら?」
 ユンナは男性の方に視線を流すと、男性ははっとした様子で返事を返した。
「お待たせし済みません、すぐに用意します」
 そう言って男性は部屋中のカーテンを開け、窓を開け放った。
 太陽の光が差し込み、天井の大窓の下へ立ったユンナの、色白な肌を暖かく照らし出す。
 「なかなかいいステージじゃないの」ユンナは準備を終えて女性の横に腰を下ろした男性に視線をやった。
「ありがとうございます」
「……ついでに言っておくけれど、私の歌をその辺の安っぽい喋り言葉と一緒にしないで頂・戴・ね?」
 極上の笑顔をおまけにつけてあげると、ユンナは少々怯えた顔をしながら身を寄せ合った二人を微笑ましそうに眺めながら、今、この場の静けさに合った美しい曲を歌い始める。

 風と共に舞い上がるように 天を舞う蝶を優しく包み込むように
 太陽の日差しの温かさ そして流れ出す水の奏でる涼しげな音――
 全ての存在と調和し 時に押し上げるように 時に緩やかに、旋律を奏でる。
 一匹の蝶々が開け放たれた窓から部屋の中へと誘われ、ユンナの周囲を ひら ひら と緩やかな曲線を描きながら一回りした。

 一曲を歌いあげたユンナは、彼女の方を真っ直ぐに見据えた。
「辛くても、決して負けないで頂戴。貴方には、こんなにも強くて優しい人がそばにいるじゃないの」
「――はい、ありがとうございます!」
 女性の頬に涙が伝い、彼女は終始感激した様子で笑顔を浮かべては、しきりに涙を拭っていた。
「ユンナさん、素敵な歌をありがとうございました。まるで僕の気持ちをそのまま汲んで下さったかのような歌声でした――きっとユンナさんにも、強く想う誰かがいらっしゃるのですね」
 笑顔で伝えられた言葉に、ユンナは只でさえ大きな瞳を更に見開いた。
「そ……そんな人、居な」
「是非お会いしたいですね…今度お二人でいらしてくださいよ。あぁ、僕がお迎えに上がりますね? いつにしましょうか?」
「是非私もお会いしたいです。ユンナさんの想い人の方に」
「ちょっと、一体いつ どこの誰が想い人が居るなんて言ったのよ!!?」
 声を荒げてみせてもユンナの動揺は隠し切れない。今後暫らく――ユンナの生活はこの二人に騒がされそうである。




――――FIN.