<東京怪談ノベル(シングル)>


多忙な一日

「はぁっ?! 往診してくれだって?」
聖都エルザードにあるシュヴァルツ病院の診療室から素っ頓狂な声が上がった。
この病院の院長であるオーマ・シュヴァルツは今、一人の持病を抱えた老婆の検診をしている最中だった。
今日は特別、いつもより人が多かった。
空はどんよりと重たい雲をまとい、地上にシトシトと雫を零しているせいなのだろうか。いつもの倍以上の患者が病院に詰め掛けてきていたのだ。
そんな中にひょっこり訪れてきた一人の中年男が順番など無視してオーマのいる診療室に駆け込んできたのだ。
「娘が大変なんです。このところずっと高熱が続いていて、私の村の医者ではとても手に負えないらしいんです! もう命も危ないとか…。ここならいいお医者様もいるって聞いて…。お願いです! オーマ先生、どうかアクアーネ村に来てください!」
「んなこと、突然言われてもなぁ…」
オーマはちらりと目の前の老婆に目を向けると、老婆はしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにしながら、微笑んだ状態のままゆっくりと何度も頷いている。
「…バアさん?」
何やら老婆の動きがおかしい…。そう思ったオーマが老婆の肩に手をかけた。
カクンっと力なく崩れ落ちる老婆をオーマは慌てて支える。

―――寝てる…。

「……っなんだよ! こら、バアさん! こんなところで寝るなよ!」
「先生?」
そんなオーマの傍にいた看護士は、遠慮がちにもオーマに声をかけた。
「大丈夫ですよ。ここには他にも医師がいますし何とかなると思いますから。緊急そうですし、早く行ってあげてください」
「……そうか? じゃあ頼む。そう言うわけだ。俺は準備して行くから悪いけど先に村に戻っててくれねぇか?」
「はい! ありがとうございます!」
男は嬉しそうに何度も頭を下げると、病院を後にした。

◆◆◆

オーマは解熱剤や抗生物質など、一般的に必要と思われる薬を袋に詰め込み支度を整えて一路、アクアーネの村を目指して歩き出した。
「ひゃあ〜、雲行きが怪しいぜ。こりゃあ、大粒の雨が降るなぁ」
オーマがアクアーネへの道のりを急ぎ始めたとき、唐突にバケツをひっくり返したような大雨が降り注いだ。
「うあぁ〜〜〜〜っ!! やっべぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
突然降り出した大粒の雨に、オーマは手にした荷物を濡れないように体で庇い、びしょ濡れになりながらもやっとの思いでアクアーネ村にたどり着いた。
「やっべぇやべぇ、ほんとに水も滴るいい男になっちまった〜」
村の入り口のそばにある民家の軒下でパタパタと衣服に滲み込んだ雨を払う。ツンツンと立っていた髪は雨ですっかり寝てしまい、袋を持っていない方の手で掻きあげる。
水の都と謳われ、普段は美しい水の輝きを見せるこの村も、集中的に降るこの大雨のせいで視界は薄暗く霞み、普段の美しさなど感じられないほど淀んでいた。
「あ、オーマ先生!」
そこへ病院に訪れてきた男がオーマを見つけ、傘を片手に走りよって来る。
「そろそろおいでになるころかと思っていました。…大丈夫ですか? こんなずぶ濡れで…」
「おう、気にするな。男に磨きがかかっただろ?」
ニカッと微笑むオーマの姿に、男は思わず言葉を失くしてしまう。
「………」
「何だよその反応は!? おまえには分からないのか〜? このビューチホーなマッスルボディの魅力が…」
「せ、先生…とにかく私の家はこちらです」
オーマの言葉を遮るように男はオーマを自宅へと案内した。
村の隅に小ぢんまりと立っていた民家の玄関をくぐると、暖かな空気がオーマを包み込んだ。必要以上の電気はつけてはいない。たった一つの部屋を除いては。
オーマが男に連れられてその部屋へ入ると、ベッドに苦しげに息を荒げる13歳くらいの少女とその母がいた。
オーマはさっそく持ってきた荷物をベッドの傍に置き、少女を覗き込む。
「どれどれ…」
少女の脈、呼吸の確認、熱の高さなどその他の症状をさっと診たオーマの弾き出した答えは一つ。
「病気ではないようだが…。特別変わったことはなかったのか?」
「変わったこと…ですか?」
「そう。例えば、こうなる前に何か喰ったとか、怪我したとか、色々あるだろ?」
「そう言えば…」
その話しを聞いていた少女の母親が、ふと思い出したように口を開いた。
「この子、何も言わないから大したことないんだろうと思っていたんですけど、数日前に腕に怪我をして帰ってきたんです。見た感じじゃ血もそんなに出ているようではなかったので、軽く消毒だけしてあったんですけど…それがもしかして…?」
オーマは母親のその言葉を聞くと、少女の服の袖をめくり上げた。
そこには、もともと小さかったであろう傷がすっかり豹変していた。
赤紫色に腫れ上がり、パンパンに膨れ上がっている。
ところどころ白っぽく見えるのは、明らかに傷が化膿していることを証明している。
「こりゃ…ひどいな」
オーマも一瞬言葉を飲み込んでしまう。
白く細い腕が2倍以上に腫れ上がっているのだから無理もない。
「こんなになるまで気づかなかったのか?」
「いいえ…。何度もお医者様に連れて行こうとしたんですけど、この子が嫌がって絶対に行こうとしなくて…」
その言葉を聞いたオーマはカッと目を見開き、軽薄な夫婦を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎っ!! だからってこのままほったらかしといたのか!? こんな風になる前に親だったら子供が嫌がってでも病院に連れて行くモンだろうがっ! 何かあってからじゃ遅いんだぞ!」
「……す、すみません…」
オーマは苛立ちを覚えながらも少女に向き直った。
ほったらかしておけば、こうなる事くらい始めから予測は付いたはず。
オーマは少女の赤く腫れ上がった傷に手をかざした。
「………」
全神経を手先に集中する。
命に関わるかもしれない重大な怪我を、少しでも抑えることを最優先させなくてはならない。
手のひらに暖かい気が流れ込んでくる。オーマの回復魔法…。
それは次第に大きく膨れ上がり、少女の腕に出来た腫れ物を優しく包み込み始める。
しばらくするとその傷口から血膿がジュクジュクと溢れ出し、少女の横たわるベッドを湿らせた。
「よし」
オーマがそう呟いた頃には、少女の腕の腫れはすっかり引き、傷跡もほとんど残ってはいなかった。
「ひとまずもう大丈夫だろう。まだ熱は下がりきらないだろうがもう心配ない」
「良かった…」
「3日分の薬、置いていくからな。今度からおかしいと思ったらもっと早く対処するんだぜ。俺は病院の方が気になるからもう帰るが、大丈夫だな?」
「は、はい。ありがとうございました」
オーマは持ってきた薬を夫婦に手渡すと急いで村を後にした。

◆◆◆

「せ、せんせぇ〜〜〜〜〜〜っ!!」
オーマが急いで病院に戻ると、出かける前以上にごった返し、時々怒ったような声が飛び交う患者の数にオーマは愕然としてその場に荷物を取り落とした。
そこにオーマをアクアーネ村に向かわせた張本人が慌ててやってきた。
「すみません! 大丈夫だと思ったんですけど、ほんとに凄い人で…。あんまりにも凄くていつまで待たせるんだとかで、お客さん怒ってしまってとにかくもう、めちゃくちゃなんです〜!」
「っだぁあぁあぁぁっ!! おまえら余計な仕事を増やすんじゃねえぇ〜〜〜〜っ!!」
病院内にオーマの悲痛な叫び声が響き渡った…。