<東京怪談ノベル(シングル)>


++   苦難の道程   ++

「何故だ……」
 何かに襲われたのか、ボロボロに破けた衣服を纏った男が一人、立っていました。
「どうしてだ……」
 擦り傷だらけの姿で、彼は呆然として立ち尽くしているのでした。
 ぶつぶつと何故だのどうしてだのと一人答えの返らぬ問答を続けています。
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
 という通りすがりの人物の声も彼の耳には届かず、寸でで風に流されて消えてゆきました。
「あぁ、もう駄目かもしれない……!!」
 言うや否や彼はがくりと膝をついて頭を抱えました。
 いつになれば周囲の声が彼に届くのか……謎ですね。



 あの雲の様に ゆらゆらと――漂っていられたらなぁ……

 ぽか ぽか

 温かな日差しを浴びて それはそこに居ました。
 ふわふわの白い綿毛みたいな毛並み。
 粉砂糖を振ったかのようなやんわりとした外観。
 真ん丸い葡萄粒のような瞳。
 彼はその生き物を見つけた瞬間に、恋に落ちてしまったのでした―――

「…………………何してんだ、おっさん」

「……………………………………………………」


 す〜りすりv
 う〜りうりVv


 彼は問い掛ける甥の言葉にも反応を見せずに、その子に夢中でした。


 む〜ちむちv
 ぷ〜りぷりVv


 気色の悪い笑みを浮かべて、ひたすらその子に頬擦りしています。
 この異様な光景を目の前に、流石の甥も口の端をひくつかせて乾いた笑いを浮かべました。

「病気だ病気だとは思ってたケドな…こんなヤベェ病気だとは思ってなかったぜ、おっさん―――まぁ、その……辛い事がアンなら偶には俺が聞いてやってもいーケドな…?」

「………………………………………」

 む〜きむきv
 ほ〜れほれVv(一体何してんだアンタ)

 何だか分かりませんが甥は目を細めてその場を後にしました。
 関わらない方が得策だったでしょう。事実、その通りだったのです―――


「おっし!! 散歩でも行くか!!」
 突然覇気を取り戻したおっさん……オーマ・シュヴァルツが、真っ白な小さな仔犬をその手に抱えて満面笑顔で、かくも人とはここまで爽やかになれるものか……と、学者達を唸らせる程までにキッツイ爽やかさで、しかし出る時はこっそりと―――何か赤い恐怖に怯えるかのように門を潜って出て行ったのでした。
 家に帰ってからのお仕置きが彼の中での恐怖NO.1でしたが、今はそれ所ではありません。
 彼の中の赤い恐怖は、真っ白な仔犬の可愛らしい色に染めあげられたのです。間違いなくドスのきいた濃いピンク色になった感じは否めませんが…それでもオーマはそれを白いと感じるほどまでに感覚が麻痺していたのでしょう。

 彼はそうして春の野花が咲き乱れる草原にやってきました。
 そこへ仔犬を放してやると、その子は嬉しそうに小さな尻尾を左右に振りながら辺りを駆け回ります。
 程なくしてその子は、その光景を異様に優しい瞳で見守るオーマの元へと戻ると、その足下で「おすわり」をしました。
 きらきらと輝く愛らしい瞳に、微かに左右に振られる尻尾―――オーマの心臓はこの時ときめきMAXに満ち満ちており、仔犬の背後に柔らかに滲み通るような後光的エフェクトを自分の目の中で作っていたのでした。
「かんわいぃ〜なぁ〜〜」
 腹黒炸裂笑顔で仔犬を抱え上げ、彼は再び う〜りうり むぅ〜きむき と、桃色頬擦りを始めたのです。もう「これ」が誰なのか、分かりませんでしたが、唯一言えることがあります。知り合いが通りがかってももう誰も声を掛けてはくれないでしょう。
 この光景がそれほどの腹黒怪しさであった事は否めません。
 彼は程なくして仔犬と辺りを駆け回り始めました。
 それはもう嘗て無いほど楽しそうに、うふふあははと……じゃれていました。大男と、彼のその大きな手の平に、くるりと丸まればすっぽりと入ってしまうのではないかと思われるほどの、小さな仔犬が。
 オーマは最初子犬を筋肉追いかけていましたが、いつの間にやら子犬にマッスル追いかけられ、仔犬特有と思われる執拗なまでの執着心で地獄の果てまで追いかけられていたのです。
「ははは、楽しいなぁ、何だか普段とかわらない気がしないでもねぇが…」
 時間が経つと共に、仔犬の姿が大きくなってきているように見えます。
「ははは、おまえはいつからそんなに大きくなったんだ?」
 爽やかな腹黒親父の額から爽やかな汗がキラリと風に吹かれては宙で輝きを放っています。
 仔犬は仔犬――ですが、その大きさは異様なものでした。
 愛らしい顔のまま、あの毛並みのまま、尻尾のまま、瞳のままで―――いつの間にやら体重と骨格は数百倍。どっしんどっしんと大きく大地を揺さぶり、時折オーマの足が地面につく瞬間と、大きな揺れとが重なり、彼は思わずよろめきながら尚も駆けて行きます。
 お互いに筋肉質に腹黒しつこいのです。要するにマッチョなのです。
 不意に「今だ!!」と言わんばかりに仔犬が前足を振り上げ、オーマの捕獲にかかりました。
「ぬをををををををををっっ!!!」

 ずっず〜〜ん!!

 かわすのも必死です。何故ならば仔犬だけに容赦無く、己の持てる全ての力を使って「全力で」飛び掛ってくるのですから。
 普通の仔犬ならば「つかまっちゃった、うふふふふ」で済ませるのもどうってことはありませんが、このサイズともなると……遊びで生死を賭ける事となってしまうのでありました。
「くっっ……なかなかやるじゃねぇかよ……!!」
 どうやら彼も本気になってきたようです。いえ…端から本気だったのかも知れませんが。

 ぶぉん ぶおんっ!!

 と、派手な音をさせて仔犬が尻尾を振ります。
 過ぎた好意は時に狂気を呼びますが――今では仔犬の「ハッハッハ」という息を付く音ですら殺人的でありました。
 これでは、いい加減相手をするのにも骨が折れる――
 オーマは息を荒くつきながら、ほふく前進で尻尾ぱたぱたにじり寄る仔犬から、じりじりと後退りしながらも距離を保ちました。
「仕方ねぇなぁ……」
 オーマはマッチョな爽やかさんでにっと微笑むと、そろそろ日も暮れて暁色に染め上げられた草原でその力の一端を解放しました。
 爆風に草が凪ぎ、仔犬の白い綿毛のような毛並みも草原のように ふわり ふわり と風にゆれました。
 仔犬は少しだけ、目をぱちくりとさせながら彼――オーマ・シュヴァルツをじっと見詰めています。
 目の前の人物が、突然銀色の髪を風になびかせながら、黒基調のサイバーパンク的な衣装を身に纏った、シルバーアクセジャラジャラで赤い瞳を怪しく輝かせた青年へと変貌を遂げていた為です。
 背丈は先程のおじさんとほぼ変わらないのですが、青年らしく背に見合った筋肉がついており、すらりと立つ様は先の親父姿よりも素敵に引き締まって(?)おりました。
「腹黒驚いたか? 大丈夫だぜ、何にも変わっちゃいねぇ、おまえの愛しのマッスル親父筋ですよ〜?しかしよ、まだまだ変わるぜ〜? おまえとの筋肉的ラブのため、腹黒き平和のため、俺はおまえの父さんになるっ!!」
 彼はビシッと親指を立てて万事オッケーとばかりに白い歯を輝かせました。
 脳味噌の中身までは取り替えられなかったようです。
 待ちきれずに飛び掛ってきた強大な仔犬を瞬間、背負い投げして宙へと放ると、彼はそのまま再び力を解放し、先程よりも更に凄まじき威圧感を持った風を放ちながら――なんと、翼を持った巨大な銀色の獅子へと姿を変えました。
 起き上がった仔犬は鼻をヒクヒクとさせながら、何やら超巨大なその生き物を見上げます。体長は建物十二階相当といったところでしょうか。しかしながら…何と言ってもその注目点は、おそらく体長に見合って増大した腹黒イロモノ親父愛でしょう。
 さ、こ〜い! とばかりにその銀色の獅子親父は尻尾をぐるりと振り回しました。
 仔犬はその姿に恐れをなすどころか、嬉々としてその大きな胸元へと飛び掛っていったのでした。

 ごんごろごろごろごろ

 じゃれまわる二体が、激しく壮絶な攻防を繰り広げながらも辺りを転げ回ります。
 触れ合う端々に、精神感応の力を持った獅子は、仔犬のとても嬉しそうな声を聞きました。
『成る程な…おまえさんは「遊ぶ」とでっかくなっちまう体質なのか…それじゃあ普通の人間じゃあ相手は勤まらねぇだろうな』
 銀色の獅子はその声すらも嬉しそうに聞いてやりました。
『遊んでも、全力でかかっていけねぇなんてのはつまらねぇからな、俺が全力で相手してやるぜ。いつでもな!!』
 子供はその言葉に大喜びでオーマの巨体に正に「子供のように」じゃれ付きました。

 どっしん どっしん
 どっど〜ん……!!

 響く振動は地震さながらに――辺りの人間を慄かせました。
 しかしそんな中、あえてその場を訪れる人物が居たのです。
「病院ほっぽりだして帰ってこないと思ったら……こんな所で一体何をやってんだい、あの馬鹿は…………!!」
「おい、おっさん……一体何がアンタをそこまで追い詰めたんだ……!!!?」
 翼を持つ巨大な銀の獅子が、ほふく前進で巨大な仔犬と草原中を擦り進む様を目にした彼の妻は、巨大な鎌を握りぎらりと鎌と瞳とを輝かせながら彼を追いかけ始めました。甥はその様を成す術も無く――する気も無く、ただただじっと見守って居りました。
『ぐっ……おまえも俺とのラブラブデスマッチに挑むというのか…!?』
 オーマは獅子の姿のまま、異様なまでに巨大化した仔犬に続き、異様なまでにギラついた瞳で鎌を振り回す奥方に追いかけられ、エンドレスなラブにギラリマッチョで答えるのでありました。

 彼らのその姿をひっそりと木陰から見守る男の姿がありました。
 昼間、街中でぶつくさと何故だのどうしてだのと一人の世界に浸りきって悶絶頭を抱えて転げまわっていた人物です。
 彼は近くで楽しそうですが、暇そうにその光景を眺めていたオーマの甥に言伝を頼みました。
「遊べば遊んだだけ巨大になる――その仔犬は、普段大人しくしていれば小さいままですし、遊び終えれば元のサイズに戻ります。断言します。もうその子の相手は貴方にしか勤まりません!!
というわけでその子の事、これからもどうぞよろしくお願いしますね!!」
 そう言ってボロボロの衣服を身に纏った男は走り去ったといいます。
 漸く落ち着いたらしく、まだまだ巨大な仔犬にまたがったぼろぼろ泥だらけの腹黒親父と、彼の首に縄を括った奥方が息を切らせながら呆然とした様子で甥の顔をしばらく眺めていました。
 既に日は暮れ――というよりかは、翌日の朝日が神々しく光を放ちながら、彼らの遊び疲れた頬を優しく包み込んでおりました。
 チチチ…と、小鳥が可愛らしい声で囀っています。
 オーマはニカッと微笑むと、げんなりしたお顔の奥方と見詰め合いました。

 それから――ほぼ毎日、草原では局地的地震が続いているという事です。




――――FIN.