<東京怪談ノベル(シングル)>
空に還りしもの
「くぁ――――……」
ただでさえ大きな体、それの両手両足を思い切り伸ばし、その巨漢は伸びをした。途端に、腰の辺りでゴキ、といい音がする。男はそれがたまらなく気持ちいいようで、何度かその辺りをひねるように体を動かす、と。
「やぁっぱ、ランチタイムはお天道様の下にかぎるねぇ」
しみじみ言いながら、男はその場にいきなり全身を投げ出す。受身だけ取ったが、後は完全に無防備な状態だ。
本日は朝から病院が込んでおり、ようやく遅い昼食を取ったのがついさっき。休憩に、と病院の看護士たちが追い出してくれたので、彼はそれを満喫していた。病院の裏手、少し道の入り組んだ場所に、小さな野原がある。季節の花が顔を覗かせ、真っ直ぐ上から、午後のきつい陽光が降り注ぐ。青い空は、ただ青かった。
が、その巨漢が身に帯びた衣装の色彩が、その場の和やかな雰囲気を根こそぎ覆している。陽光を一身に受け反射を繰り返すそれは、はっきり言って目に毒だった。更に、胸元に飾られているシルバーアクセサリーの光が目に痛い。
しかし、本人はそんな事一切頓着せずに、ぼんやりと無骨な指で黒い髪をかき乱し、赤の瞳を真っ直ぐに空に投げかけている。目元のレンズが、まるで涙のように光を弾いた。
と、その時。
「ぴぃ」
どこか、気の抜けた声が響いた。強大な体がゆっくりと持ち上がり、厳つい面が面白そうに笑みを刻む。お世辞にも、近寄りがたい人種とはいえない。夜中に遭遇すれば、若い女性なら悲鳴を上げただろう。だが、その赤い瞳に踊る光は、どこか茶目っ気すらあった。
「なんだ?」
「ぴぃ」
巨漢の声にこたえるように、それは鳴いた。それは、確かに鳴声であった。
「ん――――……?」
全身を弛緩し、怠慢全開であったため、その声は酷く気の抜けたもの。しかし、彼が気を抜いているかといえば、必ずしもそうとは言えない。
「ぴぃ」
赤い双眸が、確実にそれを見つけ出し、捕食者を思わせる足取りで、巨漢はのっそりとそれに近づいた。
上から、ひょい、とばかりに気軽に覗き込む。そこには警戒心も悪意も害意も見当たらない。
「なんだ、おまえさんか」
「ぴぃ」
巨漢の苦笑したような声に、やっぱりそれは答えてみせた。
白い羽に赤い鮮血を滲ませて、真っ黒な瞳で真っ直ぐに見上げてくる。無邪気としか言いようのない、無垢な存在。
「ぴぃ」
必至のアピールに、巨漢は手を伸ばした。彼の選択肢の中に、それ以外が存在しない。
「巣から落ちて、怪我したのか?」
ん? と驚くほど優しい声で、彼の掌で簡単に握りつぶせてしまいそうなそれは、もう一度「ぴぃ」と鳴く。
オーマ・シュヴァルツがその鳥の雛に出会ったのは、そんな呑気な昼下がりの事だった。
「先生……それ、どうしたんですか?」
苦笑したような呆れたような、微妙な声色でその看護士はオーマの手の内にある生命に気がついた。
結局、近くに巣も見当たらず親鳥の気配もなかったので、オーマが連れて帰ってきたのだ。傷の手当てをしてやりたかったし、放っておけば死を待つだけだ。自然界の掟として、弱い固体はこうやって減っていくのだろうが、眼の前で落ちていれば手を差し伸べずにはいられない。その行動に賛否両論あろうが、彼は差し当たり、他人の意見に無関心だった。
「拾ったっつーか、なんつーか。ま、俺の気性は解ってんだろ? 何か箱とかねぇか?」
「病院は清潔第一なんですよ」
文句を言いながら、仕方ないなぁ、とその表情は雄弁に語っている。野鳥は決して清潔ではない。それを清潔第一の病院に連れ込む事はやはり問題があるが、人間はそう簡単に死んだりしないし、手を消毒すれば問題ない。
よって、その雛は誰にも見咎められることなく、あっさりと病院の一室を占拠した。
オーマは手が開くたびに雛を覗き、傷の具合を診たり、練り餌を与えたり、と甲斐甲斐しく世話を焼く。
「なんていう鳥でしょうか?」
「足は太いし、でっかくなるかもね」
「かわいいー、名前つけていいかな」
彼のその手は、雛には大きすぎるようだったが、特に何の感慨も持っていないようで、掌に乗せられるままになっている。小麦色のオーマの掌のそれは、淡雪のようにはかない存在に見えた。
「ぴぃ」
しかし、生きているのだと、それは鳴く。
確かにここにいるのだと。
「ぴぃ」
「わーってるって。すぐにやっから」
看護士だけでなく、患者にまで手元を覗き込まれながら、オーマは人肌に暖めた練り餌を、針を取り除いた注射器で吸い上げて、一番最初のメモリを確認した。
雛をがっしりと掴みこみ、顔だけが出ている状態にしてから、親指と久指で、雛が鳴いて嘴を開けた瞬間に固定し、少し太すぎるとも思える注射器を喉奥に突っ込む。後はゆっくりとおくに流し込んでやるだけだ。何度か繰り返しているうちに、雛は鳴かなくなった。腹が満腹になったからだろう。
と。
「どうしたよ?」
病院内が静まり返っていた。近くに来て興味心身に覗き込んでいた看護士も、青い顔をして少し距離を置いている。
顔を上げたオーマに、一人の患者が生唾を飲んで、それから口を開いた。
「…………殺しちゃ、いかんぞ」
「鳴かなくなった……死んじゃったの?」
少年が、今にも泣き出しそうに親の後ろに隠れる。
一瞬事態の把握が遅れたが、オーマはなるほどねぇ、と嘯いて、その少年を手招きする。
「生きてるって。ほら、見てみな」
握っていた手を開くと、雛は羽を広げて窮屈さを訴えた。が、確かにその黒い瞳は開かれていて。
『良かったぁ〜』
その場にいた全員の声がはもったのだった。
「おまえら、俺の事なんだと思ってたんだ? だぁれが、殺すか」
ニヤニヤ笑って言うと、それぞれがばつが悪そうに目をそむける。しかし、オーマの大きな手ではあっさりとその雛を絞め殺せてしまいそうだったし、口を無理矢理開いて、その奥に注射器を差し込む姿は、心臓に悪いこと甚だしい。誰もが殺したかもしれない、と危惧したのは仕方のない話であった。
それを解っていたので、オーマも後は何も言わずに、雛を即席の巣に返して、手を消毒する。
「んじゃま、仕事すっかね」
「あ、はい!」
三十分おきに空腹を訴える雛に、そのたびに診療の手を休めて餌を与える。幸い、今日の患者は生死が掛かるような重病人ではなく、病後の経過や、健康診断、薬を受け取りに、と言ったいわゆる常連が多かった為、オーマの行動は許された。
家にも連れ帰り、妻の生暖かい視線を感じながら、彼は雛に掛かりっきりになる。娘は始めてみる鳥の雛に、夢中になった。子供のうちから、命の大切さを教える事が出来たら、とオーマも娘に熱心に指導する。結局、妻も折れて、明日も連れて帰る許可を貰った。
「ぴぃ」
「ちょい待ち、ちょい待ち」
「ぴぃ、ぴぃ」
鳴けばオーマが餌を持ってくる、と理解した雛は、空腹のたびにぴぃぴぃと彼を呼ぶ。その内声まで覚えたらしく、オーマが話しかければ鳴き始める、といった具合になった。
「すっかり、親鳥が板に付いて来ましたね」
「あったぼうよ。俺様を誰と思ってやがった」
「はいはい、オーマ・シュヴァルツ大先生様です」
軽口を叩きながら、オーマは不意に眉を顰める。雛が、どうも餌が多すぎたらしく少し吐き戻したのだ。
「わりぃ、大丈夫か?」
覗きこむと、黒い瞳は何事もなかったかのように、彼を見上げて。
「ぴぃ」
と、また鳴いた。
「どうかしたんですか?」
「いや……」
不意に、何か嫌な予感がした。
当たらなければ、いいと思いながら、オーマはもう一度、今度は少なめに餌を与える。吐き戻すことなく、「ぴぃ、ぴぃ」と雛は鳴いて催促した。
「解ったから、そう急くな」
苦く笑って、オーマは、自分の胸の奥にある何かを笑い飛ばそうとした。
「けど、大きくなったらどうするんですか? その雛」
「そうだなぁ。焼き鳥にして食っちまうとか? でっかくなったら食いでもあるぜぇ? 今のうちから太らすか?」
オーマが言いながら、優しく雛の頭を撫でた。看護士が、その姿に目を細めたのにも気づかず。
「先生が食べれない事くらい、十分に承知しているつもりですけどね」
その声が、耳をかすめて。竜でも聖獣でも一撃で始末しそうな凶悪な体躯をした男は、少しだけ照れたように笑ってから、肩を竦めて見せた。
「で? どうするんです?」
看護士がすかさず話を戻す。
「ま、飛べるようになったら放してやるさ」
「無難ですね」
では、私は帰ります、と看護士は荷物をまとめて、席を立った。彼女が最後の一人だ。オーマはそれに手を振って見送る。
大きく息をついて椅子に背中を預けた。頭をがしがしとかき乱す。赤い双眸が、ぎゅっと前方を睨みつけた。
「ちっくしょ……」
戸締りを済ませて帰らねば、と思う。家では彼の愛する妻と、溺愛すべき娘が帰りを待っているだろう。そして、この雛を。
胸の内に巣食った暗い気持ちを、払拭できない。
嫌な予感が、増すばかり。
雛を覗きこむと、また、真っ黒の瞳が彼を見上げて。オーマはその巣ごと膝の上に乗せて、また椅子にもたれかかった。
「何でもねぇよな?」
雛に話しかける。そうだと言ってくれと、何故だかそんな気持ちになって。
「ぴぃ」
今までで一番、小さな声で、それは鳴いた。
―――ありがとう
がばっ、と体を起こす。辺りを見回して、先ほどと何の代わりもない病院の室内だと思い返す。頭の奥に靄の掛かったような、独特の感触。
「寝ちまってた……か?」
時間はさほど経っていない。転寝をしていたのか、とそこまで考えてから。
慣れた気配が、しない事に気がついた。
鳴声がしない事に気がついた。
そっと巣を覗き込み、そこに白い羽毛を見つける。ただ、毛羽立っていて、動かない。
二度と。
「……くしょ……」
ぎり、と歯をかみ締めた。雛に伸ばしかけた手をその場で思い切り握り締める。爪が、食い込んだ。
食い入るように、動かなくなった存在を見る。
どの位そうしていたか。
オーマは、不意に唇を動かした。何度も、繰り返す。
始めは声にならなかったそれが、時々空気を揺るがした。
「ごめんな」
死なせたくなかった。
「ごめんな」
助けてやりたかった。
「ごめんな」
空を、飛ぶために生まれてきたのに。
「ごめんな」
それを、叶えてやれなかった。
「ごめんな」
無力を詫びた。
「ごめんな」
そして。最大級の悔しさが彼を覆う。
「ごめん、な」
そんな気が、していた。そうと解っていて、何も出来なかった。
多分、落ちたときに内蔵を傷めていたのだろう。消化が難しく、何を与えても糞が正常なものにならない。手術をするにも、本格的な検査をするにも、その存在はあまりに儚く、小さかった。体力がないため、どうする事もできない。
せめて、少しでも大きく育ってくれればと。
何もかも、もう遅い。
「ごめんなぁ」
拳を解いて、ゆっくりと雛の頭を撫でてやった。良く頑張ったと。
生きようとした、その事に対して。
こんな小さな「ウォズ」が、どうやって生まれ出たかは知らないけれど。
殺す必要などなかった。初めから死にそうだった。
けれど彼は、助けたかったのだ。
生きようとしていた。
だから、助けたかった。
見返りなどいらない。ただ、元気にあの日見上げた青空に羽ばたいてくれたら。そして、できれば誰も傷つけないでいてくれたら。
それだけだった。
あの日、あの場所に、オーマは「ウォズ」の気配を感じて向かった。ただ、余りにも微弱な気配であったから、彼は無防備な姿を曝して、大丈夫だと、言い聞かせた。それが通じたのかやがて気配は濃くなり、あの雛の姿になっていた。
ただ、生きようとしていた。
だから、ただ、助けようとした。
何も出来ない無力に、あまりに、悔しさが募って。
オーマは、息を吐いて椅子に背を預ける。天井を仰いだ。目元を、指先で強く抑える。
やりきれなくて。
こんな結末を、どこかで予感していた。
それが一番、やりきれなくて。
「ごめん、な」
助けて、やれなくて。
飛ばせて、やれなくて。
全ての生き物が、自由にただ、生きれる世界を作れなくて。
無力が、痛かった。
「先生、こちらでしたか」
オーマはあの雛を、初めてであった場所に埋葬した。墓標は小石一つきり。あまり大げさにして、誰かに掘り返されるのは避けたかった。
白い羽に黒い土がまぶされ、二度と開かれることのない黒い瞳が消えていく。
後ろからやってきた看護士を少しだけ無視して、オーマは埋葬を終えて。
「急に込んできまして。戻っていただけますか?」
いつもの日常。
「つぁ――……。病院が繁盛するってのは、俺的にはあーんまり喜ばしくないんだけどよ」
「そうおっしゃらないでください。皆さん、先生を頼りにしてくださってるんですから」
わーってるって。
オーマは背を向けた。
助けてやりたくて、出来なかった命に。
「仕事すっかねぇ」
また、伸びをした。あの日のように。
何気ない日常。
戦いの匂いのしない日々。
見上げた青空は、ただ、青かった。
唯一救われたとすれば、その死に顔の、穏やかさ。
「先生! どうして走るんですか!」
「仕事する気満々だっからよ! この素敵親父の足に追いつけるか!」
「若者を馬鹿にしないでくださいよ!」
見上げた青空に、微かに白い羽が舞っていた気がした。
END
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