<東京怪談ノベル(シングル)>
秘恋
「あの……お薬を、売ってくださいませんか?」
薬草店の扉を押し開いたのは、やけに薄い翼を背負った女だった。
俯く顔に細く白く切なげな翳りを落とす女でもあった。
危ねぇな。
オーマ・シュヴァルツは彼女を一瞥し、そこにひどく不吉な空気を嗅ぎ取り、眉をひそめる。
この薬草店に勤務していると言っても、彼はれっきとした医者である。
彼の内面に関する数多の問題と、彼の血に関するひとつの問題に目を瞑るなら、おそらくはこの地区において類稀なる腕を持った『名医』と呼ばれるものでもある。
その彼の眼に、彼女はあまりにも不自然に映った。
「……あの……私に、お薬を……」
沈黙したままじっと見つめる男に、彼女は怯えた揺らぎを見せながら、もう一度、か細い声をすぅっと空気を吐き出すように差し出す。
「ああ、なんだ……お嬢さん」
オーマは無闇に大きな体を彼女の顔を覗き込むように折り曲げて、そうして紅い目を細めた。
「どういう症状でどうしたいのか言ってもらわなけりゃ、どうにも処方のしようがないんだがな?ん?」
自分の半分ほどしかなさそうな女性の、その白い指が、オーマの服の端をきつく掴む。
「私の……」
「私の?」
「私の心を…殺してくれるお薬を……下さいませ……」
カタカタと華奢な体を細かく震わせながら、彼女はさらに顔を伏せて、今にも消え入りそうな声で告げた。
心を殺すクスリ。
それは一体どういう意味を持つのだろうか。
文字通りなのか、それとも。
「ああ、なんだ……少し、話を聞かせてくれねえか?」
どこかで面倒事になるかも知れないと思いつつ、それでもつい招きいれてしまったのは、『生態医学』を学んだものの好奇心ゆえか、ソレとも弱々しい存在への純然たる保護欲か。
そのどちらにせよ、結果として取るオーマの行動に違いがあるわけではない。
幸い、今この場所に、自分以外のスタッフは誰もいない。
つまり、例えどのようなことがここで起ころうと、彼女を『診察』する上で巻き込むものはいないということだ。
奥の部屋の席に彼女をつかせ、長い年月で培われた主夫技能によって、気持ちを落ち着けるハーブティを見事な手際で彼女に差し出した。
オーマ特製の調合が、ほわりと良い香りで辺りを満たす。
これだけでも充分リラックス効果を狙えるはずなのだが、彼女はハーブティを前にしても、まだ震えていた。
相当に根が深いな。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、エプロンを解くと彼女の前に腰掛け、両肘をつき、そして問いかける。
「それで?心を殺すってのは?どうすりゃそんなことを願ったりする?」
先程と同じように、正面からじっと見つめる。
「……こ、心を……」
彼女は指先が白くなるほど強く首から下がるロケットを握り締め、
「心を、殺さなくては……」
言葉を必死に搾り出す。
「……私があの人を、殺してしまう……」
彼女の羽にじわりと血が滲む。
彼女の足元から、じわりと闇が這い登る。
真紅の染みは少しずつ少しずつ純白を侵食していき、うねり伸縮を繰り返す闇はまるで蛇のように彼女の体に絡みついていく。
「こいつは」
オーマは興味深そうに目を細め、口の中で小さく呟きを洩らす。
彼女が背負うのは『罪業のツバサ』だ。
こういう種族がいることを、遠い昔、何かの文献で目にしたことがある。
「コロシテ、シマウ……」
夢のしじまに入り込んでしまったのか、彼女は虚ろな表情でどこか遠くを見つめていた。
ふわふわと不安定に揺らぐ魂。
もうひとりの『自分』を内側に宿し、自動的にそちら側スイッチしてしまった後は、ただ死を与えるだけの存在になる。
厳密で神聖な、裁きを与える稀少種族。
恋をしてはいけない。
誰かのものになってはいけない。
誰かに心を奪われてはいけない。
罪の重さを図る天秤が、情などという不確かなモノで狂ってはいけないのだ。
だからだろう。
けして禁忌を犯させないように、戒めと称して彼女を取り巻き、覆い、呑み込もうとしているモノがそこにいる。
もしあの文献が正しければ、彼女がその男に惹かれる限り、彼女を唆した咎で、男はもうひとりの彼女の手によって処刑されるだろう。
これは、逃れられない絶対的法則だ。
愛するものが愛するものを殺す。
こんなことあってはいけない。
どうあっても、その鎖を断ち切らなければ。
「自由になりてぇかい、お嬢さん?」
「自由……」
まるでその単語を初めて口にするかのように、戸惑い、ためらいながら、問い返す。
怯える小鳥のように首を傾げて見上げる彼女に、オーマはにっと笑って頷いた。
「愛はいいぞ。家族もいい。最愛の妻と最愛の娘がいる生活なんてのは、そりゃあもう、どれだけ長生きしてたって得られないくらいデカイ幸福だ。大事なものと一緒に生きていけるってのはこの上もない喜びなんだ。そいつらの為に死んでも構わないが、そいつらの為になんとしても生き延びようって思えるし、毎日毎時間、全身全霊をかけて愛してるって言える環境は、実に素晴らしいもんだしな」
一気にそれだけをまくし立て、だから俺はアンタにもその喜びを知ってもらいたいんだと、そう続けてもう一度豪快に、力強く笑った。
「自由に……自由になったら、私は……」
初めて、彼女はまっすぐにオーマの目を見つめた。
「私はあの人を、殺さずに、済む、の?」
彼女の震えが止まる。
絶望の色に染まっていた表情に、僅かな光が射し始める。
「俺の医者生命を懸けて、お嬢さんに殺しはさせねぇな」
そこで不意に真顔となる。
「ただし、アンタはそのツバサを失う。空は飛べなくなるだろうし、当然、種族としての特殊能力の大半も喪うことになるだろうな。下手すりゃアンタは棲んでる場所にも帰れなくなるかもしれんが」
真剣な眼差しで、覚悟はできるかと問いかける。
「どうだい?それでもアンタはその男の為に捨てられるか?」
酷な選択を迫っていることは自覚している。
だが、それでも必要なのだ。
心を殺して稀少種族の輪の中に戻るのか、それとも自分の患者になって愛を得るのか。
決めるのは、彼女でなければならない。
自分が決めてはいけない。
医者として、患者の意思を無視した行為など出来ないから。
もう一度、問いかける。
「さあ、どうする?」
「……私……は………」
彼女は、目の前に差し出された無骨で大きな掌に、自分の手をそっと重ねる。
「お願い、します」
両翼は赤黒く濡れ滴り、重みを増し、体は闇の鎖に阻まれて、もはや立つことすらままならない。
「……お願いします……」
それでも懸命にオーマへ縋りつき、彼の手を借りて、自分の足でそこに立つ。
「私を、自由に、して、下さい……」
罪業の重みに捕らわれた、紅い小鳥。
「よし、決めたな?」
「はい」
「なら、ちょっとの間だけ目を瞑ってくれや」
「……はい」
オーマの手の中に、チカラが収束していく。
それはメスでもなければ、武器でもない。
ただ、彼女の運命を断ち切る為の、医者としての願いをカタチに変えて。
「それじゃあ、オペを開始する。あ、ちなみに治療費はお前さんの心意気でチャラにするから安心してくれたまえよ」
恐怖心を取り除くようにおどけて笑い、彼女の頭を撫で、それから、指先から生まれる刃でもって、そぅっと優しく、羽毛に触れるように赤く血を滴らせる翼の根元を上から下に向けて撫で下ろす。
夢見るようにゆったりと身を任せる彼女。
けれど、切り刻まれる翼と闇は、音にならない怒号を響かせて必死に抵抗するのだ。
ふつりと意識を失って倒れかけた体を抱きとめ、オーマは足元に散らばる羽根を見つめる。
糾弾、だったのかも知れない。
あるいは、一族の誇りを捨てて罪深き身に堕ちた彼女と、堕とす手助けをした自分へ向けた、警告だったのかも知れない。
闇がのたうち、床を赤黒く染めながら、白い羽根の残骸を巻き込んで沈んでいく。
やがて何もかもが消え失せて、後には自分と彼女だけが残された。
やわらかな沈黙が降りてくる。
彼女は自由になった。
もう大丈夫。
大丈夫。
にぃっと嬉しそうに笑うこの薬草店に、新たな来客が飛び込んできた。
「すみません!ここに!ここに彼女は来ていませんか!?」
息せき切って、とはまさにこのコトだろう。
「あの、クスリを、クスリを売らないで欲しくて!」
必死な形相の彼には心当たりがある。
「遅かったな、青年」
おそらく、いや間違いなく彼はつい十数分前に彼女が語ってくれた、金のロケットの中に収まっている彼女の想い人だ。
抱きかかえた彼女の体を、彼の前に差し出した。
「先生!彼女に何を!?もしかして、もしかしてもう……もう」
今にも泣き出しそうな、そして強い憎しみを孕みそうな、そんな眼で、彼女を抱き寄せて彼は叫ぶ。
もし彼女がいなければ、例え適わないと分かってもオーマに殴りかかってきただろう。
狂おしいほどの情熱を秘めた男。
彼女はいい選択をした。
それがたまらなく嬉しい。
「慌てるな、青年。輝かしい未来が待ってるんだぞ?」
「え」
全ての説明を聞き終えたとき、彼の表情には彼女に向けて更なる慈しみが宿り。
稀少種族ではなくなった一人のか弱い女を抱いて、青年はオーマに深く頭を下げると、そのまま店を出て行った。
その背中を見送り、オーマは何とも言えない充足感に浸る。
輝かしい未来の為に、このチカラが、この知識が、役に立った。あんなにも美しい心に触れることが出来、守ることが出来た。
愛する妻と娘に今日はうんと褒めてもらおう。
そして秘めた恋の顛末を話して聞かせようと、そんなことを考えながら、彼はいそいそと後片付けを開始した。
END
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