<東京怪談ノベル(シングル)>


『願って舞う、舞えない青の蝶』 


――月の明かりで銀に濡れたロベリアの花が、瑠璃色の花弁を夜風に揺らす。
 ロベリア。ロベリア・エリヌス。別名、瑠璃蝶草の名を持つ六月の花で、花弁の形は名の示す通りに青い蝶その物。だが、なぜ季節外れの今、この花が今咲いているのかは判らなかった。
それは、速すぎる開花。
そして、何時もより速く訪れるであろう朽ちり。
それを幻視して、彼、オーマ・シュヴァルツは軽く吐息を付いた。
それが、今やっている仕事の皮肉にも感じてしまったのだ。
だが、そんな筈は絶対になかった。
これは、この一瞬とすら呼べない程の間隙を、時の一滴、一滴たちをその身に受けながら必死に生きている健気な姿なのだ。
それを、皮肉に感じてしまうなんて、


余程―――彼にも、きているらしい。


「……あー………今日も終ったか ………風呂入って、酒飲んで寝るか」
 吐いた台詞は、中年の親父台詞として挙げられる第一候補。そして、首をかくかくと傾ける仕草も、若い少年や少女に言わせればまさに親父臭いという事になるのだろう。
だが、それはそれはで何処かに深みがある。
確かに、何かが篭る仕草ではある。褪めた眼は疲れによるものではなく、心の奥底に封じ込めた冷たい意思から来たモノだ。
理解はしていても、オーマはそれを胸の奥底に沈める。
「……………」
 風に煽られる沈黙。
 そんな中で彼の血に濡れた月のような瞳が冷たく映すのは、揺れる小さな花。か細い茎は微 風にさえ抗えずに、今にも折れてしまいそう。
 けれど、余りにも綺麗なその花。
 オーマが吐いた息が届いたのか、風が止んだその中でロベリアはくすりと微笑むように蒼く首を傾げる。―――何をそんなに悩んでいるの?
 そう、問うかのように。
 オーマは直接心に響いてきたその問いが聞こえなかったかのように、軽く笑って無視した。
 その行為が逃げるという事だと判っていても、そうしていた。
「んー……今日も良く働きました、とっ」
 そう言うと、夜の翼に包まれた草原にオーマはだんっと、仰向けに倒れ込む。
 辺りは、暗い。時を示す物を持っていない彼には正確な時間が判らないが、もう人が寝静まった後の刻限なのだろう。
 ここは街を見渡せる丘なのだが、街の家々にはもう殆んど明かりが消え失せ、夜の星たちと、静かな微風だけが子守唄を歌う。
 しかし、静寂。
 けれど、優しいのだ。
 四月。春の、優しげな夜風の子守唄。
 それは案外、並の睡眠薬よりは効果があるのかもしれない。
 元々、薬という物に頼らなくても生きていけるように人、そして生物の体はできている。それを無理に動かしたり、酷使したりするから、薬に頼らなくてはならない状態に陥ってしまうのだ。
 だからこそ、今、オーマが医者として生業を立てられている訳だが、できれば薬に頼らないでも大丈夫になって欲しいと、親心のような物にオーマは思っていた。
 怪我をしたり、どうしようもない………老衰や、感染力の高い病、そういったものは薬の助けを必要とするのだが、それ以外はできる限り処方を少なめにしている。
 それは薬品に依存させず、本来の生命力と抵抗力を強める為だ。
 薬に頼って、元々あった力を無くし、風邪に罹りやすくなってしまっては、元も子もない。
 そしてもう一つ、特に子供にやっているのが、特別に薬を苦くする事。
 子供は特にそう。
 もし薬品が甘かったり、普通の味であるのなら、薬あるから大丈夫といって無茶をしたり、雨の中に飛び込んだりする時がある。そういうのを防止される為、二度と呑みたくなくなるような、より苦い薬を調合するのだ。
 勿論、渋い顔されても、大人にもそうしている。
 大人も、老後の為に抵抗力は強いまま、維持して欲しい。
「子供も大人も、不味いものを飲みたくなかったら、健康でありつづけよ………………って、なんで俺、終ったばっかの仕事の事考えてんだろな?」
 それは、とても簡単な理由。
 仕事の、患者の事を考えなくては、 自分の事ばかりを考えてしまう。
 それだけは、勘弁してほしかった。 

 だからこそ、赤い瞳だけと首だけを動かして、オーマは夜空を見上げた。
 
 見上げたそこは、静謐を秘めた暗がりの蒼。
 ただぽつんと、小さな星に囲まれながら三日月が白く微笑んで、余りにも儚い小さな灯火で世界を濡らす。
「………やけに、静かだな」
 零れた言葉はやけに重くて、柔らかな草に撫でられ続ける耳に響き続けるばかり。
 そう簡単には、消えてはくれない。
 いや、それどころかその響は、いつしかオーマの胸の奥に残っていた悩みを揺らす。
 丁度、静けさに沈んだ水面に小石を落として波紋を投げ掛けたかのように、その揺れは大きくなっていく。
 いつも胸の奥だけに詰め込んでいた不安や疑問。それらが、不吉なまでの静寂に駆り立てられて、次々と新たな言葉を生む。高まる鼓動を媒体に、ひとつの言葉が痛いと感じてしまう位、増幅されていく。
 ドクン、ドクンと唸る心臓と血管が、疼く。


 
疼かせる。



 記憶と想いが揺れる。
――此処は何処だ。
 きっと、暗がりと影の中。
 故に、彼は視界に入る、濡れた己の前髪を掃いて、黒筋の歪みを取り払う。
――狙うのは、何だ。
 いてはならない存在。手にした長大なる銃を向け、オーマにその引き金を絞らせるモノタチ。
 合わせた照準を狂わせないように、刹那、息を止める。肺に入った空気を凍て付かせ、一寸、一センチ、一ミリの誤差を訂正させていく。
 やらなければ、誰かがやられる。これは、病原菌を撲滅させるのと同じだ。
 このモノタチが誰かを怪我させれば、自分が治せば良いかもしれない。
 しかし、絶対に間に合わない時もある。
 同時に、助けきれない場合も、ある。
――視界の隅で揺れたのは、雨に耐えるように細い茎を伸ばし、青い蝶のような花弁を広げる花。
 此処は、掃き溜めの中だ。
 自分は医師なのに。
 自分は、生き物を助ける存在なのに。
 今、オーマ・シュヴァルツはアレを傷つける。
 アレ。It、者ではなく物。そう定義しなければ、手首に震えて銃を上手く扱えない。
 オーマは、そういう者なのだ。
 矛盾、している。 
 息を、吐いた。そのせいで、照準がずれてしまい、再度整えるのを余技なくさせる。
 狙っていたのは、右腕。
 次に狙うのは、右足。殺さない、絶対に。
 けれど、絶対に傷つける。
 その腕を旋回する銃弾で吹き飛ばして、続いてその脚を奪う。
 肉をあの大地に撒き散らさせて血の舞で雨粒を染め、骨を宵闇に晒させる。
「………………っ」
 拍子抜けしてしまう位、驚いてしまう位、今度は容易に照準ができてしまった。
 だが、その驚きは緊張した体には伝わらず、銃口は微動もしない。
 撃たなければ、ならない。
 きっと、この銃の咆哮は何も応えてくれない。どうすればいいのか、なんて、教えてくれない。
 誰かをアレが傷つける前に、傷つけろと黒い鋼が囁くだけ。
 俺の役割を果たさせろと、マガジンに装填している弾丸も哂う。
 そして、オーマは耐え切れなくなったかのように、銃声を放った。

 彼はその花―――『悪意』の意味持つ、瑠璃色の花に鮮血を浴びせる。
 


 さわぁっ、と、いう風の音に。

りぃんっ

と、小さな鈴の音が混じっていた。

 応えは、ここにはなくて。
 自分で作らなければならないもの。
 視界の隅に入った、瑠璃色の蝶。
 あの時は、この花の名前は浮かばなかった。ただ、鮮血を浴びせた瞬間に、それが『悪意』という花言葉を携えているという事を思い出しだけ。
 けれど、今はそうではない。
 ロベリア。それは昔も、見たもの。
 悪意を示す、それにはそぐわぬ可憐で儚い姿。
 そして――別の言葉も示す。
「譲る心」――― 自分より、相手を優先させる優しさ。
 その気持がある故に、人に愛されるという事である。――――「常に愛らしい」 
 そういった、優しくて、小さな女の子に贈るような花言葉も。
 もしかしたらオーマも、このロベリアのように、そうなのかもしれない。
 彼は『生き物を傷つけるヴァンサー』であり、『人を癒す医師』でもあるのだから。
 ふっと、軽くオーマは笑った。 
 もしかしたら自分とアレも、同じなのかもしれない。
 忌み嫌われてきた自分と、忌み嫌われているアレ。
 何処が………違うのだろう?
 引き続けたトリガー。余りにも虚しい指先の感覚。
 疼く。 
 照準を合わせ続けた赤い瞳。
 疼く。
 疼いて、失せない。
 ぎゅっと瞼を瞑り、すっと息を吸い込み、指を拳の中に隠す。
 何処に応えはあるのだろう。
 何処までいけば、答えは創れるのだろう。
 痛い位に、やるせなくて。
 彼は、鋭くも痛みを奥に秘めた瞳を見開いて、遥かな夜空の月を見上げた。
 その月の輪郭もまた、また鋭利。無理に手を伸ばさせば、指先を切り裂かれてしまいそうだった。
 けれど、彼は手を伸ばす。 
 虚しさと遣る瀬無さが鬩ぎ合う指を、無理矢理伸ばす。

「何処にも………なくても、応えは見つけるさ…………」

――― 此処は、月のように綺麗じゃなくて、けれど、月のように冷たくはなさい。

 月と星とは違って自分の探す物は、此処にあるさ。醜くて、けれど、冷たくない、此処に。

「きっと、な」

 ロベリアの花が、頷くように風に揺れた。
 やるせなくても、頑張ってと。

 青く、踊るように揺れた。