<東京怪談ノベル(シングル)>
乙女の一日
●獅子の眠る間に
春眠(しゅんみん)暁を覚えず。
遠い昔、異世界より訪れた詩人が残した言葉だ。
この季節は心地よい夜を過ごせるため、日の出に気付く事無く寝てしまうのだという。
いつもは騒々しいシュヴァルツ総合病院が静かなのも、口うるさい彼女が睡眠中なのおかげなのだろうと、院長を始め、スタッフの面々はそう囁いていた。
「鬼が起きてくる前に、さっさと仕事を済ませてしまうか」
「そーだね♪」
「今日の朝食は豪華虹色舌鼓筋フル回転オムレツセットだ。めんどくせぇから2人分しか作ってねぇからな、早いところ食べようじゃねぇか」
できる限り騒がしくさせないよう、彼らは迅速かつ丁寧に作業をすすめていくのだった。
●朝のはじまり
乙女の朝は一杯のカフェオレとフルーツサラダで始まる。
枕元のテーブルに置いてあった温かいカフェオレをカップに注ぎ、サラダを一かけら口に運ぶ。
「ん。美味しい。ちゃんと約束は守っているようねぇ」
カフェオレは熱すぎず冷たすぎず。
フルーツサラダはヨーグルトとはちみつを程よく混ぜて、しっかりと冷やしておく。
勿論、朝一番に飲むミネラルウォーターも忘れずに。
それらをじっくりと堪能した後は、軽い体操と肌のお手入れと香水を混ぜたお風呂に漬かる。
一通りの日課を済ませると、丁度仕事の時間……のはずだった。
シュヴァルツ病院の待ち合い室は、すでに定員状態で、スタッフ達が忙しそうに働いていた。
広間にある時計を見ると、もう既に昼を過ぎている。
少しのんびりしすぎたかしら、と首をひねりつつも、ユンナ(2083)はとりあえず院長室へと向かっていった。
向かった部屋は珍しく無人で、いつもなら散乱している本類すら見当たらなかった。
「あらぁ? 今日は来てないのかしら」
仕事をさぼってどこかへ出掛けたのだろうか。
困った子達ね、と思いながらも、とりあえずユンナは深く革製の椅子に腰を下ろす。
途端、ほのかな薬の香りが鼻をくすぐった。
長い間に染みついたのだろう、消毒液と薬草が入り交じった香りは腰掛けた椅子から淡く漂ってきており、ゆっくりと部屋中に広がっているようだった。
「ふぅん……ちゃんとここで仕事もしてるようねぇ」
妙な計画遂行のために飛び歩いているだけじゃないことを改めて関心するも、ユンナは誰にも聞こえないよう心の中でそっと呟く。
「言ったらますます図に乗るでしょうしねぇ」
これ以上、怪しいことを増やされても困る。
目立っていいのは自分の方なのだから。
●新しい魅力
しばらく待っても誰もこないため、仕方なく部屋を出て、アロマ通りへと向かった。
聖都エルザードのほぼ中央通りに位置するこの通りは、商店が立ち並び多くの人でにぎわっている。
にぎやかな町並みを抜け、1本奥へ入ると、個性的な店が建ち並んでいるのが分かるだろう。
少し怪しげな店頭を眺めながら、ユンナは色鮮やかな花で飾られた一件の店へと入っていった。
扉を開けると甘酸っぱい香水の香りが彼女を迎える。
ユンナはまっすぐに店の奥へと進み、壁一面に並べられたビンを手に取り始めた。
「あらぁ、いらっしゃい。久しぶりねぇん」
妙に腰をくねらせながら、店員らしき男性がユンナの傍へ歩み寄ってきた。
細い顔立ちにも関わらず、身体はしなやかな筋肉質で、あごにはうっすらとヒゲがあるのが確認出来る。
彼はそそくさと棚の上の方から白磁のビンを取り、ユンナの前に差し出した。
「これなんてどう? 今月の新作☆」
「あらぁ、可愛いビンじゃない。蓋を開けてもよろしくて?」
「もちろん構わないわぁ、だって蓋を開けないことには、香りを確かめられないじゃない」
店員の承諾も受けたところで。
ユンナはコルクの蓋を外して立ち上る香りを堪能した。
爽やかなオレンジの香りと甘いベリーの香りが程よく混ざり、かいだ後にほんのりと草の薫りが花の奥に広がっていく。
「珍しいわねぇ。サンダルウッドは久しぶりにかいだわよ」
「5日程前に旅団が立ち寄ってくれてね、良いハーブを置いていってくれたのよ。それでも、オイルに蒸留出来たのは、そのビンに入ってので全部よ。それを燃やしてお風呂に入れば、エチゾチックな気持ちになれるわよぉ」
現品限り、次回の仕入れ予定はない逸品だと店員は言う。
限定品という言葉にはあまり興味はなかったが、せっかく薦めてもらったのだから、とユンナは愛用の香りと一緒に購入することにした。
「支払いはいつものようにシュヴァルツ総合病院に、ね。あ、それともう少しでキャロット油が切れるから、請求に来る時に一緒に持ってきてくれない?」
「分かったわ。他には必要なくて?」
「今のところは大丈夫よ。そうねぇ……また新しい香りが出来たら、今度は持ってきてくれないかしら? でも、私に似合わない香りを持ってきたら容赦しないわよ☆」
ユンナは楽しげに目を細めながら笑顔を浮かべる。
無邪気に思えながらも、絶対的な高圧感を見せるその笑顔に、店員は背筋をぞくりとさせた。
「大丈夫よ☆あんたの腕前は信じてるから。それじゃ、ね」
ひらひらと手を振り、優雅な足取りで店を後にする。
「あ、そうそう。ついでだし、一杯やっていきましょ」
くるりと踵を返し、ユンナはアロマ通りのほぼ中央にある酒場へと足を向けた。
気付けば空はゆっくりと夜のカーテンを下ろし始めていた。
鼻歌を交え、ユンナは楽しげに酒場の扉を開けた。
おわり
文章執筆:谷口舞
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