<東京怪談ノベル(シングル)>


風の丘 



 夏を思わせる陽光が、広場を明るく照らし出していた。
 人も街も自然も鮮やかに描き出す力強いその光に、天を見上げる人々の表情は明るい。
 空は青く高く、白い雲がゆったりとその大海を泳いでいく。街を渡る風は冷たくはないがどこか涼やかで、陽のもたらす熱を和らげていた。

 爽やかな皐月の到来だった。
 
 
 街路樹が風に揺れる。
 瑞々しい若葉の美しい緑が、さわさわと柔らかな音をたてて揺れ、オーマ・シュヴァルツの座す木陰も、それにつれて輪郭を揺らめかせる。
 梢からのぞく白い陽光に目を細め、オーマは小さく欠伸を洩らした。
 ほどよいざわめきと昼食後の気だるさ、そして己を包む爽やかな初夏の空気に、眠けが頭上からゆっくりと降りてくる。
 このまま眠ってしまいたいとは思うのだが、雇用主である店主の苦笑いが瞼に浮かんでは消え、消えては現れ、そのたびに眠りの淵からオーマは呼び戻される。

 そんな夢現といった状態で、オーマはぼんやりと視線を広場の中央へと向けた。
 四方にのびる道はこの城下に住む者と旅人、そしてそれらの人出を見込んだ商売人とでいつものように賑わっている。
 雑然と並ぶ露店から各々あがる口上。それに誘われるように動く人だかり。
 見知った顔を見つけたのか、荷物を降ろすことなく立ち話を始めるのは行商人。
 夕食の買出しに出てきたのだろう、主婦らしき女性たちもそこかしこで話の輪を作っている。
 華やかな笑い声があちらこちらから響く。
 活気溢れるこの広場の雰囲気がオーマは好きだった。
 
 
 ふと視界の隅に黒い影のようなものがあることに気付き、オーマは視線を向ける。
 街の西側の通りから人込みをすり抜けるように広場に向かって進むそれ。
 フードに隠れ顔を見ることはかなわないが、骨格から見て男、それも若い男のようだ。全身を黒色で包んだその姿はまるで影そのもののようでもある。
 その人物は噴水の前を通り抜けるとオーマの勤める薬草店の方へと歩みを進めていく。
 何とはなしに嫌な予感を覚え、オーマは身体を預けていた木の幹からゆっくりと起き上がった。
 その動作に目を留めたのだろう、黒い男はオーマの姿を認めるとこちらに向かって進み、立ち止まる。
(何だ?)
 自分の傍らに立つ男をねめつけるように見つめるとフードの奥で忍び笑いがあがる。
「こんにちには、オーマさん」
 そうして顔を隠すように被っていたフードを男は外した。
 そこから現れたのは黒髪黒瞳の二十代半ばといった青年の顔だった。
 訝しげに男を見つめていたオーマの表情が和らぐ。
「何だ、お前さんか」
 眼鏡を指で押し上げながら笑ったオーマに、青年も柔和な笑みで応えたのだった。
 
 

 彼は二つばかり山を越えた場所にある寒村で医師の助手を務めていた。
 彼の師である老医師とオーマは知己の間柄で、青年は三月に一度のペースで薬草をもとめ城下に下りて来る。
「今回はやけに早くねぇか? それにその格好はなんだ? いつものお前とは正反対だな」
 冗談めかして笑うオーマに青年は淋しげな笑みを浮かべる。
 普段の彼は医療に携わる者が往々としてそうであるように、白を基調とした服装を好んで身につけていた。
 それが今日は……。
「まさか……」
 目を見開いたオーマに青年は小さく頷く。
 我が師より遺言をお預かりしてまいりました。
 感情の見えない静かな口調で、オーマにそう告げたのだった。
 

 かつて青年の師である人物にオーマは問われたことがある。
 生きるとはなんであろうか、と。
 若い頃戦場に赴き野戦病院で医療に携わっていたという彼は、兵士たちを治療しながら己に問わずにはいられなかったという。
 人を生かすための医術。
 けれども彼が救った兵士たちは傷が癒えれば再び戦場に狩り出され、再び傷つき、あるいは誰かを傷つけ、命をも奪う。
 自分がしていることは人の命を救うことであるのに、人の命を奪うことの一旦も担ってしまっている。
 自分がしていることは何なのだろう、と。
 そして今、年老い、小さな村で医療に従事し、村人と家族同然の付き合いをしながらも、自分が選んだ今はあの時感じた疑問からの逃げではなかったか、そんな風に感じることもある、そう言った。
 長く生きようとも答えはでないな。
 苦笑を浮かべてオーマを見つめたろう医師は、おそらく知っていたのだろう。
 オーマが永い時を生きる存在であるということを。
 
 
『道っていうのはな、無限にあるだろう? だけど自分が選び取れるのはたった一つ。たった一つなんだ。でもな、選び取る時に何を思い、何を考え何を迷ったかによって、道の広さもそこから見えるものも違ってくる。その結果はいつか見つけることが出来るんじゃねえか』
 


「……俺にとっての生きるってのは、見送ることでもあるがな」
 穏やかに笑う老医師の笑顔を思い出しながら、いつか彼にも告げた言葉を呟き、オーマは自嘲的な笑みを口元に浮かべた。
 長命であればあるがゆえに、オーマは先に逝く者たちを多く見送ってきた。
 それは淋しく、痛みを覚えることではあるが、出会ったことを後悔したりはしなかった。
 あるのは彼らへの感謝ばかりだ。
 この胸には彼らとの楽しい日々があり続けるのだから。

 
「だからあなたは強く、また優しく在れるのでしょうね」
 青年は笑みを浮かべると静かな口調でこう続けた。
「見つけた、と一言。あなたにはそれで分かるだろう」
 最後も笑んでいらっしゃいました、と青年は微笑む。
「そうか見つけられたか」
 オーマは空を見上げた。梢の隙間から見える空に向かい笑みを浮かべる。
 
 
 彼の墓は村を見渡す丘の上にあるという。
「今度あいつの好きだった酒でも持って会いに行くか」
 笑いかけたオーマに、青年はそこではじめて涙を見せた。
 
 
 END