<東京怪談ノベル(シングル)>
無望なるもの
ここより先をゆくもの、一切の望みを捨てよ。
とは、よく言ったもの。
しかし倉梯葵は、はなから望みなど持ち合わせてはいないのである。
彼はここ数日間、半ば避けるようにして、ソーンの聖地にして安住地帯であるエルザードを離れていた。ある夜を湿地帯で過ごせば、翌日には得体の知れぬ魔獣どもが闊歩する荒野に足を向け、そのまた翌日には曰くつきの神殿に立ち寄るといった毎日だ。ソーンに冒険者は数あれど、休息らしき休息もとらず、危険区域ばかりを渡り歩く葵の行動は、半ば狂気じみていた。
しかし倉梯葵は、ただ単に、足の向くままに進んでいるだけだった。
――ああ、俺は何も考えてない。いつも通りだ。何もおかしいところなんかない。
背後にしのびよる影さえも、彼は感じ取ることが出来るのだから。
『アオイ……今日、何か予定はありますか?』
なにもない。
振り向きざまにトリガーを絞れば、葵の背に飛びかかろうとしていた異形の獣は吹き飛んでいた。頭部を失った屍骸は、いつまでも痙攣を続けている。
「……」
屍骸というものは、葵にとって、昆虫の抜け殻よりも価値を見出せないものだった。そこには存在しないものと見なせる。またいで通らねばならない『地形』に過ぎない。
命が砕け散れば、そこにはなにもなくなってしまうのだ。葵の世界から完全に消え失せる。
なにも、なくなってしまった。
かつて倉梯葵には目的があった。聖獣界に飛ばされ、行方が分からなくなってしまったある少女を探し出すというものだ。その目的が、先日ようやく成就した。
なにもない日常がそのときから始まって――今も続いている。
目的も死も戦いもない、平和な日々が葵を包んでいた。労苦の末に見つけ出し、今は身柄を葵が保護している少女は、まさにこの日々を望んでいたのである。その視線の通りに何もかもに冷めている葵でも、けして常に死を望んでいるわけではなかったし、少女とともにある日々は苦痛ではなかった。
ただ、退屈で、なかなか意味を見出せなかっただけなのだ。
気を張らずともよい町で、肩の力の要らない雑用をこなし、酒に酔い、少女の手料理を食べる。
それが段々と、倉梯葵にとっては、前線に配属されている最中よりも骨の折れる1日であるように感じられてきていた。
このままでは、この安寧な日々に殺される。
真綿が首を絞めている。
ずっとこのまま、世界が続いていっても悪くはないはずなのに……
わからなかった、
平和の中で、倉梯葵には、なにもなかった。
『アオイ……すみません、パン、失敗してしまいました。ベーキングパウダーを入れすぎちゃったみたいなんです……。ごめんなさい、わたし、キッチンを掃除しなくちゃ。アオイ、明日の朝のパンとベーキングパウダー、買ってきてもらえませんか?』
何でもない買い出しの帰り道、葵はいくつもの冒険譚を聞き出した。自然と足が、冒険者の集う酒場や広場に向かっていたのだ。
どこそこの荒地で光る草をみつけた、
あすこの遺跡で頭が2つあるオオカミのような化物に襲われた、
山の向こうには喋る花が咲いているらしい……
命からがら逃げ帰ってきた者が大勢いて、そういったひどい目に遭った冒険者たちがそんな話をしているのだが、みな目が輝いていた。生き生きとしている。死の先に見出した生にすがりつけたことに喜びを見出している。
「……」
葵は輝きらしい輝きを持たぬ黒の瞳で、世界の片隅に立っていた。冒険譚が、まったく別の時代の、別の世界の話であるかのように感じられていた。
パンと牛肉とベーキングパウダーを抱えての帰り道、葵は何もいわず、決意を固めていた。
そして彼は翌日、光る草、異形の獣、喋る花をもとめて、エルザードを出ていたのである。
タクティカルベストやバックパックには、すでに山ほどの動植物サンプルが収まっていた。目につくものは手当たり次第に採集していたからだ。手から銃は離さず、五感に意識のすべてを注ぎ、星や太陽の位置で進む方角をさだめて歩く。聞こえるのは自分の息吹だけのようだ。虫や風や鳥の声は、そこに在ったとしても、無いもののようだった。
エルザードを出て5日目、
『アオイ』
葵はまったく疲れらしき疲れも感じないまま、星空の下で独り、野営の準備を始めた。冒険者の話が大ぼらでなければ、そろそろ『光る草』とやらの目撃地点に辿り着くはずだ。草は丑三つ時に光り始めるのだという。すべての話を鵜呑みにするような性分ではないはずの葵が、根拠もないその冒険譚を頼りにしていた。
『アオイ……』
夕食をとって休息がてらに時間をつぶす。
見上げると、荒野を見下ろす月と星があった。
ふと、流れ星を見た気がする。
BLAM!!
BBLAMM!!!!
確かにそこに在ったはずの命たちが、葵の人差し指によって消えてなくなった。葵がみとめたのはただの一瞬だったが、唐突に地面から現れた毒蛇が2匹、牙を剥いていたのである。
毒蛇が吹き飛ぶのを刹那で確認し、ヂャッ、と葵は銃を背後に向けた。
(『光』を望むのか)
荒野に生えるまばらな草木の中、その異形の獣は立ち尽くしていた。狼のようだ。頭はひとつだったが――角がある。まるで、鹿のような……枝のような角だ。
「……」
葵は何も言わず、揺るがない銃口を獣に向け続けた。
(非情にして無望なるものよ。汝に『光』はそぐわぬ。去るがよい)
獣が牙を剥いた。光り輝く涎が滴り、地に落ちる――
BLAM!!
涎が地に落ちるのが号令であったか。
獣は地を蹴り、葵は引き金を引いていた。
弾丸は獣の喉を撃ち抜いていた。
「!」
なにも、ない。
葵が仕留めたはずの獣は、屍骸すら晒さなかった。間違いなく、弾丸が獣の急所をとらえたところを、葵は見ている。まばたきすらしなかったのだ。見ていたはずだ。
しかし本当に、なにもなくなってしまっていた。
「……何してるんだ、俺」
はじめからそこには何もなかったのかもしれない。
頭をなくした蛇の屍骸は、そこにあった。
荒野は何を聞いただろう。むなしい銃声だろうか。獣の断末魔だろうか。葵の呟きだろうか。
光る草などはどこにもない。
光る草の話をしていたのは、どこの誰だというのか。
そんな話をしていた人間は果たして存在するのか。
獣のように、どこにもいないのではないか。
――俺は、理由をつけようとしてるだけだ。何かを殺すことに理由をつけて、自分をかばおうとしてる。俺にとっての世界と毎日は、『殺す』ことで成り立ってるんだ。『殺す』ということそのものが、『理由』なんだ。
――俺が在り続けるための理由なんだ。
「……なんてやつだ」
葵は静かに吐き捨てた。ここで銃口を自分のこめかみに向けてやろうか。自分を殺して、自分に理由をつけるのだ。きっとそのほうが、世界にとって都合がいい。
『――アオイ!』
「……」
『おかえりなさい!』
葵はベストやバックパックに入れていたサンプルを、その場にすべてうち捨てた。そうしてそのまま荒野を去ろうとした――が、彼はわざわざ振り向いて、サンプルの山に銃弾を撃ちこんだ。BLAMBLAMBLAMBLAM、月と星はその音を聞き、その光景を見下ろすばかり。
生きとし生けるサンプルがなにもなくなってしまったのを確かめてから、葵はようやくその場を立ち去った。
背後で一株の雑草がぼんやりと光を放っているのが、葵には見えなかったのだ。
<了>
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