<東京怪談ノベル(シングル)>


想愛花

 異界の地を一人静かに行きながら。
 彼は、その視界に珍しいものを捉えた。
「ほぉー。こんなところにも咲いてんだな」
 視界の端、道の端。
 そこに咲いていた小さな花に、オーマ・シュヴァルツは意識を奪われたようだ。
 二メートルを越す巨躯を屈みこませ、じっ、と、その花を、眺めた。
 その花はひどく不思議な輝きを放っている。
 その色は見つめていると心穏やかになるようで、逆に不安な思いを湧かせるようで。
 とても、曖昧だった。
 ただ一言確かにいえるのは、美しいということ。
 それだけは、些か歪曲気味のオーマにとっても、確かなことだった。
 その花の名はルナリア。
 いや、いまはルベリアと呼ばれているのだったか。
 ゼノビアにて八千年前に起こったウォズと具現を生み出せし謎の事象【ロストソイル】。
 それを経て、この花は名を変えてしまった。
 それを経て、この花は数を減らしてしまった。
 オーマの世界では、ひどく、希少の存在だ。
 ほんの先日、『ルベリア』の種が運ばれたこのソーンの地では、さほど希少と言うわけではないが。
「にしても、こんな炉端に咲いてくれて……踏みつけられてもしらねぇぞ? なぁ、『ルベリア』?」
 意地悪な愛人に皮肉をぶつけるかのような、言い回し。
 オーマは一人しおらしく頭を垂れる花を相手に、軽く、眉を寄せていた。
 この花が嫌いなわけではない。『ルベリア』の名も、同様に。
 何せこの花は、彼が妻と結ばれるきっかけを与えてくれたのだ。それほどの大切な思い出が、ある。
 だが、忘れられない、忘れてはならない事象、名の変わり目を、思い起こされるのも事実だ。
 連動される記憶が、あまり喜ばしくない思い出を引きずり出してくるのも。
「思い出に浸るってのも、いいものばかりじゃねぇなぁ」
 太腿の上で頬杖をつき、苦笑じみた笑みで、軽く、小突いた。

 りん―――。

 揺らめき色の花が、かすかに首を振って、鳴く。

 りん、りん……。

 別に音がなるとか、そういう花ではないが、ゆらゆらと花びらを揺らすその花を見ていると、自然、そんな響きが脳裏に漂う。
 鈴のような、鐘のような、あるいは、泣き声のような、音。
 その音色が中空に広がり、時を駆け、解き、紡ぎなおす。
 りん。
 音は告げる。幸福な日常を。
 りん。
 音は告げる。優しい愛情を。
 りん。
 音は告げる。遠い、過ちを。
「………」
 零れるごとに断片的な記憶を垣間見させる音色に、オーマはふと、沈黙を抱える。そうして、真剣な表情になった。
 何を思っているのだろう。きっと、様々なことだ。
 ぽつん、ぽつんとオーマの脳裏を漂った記憶が、彼をひどく複雑な思いにしているのだ。
 何故だろう。どうしようもない嘆きに満たされているような気がする。
 大輪に包まれた二人だけの『場所』ならば、こんな気分にはならなかっただろうに。
「なぁ、『ルベリア』。お前は笑うか? バカなことしたな、って。それとも、罵るか? だからいわんこっちゃない、って」
 遠い遠い、いくら遡ってもきりがないような過去。
 そこに住んでいた彼は、なくしたものを取り戻そうとしていた。
 彼にとって、命とはひどく大切なものなのだ。自分に限らず、如何な存在で、あれ。
 だからといって、失ったものに固執することがいかに不毛で、危険で、哀しいことであるかを知らないわけではない。
 禁忌と言うコトバが、決して、軽いものではないことも。
「やっちまったこと、後悔してもはじまらねぇがな」
 それは言い訳かもしれない。
 でも、事実。
 それに、オーマは後悔しているわけではない。
 言葉の意味を知っていて、相応の覚悟を持って、禁忌に手を染めたのだから。
「あああああッ!!」
 突然、オーマは雄叫びを上げた。
 雲の途切れた青空に吸い込ませるように、高く、遠く。
 見上げたまま、ふぅ、とため息をついて。オーマはその唇を、弧に変えた。
「みみっちぃことばっかり言ってりゃ、それこそ、笑われちまうわな」
 妙に清々しい微笑を湛えたオーマは、軽く頭を振って、踵を返す。
 そうして、風もなく、一人佇む『彼女』を、肩越しに振り返ると。
「じゃあな。時々逢いに着てやるからよ、かってにくたばんじゃねぇぞ、『ルベリア』」
 ひらり、手を振って立ち去るのであった。