<東京怪談ノベル(シングル)>


外された鎖

 『自分』というものを持ったのは一体いつだっただろうか。
 『オーマ・シュヴァルツ』と名を持って、動き始めたのはいつからだっただろうか。
 ――そして、ヴァンサーとして生きるようになったのは…。
 どれも遠すぎて覚えてはいないが、ただ1つ。
 自分の運命を変えたもの――肌に刻まれたこのタトゥを入れてからの自分は、オーマ・シュヴァルツであり、そしてまたヴァンサーと言う、ウォズを相手に闘うための…いや、自らを制御するための印を与えられた者として、生き続けているという事。
 そう、それは今も変わらず…。
「――いやむしろこっちの世界の方がお出かけファッションの幅が減ったっつーかなんつーか」
 尤もどんな服を着ても似合うんだが。いやそんな生易しいモンじゃなく、俺様1番?みたいな。
 そんな事を考えながら、ヴァレルをきちっと身に纏いつつ、オーマが大きく欠伸をする。
「さあーてと。今日も1日頑張りますか〜」
 …何よりも、食い扶持を稼がないとやっていけない状態になりつつあるのだから。
 まさに首に縄…もとい鎌の刃が当てられているようなものだ。それも四六時中。
 オーマが毎晩せっせと付けている家計簿から赤い色が消えるまで、それは続けられるのだろうと言う事は、もうこれでもかというくらい肌身に染みて分かっていた。

 そんな中。
「頼みますよ〜」
 このところ急に気温が下がったせいか、繁盛している病院の診察室。そこで、風邪の診断を受けた1人の中年男性が、泣きそうな顔でオーマに訴えていた。
「あー…と言われてもなぁ…」
 男は、オーマの病院の近くにある商店会の会長にあたる。オーマの病院も、商店会の活性化に協力を要請され、何度かイベントや会合に顔を出す事があって知り合った男だったが、今日は病気とは別に相談事があったらしい。
「シュヴァルツさんたちの係りだと思うんですがね〜、どうにかなりませんか?困ってるんですがねぇ」
 会長曰く、このところ商店会の中で贋金が流行っているとのこと。ただそれだけなら王室に訴えるのが筋なのだろうが…。
「そのお金が他のお金を抱えて逃げ出すとなると…我々の手には負えませんので、はい」
 ―――なんだって?
 ちょっと想像してみる。
 この国の通貨は基本的に貨幣だ。それも、どちらかと言えば等価交換に近い。だから、金属としてもそこそこ価値のある金銀銅の三種をメインに作られる。
 オーマが知るような紙幣での支払いはまだ見た事が無い。当たり前だが、カードでのし払いなどがあるわけが無い。
 そのコインが、他のコインを持って逃げ出した?
 すたこらさっさと逃げ出す硬貨を想像するとメルヘンチックな気がしないでもないが、商店会の者からすれば悪魔の所業と見られても仕方ないだろう。自分たちが稼いだ売上げを奪われてしまうのだから。
「むむぅ。…それなら、確かに俺様の仕事かもしれねえな。――で、逃げ出すのを見たのはいつ頃なんだ?昼か夜か、それとも朝か」
「夜です。1日の売上を勘定している時に、目撃談が何度かありましたので…最初は小遣い欲しさに店員がちょっと小銭をくすねたのかと思われていたのですが、別々の店で同じ物を見たと言う話が広まると、嘘と思えなくなって来まして」
 一番最初、かどうかは分からないが、目撃されたのはもう何週間か前の話になるらしい。その時は会長が言った通り、当初従業員が疑われたのだが、その後連続して他の店でも同じ事が起こり、そして今日こうして会長自らがオーマの元へやって来る、という次第になったのだと言う。
「ま、それだけ分かればいいさ。いつその歩くコインが出て来るか分からねえから、ちぃと時間がかかるかもしれねえがそれでもいいか?」
「構いませんとも。それじゃよろしくお願いしますよ」
 長い診察を終えて、会長が出て行く。
「ウォズが何かした気配は感じなかったが…つう事は、別件か?」
 次の患者を呼びながら、オーマはそんな事を小さく呟いていた。

*****

「――ふぅぅ」
 夜。
 ひっそりと静まった商店会通り――もっと奥に行けば不夜城…もとい歓楽街があるが、その喧騒はここまで広がって来ない。
「はぁああ」
 眠い。
 これで幾夜目になるだろうか?商店会の片隅で警戒しつつ、オーマは何度目かの溜息を漏らしていた。
 毎晩出るわけじゃないだろうと思った通り、夜、眠気がピークに達するまで起きて気配を探っているのだが、なかなかそれらしいモノには当たらない。
 お陰でこのところ、ヴァレルを寝る間も身に付けたままだ。疲れて外すのが面倒と言うのもあるのだが、それ以上に寝ている間も意識的におかしな気配を探っていると言う事がひとつ、それから、こうした疲れによって無意識下で何らかの力の発露が行われる事を未然に防ぐ意味もあった。
 だから、眠っていても寝た気はしない。
 ――ちゃっちゃと出やがれ、このXXXが――
 眠気に疲れにストレスを混ぜ込んだ気分のオーマが声に出すのもためらわれるような台詞を内心で吐き出した、その時。
 ちゃりん――
 誰もいない商店会の通りで、澄んだ金属音がひとつ、響き渡った。同時に神経が針のように鋭くなっているオーマの身体に届く、具現の気配。それもごく小さいもので、余程神経を尖らせていないと気付かないほどだと分かったオーマが、のっそりと大きな身体を片隅から引っ張り出す。
 『それ』は少し立ち止まった後、再びひたひたと微かな足音?を立てて、動き出した。――住宅が立ち並ぶ一角へと向かって。

*****

「……何でそうやっておまえは勝手に……」
 ぼそぼそと、扉の向こうから声が聞こえる。
「違う、そんな事望んだ訳じゃない!」
 声は青年のものだろうか?一瞬激昂して声を荒げたようだったが、その後で再び声を抑えた気配が窺える。
「……もう、こんな事は……」
「どんな事だ?」
「!?」
 どばぁん!
 木製の扉を蹴り倒す前に声をかけ、相手ががたっと立ち上がったのを見越して扉に足をかける。
 もうもうと巻き上がった埃の中、歯をむき出して笑いながら声の主に近寄って行く、目の下に隈を付けたオーマ。
 それは下から照らすランプの光の中で効果的に浮き上がり、室内に1人でいたらしい青年が喉から搾り出すような悲鳴を上げて、出口ではなく壁にへばりついた所を見れば、余程恐ろしかったらしい。
「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいもうしませんからっっっっ」
 うわごとのように繰り返す青年。
 それはオーマが想像していた通り、この世界に飛ばされて来たヴァンサー…それも、なりたてほやほやと言った青年の姿だった。
 ――数分後。
 流石に驚かし過ぎたかと木の扉を元通りにし、狭い台所でお湯を沸かして、茶葉が見当たらないので白湯を2人分作って青年にひとつ渡すと、それを一口飲んでようやく落ち着いたか、やつれた顔をおどおどと見上げながら、
「ええと…で、誰、でしょうか」
「名前を名乗った所で意味はねえよ。――そうだな、あっちの商店会で金が金を抱えて消えるっつー話を聞いて乗り出したヤツだ、って言えば分かるか?」
「――は、はは…やっぱり、そうでしたか」
 ヴァンサーの気配を持ちながら、ヴァンサーらしからぬ気弱な表情を自虐的な笑みに変えた青年がぽつりと呟く。
 見れば。
 青年の足元に散らばる、何枚ものコイン。一番良く目に付く銅貨から、刻印金貨まで、無造作に置かれていた。
 そして、もうひとつ――いや、いくつか。
 先ほどから、ぽかぽかと、オーマの足を叩く小さな小さな気配。
 それは、大小の差はあれど、皆エルザード発行のコインの姿をした、具現物だった。
「最初はちょっとした出来心だったんです。その、まあ、あまりにも生活が苦しかったっていうのもありますけど」
 ちらと青年が、小さな部屋の奥にある黒皮のヴァレルに目をやる。
「まさか、アレを着ないで出してしまった贋金が、擬似的にせよ生命を持つなんて思いませんでした…」
「ほう」
 ――ヴァレル。
 ヴァンサーに取って、それは身に刻まれたタトゥと同等の意味を持つもの。
 自らを御し、具現による崩壊の危険性を取り除く鎧であり、外部に対する危険性よりも、寧ろ自分の身を守るために必要なものの筈だった。
 それを付けずにコインを具現化してしまった、それがこんな自体を引き起こすと青年は思っていなかったらしい。
「おまえさん、身体の方は大丈夫か?」
「――大丈夫、とは言えません。だって、私が作り出したコインはたった1枚だったはずなんですから」
 それなのに、オーマを敵と見てかぽかぽか叩くことをやめない小さなコインは十数枚にも及ぶ。
「朝起きると、時々、『これ』が生まれているんです。僕自身の一部を使って」
「あーあー。やっぱりな」
 がしがし、とオーマが頭を掻いた。
「それで?その贋金を使ったんだな、あの商店会で」
「ええ。そしたら、仲間を見つけたとでも思ったんでしょうね、何枚か、持てるだけ持って帰って来てしまいました。…今も夜になると出かけています。箱に閉じ込めたりしたんですが、隙間から出て行ってしまうので」
 それが、あの騒動だったらしい。
「あっちの世界にいれば、きちんと仕事もあったし――具現の侵食なんて事になる事も無かったんでしょうけど…いえ、それは私の言い訳ですね。ヴァレル無しでやろうなんて考える事自体間違っていたんですから」
「そりゃあな。――ったく、自分の身の程も弁えねえからこんな事になるんだ。ちっとは反省しやがれよ」
「それはもう、嫌と言うほど」
「んーじゃ、おまえさんは今日から俺様の患者だ。タトゥはどこにある?」
「左腕に刻んであります」
 捲り上げて見せたタトゥに傷は入っていない。念のためと持って来た青年のヴァレルもそのまま使えそうだった。尤もヴァレルは普通の皮製に見えて特別な仕様を施してあるため、滅多な事で壊れる事は無いのだが。
「ふーむ。つう事は…おまえさんの能力を暫く封じた方が良さそうだな。その間に侵食を止める術を探せばいい」
「…出来るんですか、そんな事が」
「わはは。俺様に不可能はねえ――と言いたい所だが、俺様だけがやるわけじゃねえよ。超優秀な仲間もいるんでな、そいつらにも協力を仰ぐ。――まー、場合によっちゃ一生具現が使えなくなるが、おまえさん見た所ウォズ狩りに執着してるわけじゃ無さそうだしな」
「ああ、それは――無いですね。去年あたりから、どう言う訳かそんな気が無くなってしまって。ですから、この世界の一般市民として生きられる術を見つけなければ、と思っていた所だったんですが」
「ほほう。んじゃあ、それで行くか。おまえさんも商店会に罪滅ぼししてえだろ?じゃあそこで働けばいい。都合良い事に俺様は会長とのコネがあるからよ」
 ウォズを狩るだけの気力が無くなった事について、オーマには心当たりがあった。だがその事は言わず、青年の部屋に散らばる硬貨と具現硬貨たちを持って、自らの病院へと青年を案内した。

*****

 ――病院でどのような『治療』が施されたのか。それは当人たちにしか分からない事だったが、次の日から商店会でコインが逃げ出すと言う事もなくなり、
「いらっしゃいませーっ」
 ちょっぴり気弱な、そのくせ若気の至りなのか片腕に刺青を持っている青年が、商店会の新顔として現れるようになった。刺青を隠すように、左の二の腕を覆う黒皮のベルトを付けて。
 それが改造されたヴァレルだと、誰が気付くだろうか。オーマたちのように表立ってヴァレルを着る事が無くなった青年の、万一を思って付けられたベルトは今、ソーンの住人が着ている普段着の中に隠されて見ることは無い。
『可哀想だけど、タトゥを持っている以上、ヴァレルから完全に解放される事はないでしょうね』
 『治療』に当たった1人がそんな事を呟いたのを思い出しつつ、オーマは暫くの間商店会内部での値引き契約を取り付けてるんるん気分で買い物に出、青年を遠目に見て目を細めた。

 そして、あのコインたちはどうなったかと言うと。

「こらこら、そっちは仲間じゃねえだろ?家族だけでのんびり暮らせってばほら」
 オーマが具現化したレジスター…『家』の中で、今日も元気に生きている。当然本物の生命ではないのだが、なにやら意思を持っているようにも見え、時々オーマの財布からコインを取り出しては仲間を増やそうと頑張っているようだ。
「ああはいはい、これが好きなんだな?ったく、王女の顔を刻んだコインばっかり持って行きやがって。コインにも面食いがいるなんて知らなかったぞ」
 じたばたとオーマに取られないようスクラムを組んでいるコインたちから銀貨を取り出して溜息を付く。
「いっそ具現を解いちまえばいいんだが…」
 だが、家族の中でこれらを気に入ってしまった者がいたのだから、オーマとしてもこれ以上手を出せなかった。出来る事と言えば、これらが外に出ないようきっちりと躾ける事くらいだ。
 ――硬貨の群れのボスになるなんて、俺様くらいだろうな。
 どうにかボスとしての面目を保っているだけで、いつか起こるだろうクーデターに備えなければならないな、とオーマは盛大に溜息を付いたのだった。


-END-