<東京怪談ノベル(シングル)>
雨音
ぴたん、ぴたん、
…足音が近づいてくる。近づいて、遠ざかる。
それはまるでリズムを刻むように。正確な間隔で繰り返され、
――ゆっくりと、如月一彰は夢から引き戻された。
夢かもしれない現実の中に。
「………………」
もそり、と毛布が動く。
目は開いているのに、感情が伴っていないためか、その表情は冴え冴えと面を被ったような冷たさと美しさを同居させていた。
その目がゆるりと動いて、部屋の隅に置かれたカレンダーをじ、っと見る。そこに刻まれている曜日を確認し、今日が休日だと気付くと、そのまま無言で軽く息を吐いて再び視線を天井に戻した。
同時に耳に聞こえるぴたぴたと言う小さな足音は、昨夜から降り続く雨がしたたる音だと言う事にも気付き、
「……雨、か…」
ひとこと、呟いてからのっそりと身体を起こした。
*****
しゅんしゅんと沸くポットを火床からずらし、お湯が跳ねるのを気を付けながらティーポットに注ぐ。
その香りがふんわりと室内に広がる頃、改めて一彰はゆっくりと数度瞬きをした。
見る者が見ないと分からない程度の変化。…ようやく目が覚めたとゆっくり室内を見渡せば、雨のせいかひやりとした空気が漂っているのが分かる。
かたん…小さな音を立てて、空気を入れ替えていた窓を閉じた。
お湯を沸かしている間に軽く床を掃いただけですっかり綺麗になってしまった小さな室内。一彰自身が物を必要としないためか、汚そうにも汚しようのない部屋のお陰でいつも清潔に見える。
茶葉が開いたのを確認してカップに注ぐと、きし、と固いベッドに腰掛けて昨日途中まで読んだ本を取り上げた。
「……………」
いつもなら聞こえて来る外の音は、降り続く雨に遮られて聞こえない。尤も、こんな日に外に出て駆け回る子供もそうそういないのだろうが。
時折ぱらりとページをめくる音だけが、いや、それさえも幻想的に聞こえて来る、そんな日。
一彰は、そうやっていつもの休日を過ごしていた。
*****
…こんこん。
本を半分ほど読み終えて、お茶からぬるくなった白湯へ切り替えた頃、ドアをノックする音に我に返って、本を手元に置いて立ち上がる。
「――はい」
鍵をかけている訳ではないドアを開けると、途端にふわっと柔らかな匂いが立ち昇ってきた。…見れば、ドアを開けたすぐ脇の小机の上に、湯気の立つシチュー、それに小ぶりのパン2つが乗せられたトレイが置かれていた。
一瞬、誰が…と思ったものの、古書店の一角にあり、室内からは直接外に出る事のないこの部屋へ訪れる者と言えば、1人しか考え付かない。
――くぅ…
そんな事を思ううち、シチューの匂いに刺激されたのか、一彰の胃が急に活発に動き出した。そうしてみると、もうお昼の時間はとうに過ぎていたらしい。
「……」
トレイを手に、店主のいるであろう個室の方向へぺこりと小さく頭を下げると、ありがたく戴くことにして、室内へと戻って行った。
「………ん」
口に入れた途端、身体の方が空腹だったのを思い出したらしい。
ひと息付いた頃には、トレイの上は空っぽになっていた。
「――…ご馳走様でした」
「…ああ」
皿を洗って部屋を出ると、丁度外に出ていた店主が一彰と目を合わせる。むっつりとした顔に見えるが、怒っているわけではなく、むしろ照れ隠しのために表情を固くしているのだと分かったのは、割と最近の事だった。
それだけ、こうした事が繰り返されているとも言えるが…。
それなりに身辺を整える一彰だが、無頓着な部分はある。それが顕著に出ているのが、自分の食事に関してだった。
お茶だけは、お湯を沸かす習慣が付いたためにそれだけはやっているが、食べる事に執着が薄いためか、1人きりでいる時間が長い休日などは、大抵が店主に教えられて気付く、と言った体たらくだった。
これが仕事中の事であれば、食べる者が自分ひとりでないため、逆にきちんと摂る事が出来るのだが…。
そして今日もまた、それを繰り返してしまったという訳だった。
「――作りすぎてな。夕方も付き合ってくれ」
「……はい」
一瞬遠慮しようかとも思ったのだが、作りすぎた、という名目の元大量に作ったのは間違い無さそうだったので、そのまま素直に受ける事にする。
「それでは、食事の礼に――と言う程ではないですが」
午後のお茶と、先日手に入れたばかりのバイオリンで何曲か奏でる話を申し出ると、相手も遠慮する事なくむっつりとしたままで頷く。
――微妙に目が嬉しそうに緩んでいたのは、きっと気のせいではないだろう。
*****
まだ、雨は降り続いている。
ランプの光がほんのり室内を照らしている通り、今はもう夜。流石にこの灯りの中で本を読むのは目に悪いと、小学校の頃こっそり布団に本を持ち込んで怒られて以来、心がけるようにしていた。
――……でも、もう少しだけ。
ぺら、とページをめくって……。
雨上がりの薄明るい光が外から差し込んで来るのに気付いたのは、最後の1ページを読み終えた直後の事だった…。
-END-
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