<東京怪談ノベル(シングル)>


薄刃陽炎

 ……仮定の話をしてみよう。
 どうして殺しはいけないのか。
 必要とされていない人間一つの命を奪うことですら、どうして人は咎めるのだろうか。
 それを疑問に思うことすら認めず、存在の侭に受け止めることを是とする者は、果たしてその問いに答えられるというのだろうか。
 “世界”の構造は、全てが代償関係である。代償と引き換えに何かを手に入れ、或いは失っていく。その律から外れた存在は、“世界”に存在を許されないのだろう。
 人が人を殺すことが許されていないのは、故に命と同等の代価を支払えるだけのものを持ち合わせていないからであるのかもしれない。
 あくまでも、仮定の話、だ。

「……それが、君が人を殺さない理由?」
 少年の声は問い、
「さあな。実はそうも深く考えてねえかもしれねえ」
 男の声が答える。
 少年は続けた。
「それでも、“ナニカ”の命を奪った代償が自身の生であるという事実もあるよ」
「食事のことか? 牛とか豚とか、あとは馬か。少なからず、“生きている”ってそういうモンだろう?」
「うん。……それに、自分の母親とか」
 季節はいつの頃だろうか、周囲の景色からは全く判断がつかない。少なくとも理解出来るのは、青く茂った葉が針葉樹であることと、今いる場所は公園のベンチであるということくらいだ。コートを着なくても肌寒いとは思わないところからして、冬の真ん中といった季節ではないだろう。自動販売機には冷たい飲み物しか並んでいなかったが、この台は平時そうだったような気がする。
 兎に角、あてになるものは何かも存在しない。
 少年は男と会話をしていた。
 少年の身なりは、鮮明には思い出せない。派手でもなく、地味でもなく。記憶に残らない、丁度今すれ違った人間の服装を言い当てろ、と言われたときの奇妙な感覚に近い。身長は、男よりも頭二つ分以上小柄だ。顔は、感情表現の希薄なものをおぼえさせた。
「自分の母親を殺して、生れ落ちた存在もいるよ。それも殺人?」
 男は笑みを崩さぬまま、
「さあな」
 とだけ答えを返す。
「そうでもしなきゃ、生まれられない“種族”なんだろう、おまえらは?」
 男の次ぐ言葉に、色のない少年の顔に僅かに灯が燈る。
「子を為すためだけ食って、産んで、死んで。生とやらに意味を与えてやってんだ。俺らは何年経っても……もしかしたら何百年経っても見つけられねえし、どうしたいのかすら明確に把握していない。その点では、羨ましいのだと言えるのかもな」
「勝手な解釈」
「だな」
 男は自嘲気味た笑みを返した。さも自分自身の今迄を振り返っているかのような視線を少年は黙って眺め、男の瞳が濁ったことに落胆の色を示した。どうやら彼はまだ人生とやらに意味を与えられないでいるようだ。
 ……別に、期待はしていなかったけど。
 男は二三度首を振って、再度少年の方へと顔を向けた。
「それでも、意味を与えることでしか生きていけないのは、“人間”だけだよ、少年」
「僕のやっているのは無駄な行為だと? “人間”じゃないから、資格がないってこと?」
「ああ、無駄な行為だ。こういうモンがあるからいつまでもしがみ付いていやがるんだよ、俺らは」
 過去に干渉する気は毛頭ない。
 それでも一瞬だけ、少年は男の過去に触れてみたかった。触れることで、自分が“人間”であることを自覚したかった。だがその完全なる自己の否定を肯定することが出来ず、少年は男にやや劣った笑みを浮かべるだけにとどめた。
「……存在を是であるとしか考えない、そう思えないと思うのは、枠から外れてしまった証拠なんでしょうね。決して、僕は君の仲間にはなれないというのに」
 ふと眺めやった自分のイビツな姿は男のものとは似ても似つかないもので、発する音ももはや声ではなく、ただの耳障りなものにしか聞こえない。明らかな違い。“人間”との壁を肌で感じ、そして自分自身の目的を果たさねばならないことに気付く。惜しむかのように、少年は言った。
「随分長く話してしまいましたね」
「そうか? まだ数分しか経ってないが?」
「そちらとこちらの時間の長さは、全く異なるんですよ。虫が短命で、人が長命のように」

 そう、何もかもが異なるんです。
 生きる律や輪、存在を与えるもの全てが。

 声は残像を残し、姿は霧と消える。
 記憶にすら残らないだろう会話は、それでも確かに現象として成り立っていた。
 いや、それすら幻だったのだろうか。
「命の目的、ねえ」
 目的が“それ”だったと結局は理解し得るのは、自分という存在が過去として定義されてしまったときなのかもしれない。少なくとも、生きている段階での明確な定義は、あまり快いものではないのかもしれない。仮にその目的を果たしてしまったとき、腹の中の存在を吐き出してしまったとき、同化していた命を別離させたとき。

 例えば、カゲロウのように目的を達成し終えたときに、死が約束されていたとしたら。

「……俺は、見つけられるのかねえ」

 例えば、その先に死しか待っていないとしても。
 例えば、その目的は“世界”から定義されたものからは、間違いであったとしても。
 例えば、それすら手に掴んでいなかったとしても。

 男には前に進み、壁を薙ぎ払う術しか残されていなかった。





【END】