<東京怪談ノベル(シングル)>


果 て な い 青



 塗り潰された世界は、青。
 瞬きをするのも忘れてしまう程の、透明すぎる青のなかへ沈んでいた。
 眼の端から零れてゆく景色は底の見えない空のようで、それを見ているとこの青の向こう側、なにものも存在することを赦されない空虚へと、意識を奪われてしまいそうになる。そこはとても寒く昏く―――ひとすじの光明も通してはくれないような場所。自分の居るおだやかな世界からはかけ離れた、遠く手のとどかない場所。
 堕ちてゆく恐怖に首筋がちりちりと粟立つ。スライドショウのような青色の連鎖を振り切ろうともがくけれど、伸ばした指先は何も掴んではくれなかった。手を伸ばした衝撃で、小さな泡が舞う。それを見てようやく、自分が水の中に居るのだということが解った。
 ……周りの景色の青はどんどん暗さを増してゆく。身体は止まることを知らず沈んでゆく。引き返すことが出来ないくらいに、沈んで、ゆく。
 ―――ふと、青しか見えなかった世界に、ほんの小さな六等星のようなひかりが見えた。眼を凝らさなければ見失いそうな小さなひかりが、けして失くしてはならない宝玉なのだとこころが言う。頭の中で、痛いほど警鐘が鳴る。捉えなければ掴まなければ捕まえなければ―――そう必死に思うけれど、爪の先すらとどかない。触れることも赦されない希望に絶望する。足掻く苦しさも泡に溶ける。何も見えない。何も、何も、何も、何も何も、何も、何も何も何も何もなにもなにも何もなにもなにも何も何も何も何も何も何もなにも何もな、にも何も何も何も何も何も何も何も、なにも、なにもない何も―――たす、け

「うおわ!」

 飛び起きると朝だった。
 麗らかな日差しが、窓際の観葉植物に注いでいる。陽も既に高く昇っており、あかるく朗らかな世界は先刻まで自分がいた処とは何もかも違っていて。
 オーマは長い溜息をついてから起き上がり、パジャマを脱ぐ。背中を湿す汗が不快だった。荒くなった呼吸を整え、手のひらで顔を覆う。瞼の裏に焼き付けられた青の暗さを払拭するようにおおきく息を吸って吐き出し、ベッドから立つ。
「いやぁ……寝覚め、最悪……。」
 呟きながら、少しでも気分を向上させようと気に入りのシャツに腕を通す。ボタンを締めようと胸に手を伸ばしたところで、そこにあるべきものが無いことが解った。ボタンが飛んでいるのだ。しかも二つ。
「…………。」
 すっげぇお気に入りだったのに。
 プチ厄日なのだろうかと一瞬思ってしまったがそこは自他共に認める楽天的イロモノ親父、悪く思うのは一瞬だけに留めておいた。ちょっぴり沈みがちなセクシィフェイスでキュンとさせるのも悪くはないが、本来愛を振り撒くべき立場の自分がそんな気分で一日のスタートを切ってはいけないのだ。今日に限らず、近頃はどうも不運が重なるけれど、きっと自分の注意が足りなくなっているのだろう。遊んでいる子供たちのボールが顔面にクリーンヒットしたり、テーブルの隅に脚の小指をぶつけたり、ドブに嵌ったり。よくよく考えれば注意力次第でどうにかなる問題だ。けして厄日とかそういう事ではない。
 そう思いながら颯爽と部屋を出ようとした直後、それはそれは思い切り良く盛大なまでに、頭をドアの枠にぶつける。
「…………ッ、」
 ア、やべぇ、今日やっぱり厄日かも。

+   +   +   +

「血を吸われているんですよ。」
「血?」
 出勤直後に医学書の本棚を芸術的なまでの派手さでひっくり返したオーマの元へ運ばれてきたのは、変死体だった。まだ痛む頭を掻きながら安置所へ向かうと、ストレッチャの上に白い布を掛けられた死体が横たわっていた。
 布をそっと捲ると、ストレッチャに乗せられた女性はまだ若く、かつては桜色をしていたであろう頬と唇は無残なまでに蒼白である。ひとに在るべき血の色がすっかりと抜け落ちてしまっており、まるでモノクロォムの写真でも見ているような気分になった。
「異常だわ……身体に一滴の血も残っていないんです。……これで、三件目。」
 看護婦の話では、近頃血を吸われた変死体が見つかるらしい。決まって新月の夜、同じ場所で、花に埋もれたうつくしい死体が見つかる―――と。吸われた血液は綺麗なまでにさっぱりと何処かへ消え去り、街の人々は吸血鬼でも現れたのではないかと噂しているそうだ。
 ざわり。
 身体の何処かが、何かを捉えた。
「……その場所ってのは、何処なんだ。」
「紫陽花、」
 看護婦は少しの間言い淀んでから、紫陽花の丘、とだけ言った。
「紫陽花の…丘?」
「街を少し外れたところにある小さな丘です。今は家も建っていないし人通りも少ないんですけど、昔、名のある富豪が自分の別荘までの道を紫陽花で飾り立ててから、あそこには毎年綺麗な紫陽花が沢山咲いて……でも、この事件の所為で、今は誰も近寄りません。丁度今頃が盛りなのに……。」
 聞きながら眺めた窓の外は、呆れるくらいの曇天だった。天気の悪い日が続く灰色の空に、紫陽花のあざやかな色はよく映えるのだろう。
「……あの青い紫陽花、もう見られないのかしら。」
 ふと呟いた彼女のことばで、オーマの脳裏に今朝の夢が浮かんだ。果ての無い、あおいろ―――ひとを惹き付けて止まず、ひとを飲み込んで已まない空虚。青い紫陽花と、血を抜かれた死体。身体の奥で疼く、ひとつの感覚。
 オーマの瞼の裏で、小さなひかりが弾けた。

「紫陽花の丘の場所―――教えてくれねぇか。」

+   +   +   +

 言い渋る看護婦を説き伏せて掴んだ場所は、街から少し歩いたところにある林を抜けたところ。林の影になっていて街のほうから丘は見えないので、隠れた人気スポットということらしい。
 歩くにつれ、丘が近くなるにつれ、オーマの胸に確信めいた思いがちらつき始めた。今朝の夢がストロボの光のように瞼の裏にそそいで、昏く虚ろな青色が映し出される。なにもない、何も何も何も―――たす、けて―――夢から醒める間際に聞いた声は、オーマのものではなかった。
 人通りが疎らになった通りを過ぎて、林に差し掛かる。陰気な針葉樹が立ち並んだ向こうに、件の丘が有るらしい。
「花に埋もれた死体、か。」
 声に出してみるといよいよ怪談じみた話である。人が寄り付かなくなるのも頷けるというものだ。けれどオーマの頭に浮かぶのは幽霊などではなく、もっと身近で確かな存在であった。近頃の注意力散漫の原因も、これに違いない。
 ウォズが居る。人を喰うことを覚えた、この世界に在るべきでない存在が。
 知らず、歩みが速くなる。曲がりくねった小道を抜けると、針葉樹がふつりと途切れた。どんよりした陽が照らしたのは、泣き出しそうな空を笑い飛ばすような、あざやかな紫陽花たちの群れ―――

 それを眼にした途端、オーマの背筋をびりびりと何かが走った。ヴァレルがそれを感じ取り、ふわりと力をもつ。
 ……ここか。

 看護婦から、海よりも空よりもうつくしい青色と聞かされていた紫陽花は、濃い煤藤色をしていた。純粋な青に、鈍く濃い紅色を混ぜたような色。密集する花たちから発せられる空気は澱んで重く、沢山の人々を楽しませてきた花だとは到底思えない。丘を取り巻く空や風や匂い、景色を形作るもの総てが、悉く穢れていた。
 ―――たすけて。
 か細い声が、オーマの頭に響く。
 夢で呼んでいた声と変わらぬ、絶望と虚無に支配された、弱りきった音。……ウォズが寄生している、のだろう。人を喰うことを覚えたウォズが、オーマを目の前にして嬉しそうに葉を揺らす。ざわざわ、ざわ。
「……ちょっと待ってろ、な。」
 小さく答えてから、す、と目を閉じた。
 オーマはヴァレルを具現化しているとき、『守る』ということだけを強く念じ続ける。大切なもの、あたたかい世界、失くしたくないひかりを思う。自分の身体の奥深くにある、ヴァンサーとしての意識を掴み続ける。瞼の裏にひろがる闇に祈りを捧げる。―――胸に刻まれたタトゥがオーマの声に応じ、脈打つように疼いた。
「助けてやるからな。……こんな見事な紫陽花、ウチの奴らに見せねぇ内に枯れられちまうほど勿体無いこた無ぇ。」
 ことばと共に目を開く。身体を包む感触、手のひらにかかる重量をもう一度確認してから、花たちへと向き直る。
 それと同時に、紫陽花の小さな花弁一つ一つが意思を持っているかのように揺れた。ざわざわざわ。囁き声ほど小さな音である筈なのに、そのざわめきは異常に大きくオーマの耳に飛び込んでくる。意識を掻き回してぐちゃぐちゃにしてしまうような、狂騒じみた音の連鎖。脳髄を静かに麻痺させる響きに、僅かに眉をひそめた。被害者たちは恐らく、このざわめきに意識を奪われてしまったのだろう。聞くもののすべてを痺れさせるのに十分な、狂った音であったが―――
「まだまだまだ―――全然足りねぇよ、」
 オーマはにやりと笑みを浮かべ、銃を肩に構える。オーマから何かを感じ取ったのか、紫陽花の中のウォズは悲鳴に似た奇怪な音を立てた。ざわめき続ける葉陰からは、オーマに絡み付こうと無数の蔦が飛び出す。ざわざわざわざわと啼くウォズに向かって、
「やっぱ俺の脳味噌イカレさせられんのは、ウチのラブ嫁のアツーイ愛の囁きだけなんだなッ!」
 照れも韜晦も躊躇もない清々しいまでの愛を叫んで、オーマは引き金を引いた。

+  +  +  +

「あの事件、ぱったり已んじゃったみたいですね、先生。」
「ンー、そうみてーだな。死人が出なくなって良かった良かった。」
「これで紫陽花の丘でも、花見が出来るようになりますね。お花見パーティの用意しなくちゃ、」
「おーし、それじゃあ俺の出番だな?超絶グレイトフル美筋と百花繚乱素敵に無敵なイロモノ笑顔のスペシャルコンボ☆でムーディな花見をがっつり演出してやんぜ!」
「…………。」

 あれから。
 ウォズを封印すると、紫陽花は元の澄んだ青色を取り戻した。それは看護婦の言っていた通り、空よりも海よりもうつくしい青色をしていたのだった。穢れを総て払い落とした、自然が纏うべき本来の清廉な空気が、あたりを包み込んだ。
 良い香りのする風が揺らした紫陽花の木がさわさわと幽かな音を立て、
 ―――ありがとう、つよいひと。
 確かにそう、囁いたのだった。

「……あいつとあいつとあいつ、それとあいつも誘って、と。」
 親しい人を片っ端から思い浮かべ、うきうきと指を折り数える。仲良しこよしも犬猿の仲も、たまにはみんな揃って花見をするのも悪くない。さてさてどんなイロモノ奇矯花見にしてやろうか――――と、オーマは年甲斐も無くわくわくどきどきなのであった。




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ライタァより:

再びご注文頂きましてどうにも有難い気持ちでいっぱいの、ライタァの青水リョウでございます。
相も変わらずハデにギリギリな納品でしたが(すすすみません)とってもたのしく書かせて頂きました。
今回は、そろそろ季節な紫陽花と絡ませてみました。
きっと、曇りの日なんかに読んで頂けると良い感じなのではないでしょうか。
オーマさんは今まで私があまり動かしたことの無いようなキャラクタで、前回もこの度もあたらしい発見の連続でした。素敵です。
なんだか新米っぷりを露悪しているコメントです(あわわ)
とにかく、今回も真に誠に、有難うございました。

ではではそんな感じで、失礼いたします。
オーマさん一家とPLさまへ紫陽花の花のようにたくさんの祝福と、再会の希望を願って。

   青水リョウ