<東京怪談ノベル(シングル)>


 ルベリアの花

 オーマ・シュヴァルツは花瓶に収められている、一輪の花を指で弾いた。
 その花は余りにも白く、雪のような印象を刻ませる花弁を持っていた。真っ白で綺麗、けれど今にも消えてしまいそうな儚さを併せ持っている。細い茎には似合わない大きな花弁が、ひどく健気に見えしまうのだ。
 揺れるそれを映すオーマの黒瞳も、呆然としつつも心なしか揺れているかのように見えていた。
「……暇、だな」
 そう。
今日、彼の勤める診療所には一人の患者もいなかった。いつもなら外来の病人、怪我人がいなくとも入院している患者はいる筈なのだが、本日は誰もいない。ただ、幾人かの医師だけが退屈そうに窓の外を見つめたり、飾られている花々を見ていた。
窓の外、そこでは大粒の雨が降り続けている。硝子が透明な雨粒に塗りつぶされたせいで、外の景色はひどく歪んでいる。見えない。まるでひずんだ鏡ごしに見ているかのようだ。木々の宿す葉の緑や幹の黄色、それだけではなく、何処か灰色が掛かった空間そのものさえも、どろどろと溶けてしまっているかのように感じてしまう。殆んど、見えないといっていいだろう。
 だからこそ、オーマはこの花を見つめていた。
 揺れる瞳で、視ていた。


 視つめるは、彼自身の―――過去か。


 ざぁっと、乾いた雨音が響く。
 ノイズ。
 過去を振り返るな。
 そう囁く。
 オーマは瞼を閉じて、震える指を握って手の平で包む。 
 くぐもった風が雨を纏って、より一層強く窓を叩いた。
 瞼を、落とす。



 
 オーマ・シュヴァルツ。
 人が一目見れば、歳の程は三十後半近くと見受けられる。引き締めらた肌は、中年に達しようとしている外見とは思えない程に鍛え上げられている。無論、贅肉といえるものはく、余計な筋肉もない。しかし、その癖彼の長い指は時折、繊細かつ敏捷な動きを成す。
 それは長年培ってきた医療技術と、長年銃を操ってきたヴァンサーの術の為だ。薬品の調合や肉の断面が覗き、折れた骨が皮膚を貫くような傷を扱うのにはそれ相応の技術と指の動きを要するが、実は銃の引き金を引くというのも同じだった。
 彼は戦う時には具現化させた銃の長い銃身を片手で押さえ、もう片方には引き金を持つ。右の指で引き金を引きつつ銃の反動を添えた左で抑えるのだが、その動きには無駄の一欠けらも許されない。
 地面に置いて設置したり、クッションなどで反動を和らげるのではあれば別に問題はないのだが、長距離の狙撃を行う祭には僅かな入射角度のズレも許されないのだ。例え微かな、それこそ小数点の誤差だったとしても、百メートルを弾丸がその誤差の上を駆ければどうなるであろう。では、二百メートルは、五百メートルでは? いや、ある世界にはすでに射程2Kmと言われている長距離狙撃銃が現存しているという。
 それほどの距離では、小さな誤りが大きな誤りになるには十分。狙撃とは丁度、顕微鏡などに使われるレンズと同じなのだ。
 そんな中において、長大な銃を両手で操るというのは、強烈な発砲の反動を抑える為に必要となる膂力もさる事ながら、引き金を引いた瞬間から弾丸が銃口から飛び出すその時まで絶対に銃口を動かさない事が必要とされる。ただ、押さえるだけではダメなのだ。それでは銃身がぶれて命中精度が下がってしまう。だから、どうやってその衝撃を受け流すかが必要となるのだ。その為には、どう銃を構え、何処をどうやって左手で押さるか、それこそ一流という言葉では称し切れない技量を必要とする。
 オーマは長い戦いの末にか、それだけの技術を身につけていた。それは体の隅々まで神経を巡らせて、己の意思の間々に体を動かすという事かもしれない。だからこそ、神業とも取れるだけの指先の動きを可能にさせているのかもしれなかった。
 どちらにせよ、彼は今、一流の技術を持つ医師。
 銃を手に取らなくてもよいのなら、それでよかった。
 それが、良かった。


 こそこそと鳴く雨音に、オーマはようやく瞼を開けた。
 と、同時に、目前に薄い暗闇が広がる。それは雨の日の、辛うじて雲を貫いて届いた仄かな日光ではなかった。
 きっと、もう日が暮れているのだろう。光のない瞼の裏の世界に慣れてしまっているせいで、まだ月明かりや星屑の明かりが零れる闇夜の方が、明るく感じてしまっているのだ。
 ようやく働き始めた脳と眼球を揺り動かしながら、オーマは立ち上がる。
 さらりと、彼の黒髪が白衣の間に入り込んで、背筋を撫でる。
 月は白く、星も白い。いや、星の中には青く光る物もあり、黄色く光る物もある。
 しかし、その何れも哀しそうな瞬きを地に送っていた。
「……んーっ……」
 背筋を、ぴんっと伸ばして、座っていた椅子とセットになっている机の上にある蝋燭に火を灯す。
 マッチのしゅっという摩擦音に続いてすぐに、オレンジ色の光はぽうっと浮かんだ。
 照らされるのは、質素な机板。軋む椅子。オーマの姿に、咲き続けてる一輪の花。
 永久に願いを。
 永久に祈りを。
 久遠に咲き続けてと、
 久遠に想い続けると、
 月明かりに、そう、唄う花。
 白、雪に埋もれるような花。か細くて綺麗で、けれど、一年中花を咲かせる永年花。
 名は、ルベリア。花言葉は、『永久の想い』と『永久の仲』。時として、結婚式にも用いられる花だ。
 何を祈ろう――
 オーマの顔が、綻んだ。
 決まっているだろ――

 ――永久に、笑顔を――

 引き金を引いた指で、命を縫いとめて。
 縫いとめた指で、或る物の命を刈り取る。
 でも、笑えるように。笑えっていれるように。誰かではなくて、自分も含んだ皆が。
 笑える、ように。
 

 夜は、黒。
 吹き付ける風は、雨を伴って世界を叩いた。窓は闇色に染められた雨粒に塗りつぶされて、黒々とした洞穴をそこに作る。風の音さえも、背筋を這うような冷たい音。
 黒夜。
 そこで、オーマの灯した小さな火が、やけに大きく強く見えた。