<東京怪談ノベル(シングル)>
はためく海賊旗
海風が吹き抜け、帆を大きくたなびかせる。
静かな波音だけが世界の全てのようにも思えた。
青い空には白い雲が浮かび、上空を音もなく鳥が飛んでいく姿が見える。
港に泊められた大きな船。
現在修復中なのだが今日は皆に息抜きをさせる為、休みを言い渡しており、修復作業は中断されていた。
普段ならば五月蠅いくらいに怒鳴り声が響いている船上も今は静かだ。
何処かもの悲しい雰囲気があるのは、静からだからというだけでなく、その船には足りない物があるからだろう。
その船を象徴する旗がないのだ。
慣れ親しんだ船を象徴する海賊旗は、今はこの船を所有する海賊団の頭であるロー・ヴェインの手元にあった。
担ぐようにして持ったローの背後ではためく海賊旗。
長身のローが持って、地に着かない程度だ。かなりの大きさがあるといえよう。
この旗を船の天辺に掲げて、ローはあちこちの海を流離ってきた。
しかしローが率いる海賊団の存在は噂でしか確認されておらず、多くの海原をいく者達はその存在を夢物語のように語っているだけだった。規模も、構成員も全ての人々の間で未だ謎に包まれているのだ。そして本当に居るのかさえも。
しかしこうしてローは確かに存在している。
この海賊団の存在を知ってるのは本人達、ローの同胞とも言える者達だけだった。
低空飛行をしてきたカモメがローの脇を通り過ぎていく。
右目を覆う布がその風で揺れた。
ローは空に舞い上がるカモメを眩しそうに眺めていたが、おもむろにその海賊旗を畳むと甲板から降り、宝箱の中にそれを仕舞う。
そうして、出かけてくる、と船を守る者に告げローは船を後にした。
何処に行くというあてもなくローは港町を歩く。
活気に溢れた街は海とはまた違う輝きを見せている。
海で過ごす事の多いローだったが、陸での生活も捨てたものではないと思う。
どちらにもそこでの良さはあるのだ。
人よりも頭一つ分程大きいローは目立つ。
いい男だ、と擦れ違った女性はローを振り返るが、その後ろ姿を見ながらもう一度その顔を思い出そうとしても、『いい男だ』と自分が思った顔を忘れてしまっているのだった。なんと残念な事だろう、と女性達は項垂れる。
しかしどこにもローの顔を覚えていられる者は居ないのだ。それはローがある呪いをかけられているからに他ならない。
だからこそ、世界中に名が知れ渡っている海賊だというのに、伝説のように夢物語のようにしかローは語られていないのだろう。
誰の記憶にも残らない顔。
そのおかげで付け狙われる事もないから、海賊の頭としてはいいのかもしれない、とローは少し前向きにそのことを思った。
そんなことを思いながら街を散策していると、広場で丁度武闘大会が催されているようだった。
そのまま素通りしようかと思ったが、そこがかなりの盛り上がりを見せていた為、気になってローは人混みの中へ近づいていった。
そんなに良い試合をしているのだろうか、と覗いてみると二十歳前後の青年が柄の悪そうな男に挑んでいる所だった。
スピード重視の青年と一発に重みのある重量級の男。
ぱっと見た限りでは甲乙付けがたいような感じに見えた。
ローは正々堂々と挑む青年に好感を覚え、その様子を眺めていた。
確かに人々が盛り上がる試合だと思う。
男の半分くらい細い青年が大男相手に互角に戦っているのだから。
しかし、何度か殴られ青年の足下がぐらつく。
そこを狙い、男は軸足となっている方を攻撃し、青年の体勢を崩させる。
青年もギリギリのところでそれを交わすが、そう何度も交わせる訳ではなく、何度か重いパンチを食らってしまっていた。
よろめいた青年は眺めていたローの元へと倒れてくる。既に意識は朦朧としており、気絶寸前のようだった。
これまでだろうな、とローは思いながら倒れてくる青年をただ見つめていた。
そこへとどめと言わんばかりに突っ込んでくる大男の姿がローの目に入る。
誰の目にも青年の負けは確実で、既に勝敗はついていた。これ以上の戦いは無意味だ。レフリーも大男を止めにはいるが、それを弾いて大男は青年に迫ってくる。
ローは倒れ込んだ青年を庇いながら突っ込んできた大男の拳を片手で止めた。
カットラスを使うまでもない。
「勝負は付いている」
「勝手に人の勝負に入ってくるんじゃねェよ」
大男は、けっ、とローを睨み付けながら告げる。ギリギリと拳を前へと突き出すが、それをローに握りこまれ声を失う。
戦いを好まないローだったが、目の前で行われていた試合は途中から意味を違えてしまったようだ。
見て観ぬフリも出来たが、目の前で嬲り殺されそうな青年を見捨てる訳にはいかない。
「だから勝負はもうついている」
「ぁんだよ、俺のやり方に文句あるってのかー? だったら、テメェが俺と戦ってくれんのかよ」
俺はまだ戦い足りねェんだよ、と告げ、手を離した男にローは溜息を吐くしかない。
ここでローが断ったら、この青年が袋叩きにされてしまうのだろう。せっかく助けたのにそれでは元の木阿弥だ。
ここは乗りかかった船だと思って、正々堂々と戦うしかないのだろうか。
男はダガーを取り出し構える。
「ほら、さっさとアンタも武器を構えろよ。10だけ数えてやるぜ」
ニヤニヤとしながら男はゆっくりと数を数え始める。
肉弾戦ではなく、自ら武器を持った男。それならばローも加減する必要はない。
ローもカットラスを構える。
「やーっとやる気になったか。よーし、10」
男が10数え終わるのと同時に、ローは男へと走る。
そして男の振り下ろしたダガーを弾いて、間合いに入ると首筋にカットラスを当てた。
ピリっ、と男の首元に走る痛み。
寸止めをしたが、鋭い空気が肌を切ったようだ。
あっという間についた決着に、集まっていた人々はどよめく。
レフリーも呆気にとられたようにそれを眺めていた。
しかしふと我に返り、主催者に指示を仰ぐ。すると主催者はローを指差し、その者の優勝だ、と告げたのだった。
どうやら今目の前で行われていたのは決勝戦であったようだ。
そこへ男に巻き込まれた形ではあったがローの飛び入り参加。それが認められたのだった。
別にトロフィーも何も要らないと告げても、主催者側がそれを譲らない。
仕方なくローはそれを受け取り、たくさんの人々の拍手に湛えられながらその場を去ったのだった。
船に戻る道のりで、何度そのトロフィーを手放そうと考えただろうか。
船に持って帰ったら持って帰ったで、なんとめでたい事だろうと船員達が飲めや歌えやの大騒ぎをし始めるに違いないのだ。
そう思ったものの、ローは捨てる事も出来ずに結局そのまま船へと持ち帰ってしまう。
見つからないうちにさっさとしまってしまおう、とローが思っていると、甲板からローを呼ぶ大きな声が聞こえた。
「頭領発見! 頭領、頭領ーっ!」
大きく手を振った青年は甲板からローを大声で呼ぶ。
もし青年に尻尾がついていたなら、間違いなく忙しなく左右に尻尾を振っているに違いない。
ローに懐いている船員の一人である青年の様子に、ローは思わず苦笑してしまいたくなる。
「頭領ーっ! その手に持ってんの、さっきあそこでやってた武闘大会の? 顔は覚えてないけどえらく背の高い人が飛び入り参加で勝ったって聞いたからさっ」
ニパッ、と笑顔を浮かべた青年が見つかる前に仕舞おうと思っていたトロフィーを目ざとく見つけ声を張り上げる。戻ってきていた船員達がその声に騒ぎ始めた。しまった、と思うがもう遅い。
「あとさー、頭領。船になんか足りないと思ったらさ、海賊旗がないんだっ。やっぱりあそこではためいててくれないと」
マストの天辺を指差しながら青年が言う言葉。
それを聞いて、やはりアレがないと駄目か、とローは思う。
海賊旗が無くても、もちろん海賊団が消える訳でも、培われた絆が消えてしまう訳でもない。
しかし象徴として掲げられたこの海賊旗はこの船に乗る者の誇りなのだ。
時として荒れる海を生死をかけ共に乗り越え、襲い来る他の海賊の襲撃に立ち向かい生きてきたその証とも言える海賊旗は、あるべき場所になければやはり意味を成さない。
その船に乗る者に勇気を与え、未来へと続く夢を見させる。
「そうか。少し待っていてくれ」
そう告げてローは先ほど船を出る前に閉まった宝箱の中から海賊旗を取り出す。そして代わりに先程貰ったトロフィーを突っ込んだ。これこそ、この中にあるべきものだろう。
宝箱から取り出し、勢いよく広げた海賊旗はローの手から飛んでいきそうな程にはためいた。
青年の元まで持って行くとそれを手渡す。
「‥‥上げてくれるか?」
「もっちろん!」
全開の笑顔で青年は海賊旗を受け取ると、マストへと昇り始める。
そして天辺まであっという間に昇った青年は手慣れた様子でその海賊旗をマストへと括り付けた。
あるべき場所に取り付けられた海賊旗は、海風を受けて音を立てて青空に浮かぶ。
「やっぱこうでなくちゃね」
「あぁ」
ローは頷いて青年が降りてくるのを眺めた。
そして二人は共に海賊旗へと視線を向ける。
何処までも高い青空に、その海賊旗は存在を誇示するかのように大きくはためいていた。
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