<東京怪談ノベル(シングル)>


風と猫

 潮風が鼻をくすぐり、ソノ・ハの長い銀の髪を揺らす。膝に乗っている茶色の野良猫が陽射しを浴びて眠たそうに欠伸をし、爪を立てないように器用に伸びをして再び丸くなる。手を伸ばすと触れる背骨は細く容易に折れてしまいそうな錯覚をおぼえるが、恐らく事実であるだろう。命がいとも容易く奪えることを是とはしないが、非ともしない。軽く触れ、すぐに毛だけを浅く撫でるだけにとどめた。
 海の街という訳でないのに海に面したそこで、ソノ・ハは岸に腰を掛けて遠くの風景を眺めていた。既に幾時間もそうしているので、付近を通りかかった住民にとっては奇異な光景にも見えただろう。だが余所者意識の強いその土地では、気軽に見知らぬ人間に声を掛けるという行為は殆どないに等しいのかもしれない。
「…………」
 無言でただ、海を見詰める。ぶらぶらと揺れる足の下では、小さい魚が泳いでいる。釣りをする人間もいないのは小魚にはキャッチ・アンド・リリースが一般的に暗黙の了解として成り立っているせいで、成果を誰かに見せびらかしたい人間は初めからそこで釣ろうとはせずに別の岸へと釣りの場を移動している。
「なに、してるの?」
 その土地で初めて掛けられた声に、ソノ・ハはゆっくりと首をそちらへと向けた。子供だった。
「海を見てるんですよ」
「海? 別にそんな注目するもんじゃないじゃない?」
「でも、こうやって眺めると、普段気付かない一面も見れますよ」
「そうなの?」
「そうです」
 笑みのない淡淡とした喋りに、それでも子供は屈託のない笑みを浮かべてソノ・ハの横に腰掛ける。何を話そうか、と子供が手をわきわきさせていると、ふいにその視線に膝上の猫が入る。手を伸ばそうとすると、貴婦人はひどく怠惰な目で子供を睨み、「近付いたら引っ掻く」との意思を青い目で明瞭に語っていた。
 安眠の妨害が置きに召さなかったのか、猫は尻尾をつんと立てて海辺を後にした。
 子供の目が申し訳なさそうな目でソノ・ハを見るが、構わないと示した手によって安堵の息を立てる。
 ひどく変わらない日常の一部になれていることに驚きつつ、ソノ・ハは子供にすぐに帰るように促した。この街は排他的すぎる。余所者の自分と一緒にいると、あらぬ噂が立てられるかもしれない。全てを口に出す訳ではないが、例え一から十を説明しても理解されるとは思っていないので、寒くなってきたからと満更嘘でもない嘘をついた。子供は想像していた通り、頬をぷうと可愛らしく膨らませて、家のあると思しき方向へと駆けていった。
 その背を見送り、ソノ・ハは軽く手を伸ばす。
 風は止むことはなく、鼻に香るのは潮の匂い。一歩前へ歩めば、体は海の底へとダイブを始める。流石にそこまでしてしまえば、一層の注目を浴びてしまうので止したが、「衝動」と呼ばれるものは絶えず体を流れていく。
 特に目的もなく、ソノ・ハは歩みを開始した。どこかへ行こうという気も、誰かに会おうという気もない。ただ流れいくままに、風のように、ふらりと姿を消した。
 余所者が一人消えたところで、誰かが気にも留めることはまずない。自分自身がここにいたのだという証拠を一切残すことをせず、記憶からも姿を消す。
 戻ってきたときには温もりのほかを感じられないことを不満に思いながら、猫はソノ・ハの腰掛けていた場所に体を落ち着けた。温もりもすぐに冷たくなり、痕跡は何もかもが失せてしまう。
 猫はそれでも、その場所を動こうとしなかった。





【END】