<東京怪談ノベル(シングル)>
君に幸在れ
『夢の果てでまた御逢いしましょうね』
夢の奥底でそう言われた気がして、ルーン・ルンはゆっくりと瞼を押し上げた。何と遠い夢よ──寝乱れたシーツの上で上半身を起こし、くしゃりと髪の毛をかきあげた。
瞳を開けた瞬間、猛烈な激痛が眼球を襲う。予想し得なかった事態にルーンは唇を噛み締め、掌で目を覆った。ずきりずきりと断続して続く痛みを堪えながら、ルーンはそっと瞼を押し上げる。
見下ろした掌にぱた、と落ちるのは──血の涙。流れ続ける止まらない其れに、ルーンは痛みも忘れて瞳を見開く。覚えが在る、此れは、此れは────……
「──彼女の聖痕」
ルーンが認識し呟いた瞬間、膨大な知識が脳裏に流れ込んでくる。
古びた城の外観、映し出されるのは地下牢獄。無惨に、そして残酷に曝された彼女の肢体。足元の床に転がるのは彼女の眼球。暗く湿った地下牢獄に、彼女は今も繋がれて──近づいてくる死を、今か今かと待ち構えている。其れでも拷問は続くのだろう、力無き聖女を弄ぶ──陵辱として。
「逢いに……行こうカ」
呟く。
聖女ではなくなってしまった聖女に、逢いに。
かつて、彼は彼女と親交が在った。
夢。この世界で在り、何処でもない其の場所で、二人は何度も言葉を交えた。
「ルーン・ルン」
そうして長い間逢瀬を重ねた末、彼は自分の今の名を告げた。だが彼女は緩やかに首を振り、其の名前を受け取ろうとはしなかった。胸の前で両の指を組み、じぃと彼を見上げて呟く。
「夢の聖者」
彼女は今も彼をそう呼ぶ。親愛を込めて夢の聖者、と。初めは螺旋の聖者だった。幾通りも在る彼の通り名の内、彼女は其れを選んで呼んだ。
そして幾度目かの逢瀬、言葉を交わしていた際に彼女はふと、言った。
「其れが貴方の福音……なのですね。──夢の聖者さま」
夢の聖者。少なくとも彼には、夢ではないものを与えている自覚が在った筈だが──其れすらも覆してしまうか、彼女は。くつくつと喉奥で笑いを噛み殺す。何とも皮肉な事よ──絶望に本質が近いものを、夢の聖者と呼ぶか。其れがこのステージを指しているというわけでも無かろうよ。全てを纏めて彼女は指したのだ。
異国の小国、迫害されし民の中に顕われた少女──其れが彼女。
生来の盲目。
其の瞳から流れる雫は全てに活力を。
病傷を癒し、土地に息吹や更なる実りを。
彼女も聖痕を示す聖女。
そう、彼と彼女は似たもの同士だ。重なり合う事が出来ぬ、相似形のもの。
彼は嗤う。
「オレにはキミの涙が血──全ての生き物の中に流れる、命に見えル」
弾圧と迫害の王は其れを求めた、富国と強兵の為に。強慾な人間ならば、欲しない筈が無かった。命に通ずる永遠を現す涙。求めて毟り取られ、そして彼女は墜ちた。大国の脅威に晒される渦中という背景。
其れが、彼女に関する全ての記憶だ。
古城の地下牢獄の中に、一つの影が入り込む。
嘗て彼女と逢った様に、夢を使うという方法も無くは無かったが──だがルーンは、自分の足を用いて其の場に現われた。儚げな少女が、手枷や足枷を付けられ、其処に横たわっている。傍に落ちているのは彼女の眼球──既に腐り掛けた其れは、長い間放置されていたのだと判る。落ち窪んだ眼窩が思考に痛い。
聖女の中に宿る灯火は、潰えつつ在った。
「オレは夢?ソレとも?」
無邪気とも取れる調子で、ルーンは問う。悪意の無い悪意。善意でない善意。
「光は差したカイ?君ノ瞳に。コノ世界に」
まるで何も知らない幼子が笑うように、白い無垢な笑顔をルーンは見せた。曝され暴かれた少女の身体は傷だらけだ。体罰、陵辱、其れとも? だがルーンに知る由は無い。唯消え行く命の灯火を、傍観者の立場から見守るだけだ。
ルーンに気付き、少女はそっと顔を其方へ向けた。向ける瞳は無い。口許が綻ぶように笑みを象る。少女らしい少女の笑みだった。彼女はそっと、ルーンを仰ぐ。
────間に合った。この人は死を悼まない。変わらず送り出してくれる。
「全てを知り、見届けてくれる──其れだけで……」
其れも又、救いと為り得よう。
途切れ途切れの言葉は既に覇気が無い。張りの在る声ではなくなっていた。だが其れでも少女は必死に声を紡ぐ。
ルーンは転がった彼女の眼球を手に取り、ふと、瞳を細めた。腐り掛けた眼球は、光を失って掌に転がるだけだ。徐に空いた片手を持ち上げ──ルーンは、自分の瞳を抉った。肉が裂ける嫌な音がして、濃い血の匂いが噎せ返る様に広まる。少女は何も言わなかった。言えなかったのかも、知れないが。
血に塗れた手で、ルーンは少女に眼球を握らせる。暖かな命の感触に、少女はもう一度、微笑んだ。もう喋る気力も無い。あと数分も持たぬだろう。命は等しく尽きる──彼女は其れが、早かっただけなのだ。
「君の瞳は──モウ貰ってしまッタから」
意識が薄れ行く中で、少女はルーンの言葉を聞いた。暗い暗い闇の中で、暖かな光のように降り注ぐ言葉。
「君に、幸在れ」
■■ 君に幸在れ・了 ■■
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