<東京怪談ノベル(シングル)>


黄金色の夢のあと


 にゃぁおと聞こえて、オーマは僅かばかり目を細めた。
 夜も更けた頃、路地の横道から一匹の黒猫がふらふらとした足取りで姿を現した。猫は闇に光る黄金色の瞳を向けて、彼の前でピタリと止まる。
「……どうしたよ」
 コツと足音を響かせてオーマは猫へと近寄った。ひょいと腰をかがめれば、その猫がニヤリと表情を変えた気がする。
「よく、分かったな」
 やはり、猫の顔は笑っていた。自分を見つけるだろうと自信さえ含む猫の言葉に、オーマは、「ふはは、分からいでか! 随分と体調悪ィみてぇだがどうしたよ。ウォズの子猫ちゃん」などといつものふざけた調子。
 猫の口元が途端に不満そうに歪む。
「子猫ちゃんなどというな! ワシャこれでも長年生きとるわい」
 艶やかとは言いがたいその毛並みと痩せた身体に嫌なほど似合ったしゃがれ声が、もう一度言葉を紡いだ。

 ――ウォズだ。
 危険因子とされているそれであったが、こうして時折人の生活に紛れ込もうとするものが在る。猫の口調にやはりそうなのだと、オーマは思わず喉奥で低く笑った。
 フンと一鳴き、猫は路地の壁際へと僅かに歩く。足取りはやはり覚束無い。今にも倒れこみそうなその様子に、オーマも猫をまねるように壁にもたれてから座り込んだ。隣の猫が尻尾を一度だけ緩やかに振ってオーマを見上げた。
「お前さん、医者だろう。オーマとかいう」
「おうよ。まぁ、ここまで美しい筋肉マッスルむきむきラブボディ男なんぞそうそう居やしねぇからな。間違えようもねぇってな!」
「よく言うわい」
 ちろりと向けた黒猫の丸い目が呆れたように数度瞬く。
「――で、俺を呼び止めたってのは理由があんだろ? どうした。病気か?」
 さぁ腹を見せろ、と冗談半分に手を伸ばしたオーマに猫が軽くパンチをくれた。
「……お前さん、ウォズを封印できるんだろう」
「……そっちか」
 受けたパンチに片眉を下げ、オーマは軽く肩を落とす。猫との間に奇妙な沈黙が流れたのはほんの一瞬だったけれど、闇のせいか冷えた空気のせいか、それは酷く長い間にも思えた。
「なぁ、オーマよ。ワシャ、人間に紛れて暮らすことを、あの若夫婦に拾われた時に決めたんじゃよ」
 オーマを見つめていた視線が、ふいに遠くの闇に投げ出された。
 闇の奥の、さらに奥さえも照らし出しそうな黄金色の猫の瞳は、闇などではなく一番幸せだったときを映しているようにも見えた――けれど。こうして語り始めた者の顛末が、大抵幸せでない状態にあることなんて、オーマはとっくに知っている。
「ワシを飼っておった若夫婦はとても気さくで、ワシを凄く大事にしてくれた。それが若夫婦が事故で亡くなってからというもの――世の中はどうしてこうも悪意に満ちているんじゃろうか」
 黄金色が翳ったのは、闇の先に在った若夫婦が消えてしまったからだろうか。
「ワシがこの姿になって最初に拾ってくれたあの若夫婦が一番優しくて、一番綺麗な思い出じゃった。
 彼らのために、ワシはこの姿のまま居ようと思った。人と同じに、食べ、寝、そして起き。……だのに。子供達はワシを小さな猫だと苛める。喰うために、わずかばかりの食料のためにゴミを漁れば追い払われる。小汚いと。近寄るなと。
 しかしオーマよ。主人を亡くしたワシが他にどうやって生きられる。ウォズであることを何もかも抑え付けて生きていくのに、他にどんな方法がある」
 知っているだろう、と。
 猫の目がきらりと光った。オーマを見つめた。その自分よりも幾らも小さい猫の目に、オーマはまるで壁に縫い付けられたような感覚を覚えた。
 逸らす事の出来ない視線に、人生に背負った胸元のタトゥが酷く大きく疼いたような気さえする。
「――ワシにとっては食う飯が無いよりも殴られるよりも、真っ直ぐに向かってくる悪意やその言葉の方が痛い。痛いんじゃ。分かるだろう、オーマ。
 強い想いほど、それが良かれ悪かれ、あれはワシらに酷い影響を与えるんじゃて」
 小さな想いでも。悪意を持って真っ直ぐに向かう気持ちは、小さな針だ。小さな針がつける傷はほんの少しの痛みかもしれないけれど。
 ――けれど。
 無意識にもそれを幾度も受けていたら、身体はどうなってしまうだろう。外傷がなかったとしても、その中は――心は。どうなってしまうのだろう。
 それは、ウォズでも人でも同じだ。
 信じていたものに裏切られるショックは、へたをすれば一生消えない傷になる。
「年寄りのわがままじゃ。……それでもな。ワシはワシであるまま去りたい。ウォズとして人を傷つけるでなく、あの若夫婦と居た頃のように今のまま去りたい。
 だから、オーマよ」
 闇を見つめていた双眸が、再びオーマを捉えた。
 言葉を交わして十分経ったか否か程の時間であったのに、その目は会った瞬間よりも遥かに濁っていた。暗い色を落としてた。

 だからオーマよ。いっそワシを封印してくれ。

 ――しかし告げようとした猫の言葉は、
「ただ今注文は承っておりまセェン♪」
 彼のふざけた言葉に無理やりに抑え付けられた。
「にゃにっ!?」
「つーかよ。『アタシ優しい気持ちに飢えてるの、マッスルボディにラブパワー全開で癒して欲しいわ』ってこったろ?」
「なんじゃ、そのワケの分からん三流芝居並みのセリフは!」
「よし、俺に任せろ。飼い主を探してやる」
「ってちょっと待て、こりゃ! 勝手に抱えるんじゃ……!」
 猫の反抗はむなしい。どだい元々の体格が違いすぎる。人間と猫では、なかなかに勝ち目は無い。オーマは猫を肩に担いで鼻歌交じりに路地を歩き出した。
「こりゃ、オーマ、オーマよ! 離せ、下ろせ! 下ろ……」
「ん?」
 肩で暴れていた猫が、急に大人しくなる。ぐったりと体重を預けるようにしたのか、肩の重みが突然増えた。
「――お前さんの肩口は、妙に気持ちいいでの」
 ぺしぺしと力なく猫の手が肩を叩く。
「……気持ちいい?」
 ――服のせいか? と。ゆるゆると目の前で遊ぶ猫の尻尾にオーマは思わず呟いた。
 そもそも、ウォズと自分は切っても切れない関係にあるのだ。そんな自分の力を抑えるためにある戦闘服――ヴァレルのこと。ひょっとしたら、もしかしたら。何かしらウォズとの間に作用してもおかしくないんじゃないだろうか。
 もしも、そうでなくても。
 大切なものさえ奪う己の力を抑える、まるで戒めのようなヴァレルが――僅かでも誰かに、人であろうとウォズであろうと、誰かに安らぎを与えられているのなら。
 そう考えたほうが、自分だって僅かでも救われるじゃないか――
「安心しなって。もしも貰い手がなかったら病院に寝床つくってやっからよ」
「……うぅ、それはなんか嫌じゃ……お前さんと一緒は嫌じゃ……!」
「わがまま言ってんじゃねぇよ、じーさん」
「うぅ……」
 言葉も途切れ途切れに。疲れが押し寄せたのか、猫の口調は次第に覚束無くなってくる。『嫌じゃー』だの『離さんかー』だの口にしているうちに、ついに寝息を立て始めた。
「……寝床はどこに作っかねぇ」
 猫の意見などどこへいったのか。
 すっかり病院へ猫ベッドを作ることを決意したオーマは、路地を、その闇の奥へと消えていった。
 力を持つものがウォズに与えた僅かばかりの癒しを、その瞬間を。己に刻まれたヴァンサーである証のタトゥへと教えるように、柔らかく――そっと一撫でしながら。




- 了 -