<東京怪談ノベル(シングル)>
影を落とす空の下で
昼でさえ滅多に陽のささぬ、薄暗い、とある森の深奥で、オーマは一人の老人と向き合っていた。
黒い髪をかき撫でて過ぎて往く風は幾らか肌寒く、めくれたばかりの土や苔の匂いが、一面に満ちて広がっている。
場所は――――分からない。どう歩きここに辿りついたのかも分からない。否、それ以前に、なぜ今自分がここでこの老いた男と共に在るのかさえも分からない。
――――夢、か。そう思い、オーマ・シュヴァルツは周囲に気を巡らせる。
「まぁ――――夢だろうがなんだろうが、そうやって俺と向き合ってるって事ぁ、俺に何か用事があるって事なんだろ?」
そう問いかけると、老人は枯れ枝のような細い眼でオーマを見据え、笑むでもなく、怒気を見せるでもなくただ黙して、小さくかぶりを振った。
沈黙が流れる。陰鬱な影を忍ばせた黒い森の中には、葉が擦れ合う音や、呪い歌を奏でているような風の音しか響かない。
「なぁ、ジイさん。俺に何の用事だ? 依頼か? 茶に付き合えってぇ事はねぇだろ? こんな場所じゃあなぁ」
沈黙に少しばかりの苛立ちを覚え、オーマは身を乗り出して老人の顔を見やった。
「……これは夢じゃと――そう思うておるのだろう?」
オーマの視線をゆらりと捉え、老人はようやく重い口を開く。
「そうだろうとは思ってるがな。まぁ、夢だろうが現実だろうが、さほど変わりはねぇさ」
そう返すと、老人は初めて表情を歪め、引きつるように笑みを浮かべた。
「そうであろうとも。御主はもはや、この場からどこへも行けぬのだから」
「――――ハハァ」
「御主のその紋」
老人は真っ直ぐにオーマの胸元を指差し、深淵を思わせる虚な眼差しを細ませた。
「御主は元々この世界の住人ではなかろうが」
「ハ!」
老人の言葉に、オーマは肩を竦めて笑った。
「なんの意味も成さねぇ事を言うジイさんだな、こりゃ」
答え、立ち上がる。腰を下ろしていた大木がゴロリと転がり、シダの群生の中へと分け入って止まった。
「悪ぃが、ジイさん。俺ぁ、あんたに付き合って話し相手をしてやれる程にヒマしてねぇんだ。大した話があるわけじゃねぇなら、俺ぁもう行くぜ」
そう述べて軽く片手を持ち上げる。見れば、老人はやはり真っ直ぐにオーマを見据え、表情の一片をも乱す事なく口をつぐんでいる。
「言ったであろう。御主はもはや、この場よりどこへも行けぬのだ、と」
オーマを見つめ、老人がそう告げる。
ざわりと風が吹き、森に圧し掛かるように広がっていた空の色が、一瞬にして紫色へと変容した。
「――――ハハァン、なるほど」
腕を組んで不敵に笑んでみせるオーマに、老人もまたゆらりと立ちあがり、そうして初めて表情らしいものを浮かべてみせた。
糸のように引かれた口の両端を耳近くまで吊り上げて、眼孔はもはや、およそ人のそれとは異なる形に歪められている。
森の木々は生き物の触手のようにうねり、撫でていく風の声は呪と嘲笑との入り交ざったものへと移り変わっていた。
「どうりで、生き物の気配が全く感じられなかったわけだ」
それらを眺めるオーマの顔は、どこか遊戯を見つけた子供のように明るい笑みを満面にたたえている。
「御主」「おまえは」「きさま」
老人が口を開くごとに、様々な声がオーマの耳に恨み言をささやく。
「御主等はその紋の元、我等を屠り続けてきたのだ」「同胞を」「はらからを」
声は遠くなり、あるいは近くなりながら、オーマの頬をひやりと撫でて流れていく。
オーマは改めて老人の顔を眺めると小さなため息を洩らし、ゆっくりと踵を返した。
「おまえ、あれか。ウォズか? 少なくとも人じゃねえだろうとは思っていたが、ウォズらしい気も持ってねぇようだから気にしなかったんだが」
近付きながら笑いかけてみせるオーマに、老人の笑みがさらに歪んだ。
「忌むべき力を備えし異端者よ」「同胞よ」「はらからよ」
「その内に在って殊更に異端なる者よ」「同胞」「同胞」
「御主は二度とこの場より他へは行けぬ」「行けぬ」「行かさぬ」
呪い歌が風の音と共に森に響く。ざわり、ざわり。森の影が色を濃くしていく。魔物の血を映したような紫色の空が、ねっとりと森を呑みこんでいくのが分かった。
オーマは目を細めて肩を竦ませると、ゆっくりと睫毛を伏せて呼吸を整える。
「おまえ等が俺を仲間だと思いこむのは自由だ」
吐きだしつつ、目を開く。開かれた眼は、目の前の事象を愉しんでいるかのように、血の色を滲ませていた。
その眼をゆらりと細ませ笑みを浮かべると、オーマはゆっくりと胸元の紋――ヴァンサーとしての証、タトゥに指を這わせる。
「しかしだなぁ。俺ぁ、おまえ等のような胸糞悪い連中とつるむ気は、これっぽっちもないわけだ。おまえ等が女だったらまだしもなぁ」
笑いを噛み殺した声でそう告げて、オーマはタトゥに触れていた指を一気に揮い、宙を切る。同時に空気が震え、歌を奏でていた風がぴたりと凪いだ。
老人の昏い眼孔が、凍りついたようにオーマを見つめている。オーマはその表情をも愉しむかのように破顔すると、揮った手に気を集中させた。
「ヒマしてる時だったら良かったんだがなぁ。――俺、確か女房に使いを頼まれてたんだよなぁ。あいつ、怒るととんでもねぇから、俺ぁそろそろ帰らせてもらうぜ」
言うが早いか。その手には、巨体であるオーマをもさらに上回る大きさの銃器を抱え持っていた。
「御主はもはやこの場からは――――」
老人が、何度目かになる言葉を繰り返す。
空気が震える。オーマは老人の言葉になど耳を貸さず、銃器を担ぎ持って、老人のすぐ頭上辺りに狙いを定めた。
「御主は我等の同――――」
老人がそう声を張り上げたのと、オーマの銃が爆音を轟かせたのとは、ほぼ同じタイミングだった。
影を広げていた森と、それを飲みこむように広がっていた紫色の空に、一筋の亀裂が走る。それは一瞬の後には幾筋ものヒビを広げ、空と森は硝子のように砕け散った。
凪いでいた風が再び流れだし、オーマの髪をかすかに揺する。
目を開ければ、そこは見慣れた森の中だった。
風は涼やかに緑を撫でて過ぎていき、木立ちはそれに合わせ謳うように揺れている。
オーマはしばし辺りを見渡し、それからゆったりと伸びをした。
「そういえば、お使いついでに依頼を一つこなした後、ちょっと仮眠をとってたんだっけな」
一人ごちて頭を掻くと、オーマは立ちあがって首を鳴らす。
「――――夢、だったのか?」
呟き、手を確かめる。そこにはやけに生々しく、銃器の名残が残されていた。
オーマは少しばかり肩を竦ませると、通い慣れた町を目指して歩みを進める。
後にした森の影、シダの群生に包まれて沈黙している大木の姿になど一瞥する事もなく。
―― 了 ――
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