<東京怪談ノベル(シングル)>


空の虹


 空へと続く七つの色。
 雨上がりの虹。
 それは天と地の二つの世界を繋ぐ橋のようだった。


 空に架かる虹を見た。
 これまでも幾度と無く見た光景。
 それをただ静かに凛とした瞳でソノ・ハは見つめていた。
 先ほどまで雨雲が占めていた空も、今は青空と白い雲が穏やかな表情を見せている。
 爽やかな風も吹いてきてソノ・ハの銀色の髪をさらりと揺らした。
 虹など長い時間出ているものではない。
 たまに空へと顔を出して、そしてあっという間に消えていってしまう。
 だからこそ人はその姿に心を奪われ、何度でも見たいと思ってしまうのだろう。

 ソノ・ハのいた場所は手すりがあるものの絶壁になっており、ほんの少し離れた所に見える海から立ち上るように空へとかかる虹がよく見えた。
 虹が出たのもたまたまで、ソノ・ハがそこにいたのもたまたまだった。真っ白な鳥が歩いていたソノ・ハを誘うように飛び、それに着いてきて今に至る。ここまで連れてきた鳥はソノ・ハを連れてきた事を忘れたように、既に遥か上空へと飛び去り、高い空を自由に飛び回っていた。
 虹とその鳥を眩しそうにほんの少し目を細めて見つめるソノ・ハ。
 その横に、空へと架かる虹を幸せそうな表情で見つめる女性が一人居た。二十代後半くらいだろうか。
 ただ観察するように虹を見つめるソノ・ハとは、虹を見るその瞳に込められた想いが違う。
 たまたま現れた虹を見るにしては、少々不自然だった。
 その女性の笑顔をソノ・ハは見つめた。
 他人の顔を凝視する事は良い事とは思えなかったが、ソノ・ハの視線はただ眺めるだけだ。他意はない。
 ソノ・ハの視線に気付いた女性は驚きで一瞬目を見開きながらも、ソノ・ハに笑いかけた。
「んー、気持ちいいわねー」
 虹と空が綺麗、と女性は呟いて再び視線を虹へと向けた。
 つられるように再びソノ・ハも女性から虹へと視線を移す。
「確かに」
「ねー、いいわよねー」
 女性は鼻歌でも歌い出しそうな様子で、虹を見ている。
 そしてその様子をソノ・ハは見つめていた。

「それクセ?」
 ふいに女性が呟いた言葉。それはソノ・ハへと向けられた言葉だったが、ソノ・ハはすぐに女性の問いかけに反応する事が出来なかった。何の事を言われているか分からなかったからだ。
 表情も変えず首を軽く傾げるソノ・ハ。
 答えないソノ・ハに女性は虹から目を離さずにもう一度問う。
「それよ、それ。その視線。じーっと見つめるのクセ?」
 あぁ、とソノ・ハは口を開いた。
「クセではなく、私はウォッチャーなので。自然と目が追ってしまうのです。不快に思われたら申し訳ありません」
「あぁ、いいのいいの。別に不快になんて思っちゃいないから。そっかー、見るのが仕事か。それじゃ、色々楽しい事も嬉しい事も辛い事も哀しい事も綺麗な事もたくさん見てきたんだろうね」
「えぇ。見るだけですけど」
 まるで何かの物語を見ているかのように流れていく風景。そこに留まり続ける事のない風景。それは二度と同じようには繰り返されない。
 ソノ・ハは物語とは違い人々の表情を見て、嬉しいんだろうな、哀しいんだろうな、という事は分かってもそれがどうしてなのかまでは分からない事が多かった。
 想像する事は出来ても今目の前で行われてる見ただけの情報しかソノ・ハには見えないのだから。
「それじゃ、今のアタシはどういう風に見られてるのかな」
「‥‥虹を見てとても嬉しそう、と」
「当たり! って、言いたい所だけどちょっと違うかな」
 嬉しいのは嬉しいんだけど、と女性は口籠もるが、すぐに理由を話し出した。
「あぁ、これは私の独り言だから気にしないで。ウォッチャーの貴方には全然関係ないし必要ない事だと思うし。ただ私が勝手に話すだけだから」
「‥‥はい」
 ソノ・ハの答えを聞いてから女性は語り出す。
「子供の頃から虹を見るのが好きでね、雨上がりの度に虹を探してた。虹ってほんの数分しか見れないじゃない。だから見れた日はとても嬉しくて仕方なかった。特別なものを見る事が出来たみたいで嬉しくて。ま、そんなに凄いもんじゃないって流石に暫くしたら気付いたけど」
 女性は苦笑しながら懐かしい思い出を語る。
「それでね、あの日もこうして虹を見ていて。虹の好きな子に出会ったの。アタシと同じで嬉しそうに虹を見上げてた」
 ソノ・ハは一瞬その光景が目の前に広がったかの様な錯覚に囚われる。でももちろん昔の光景が目の前に広がるなんてことはない。それは瞬きをした瞬間、消えて無くなった。
 今のは何だったのだろう、と思ったが女性の話は止まらない。
「でもね、その子と仲良くなって友達になって。よく一緒に虹を見たりしてたんだけど、ある日急に居なくなっちゃった。いつも二人で見上げてた虹を一人で見上げた時、哀しくて悔しくて仕方が無かった。これからは一人なんだなーって思ったら泣けてきて」
「その方は今は‥‥」
「さあ。生きてるか死んでるのか分かんない。分かんないけど、アタシは生きてるって思う事にしたんだ。だから今もこうして虹を見て笑ってる。もしかしたら、その子も見てるかもしれないじゃない、この虹を。だって、アタシ虹が心を繋いでくれてるような気がするんだもの」
 そうか、とソノ・ハは女性を見つめた。
 同じ虹を見ているかもしれないという希望が目の前の女性に笑みをもたらしているのかと。

「あーぁ、虹消えちゃった‥‥」
 丁度女性の話が終わった時、空へと架かっていた虹が消えた。
 七色の光は目の前にあったのが嘘のように掻き消えている。
「今日のは長く持った方ね」
 にこり、と微笑んで女性はソノ・ハへと笑いかける。
「無駄な話してごめんねー。んじゃ、アタシは行くわ」
 手を振って去る女性に、さようなら、とソノ・ハは告げた。そして遠ざかるその背を見つめ小さく呟く。
「無駄な話なんてありません。無駄に過ぎ去る風景もありません。全て流れていくだけだけれど‥‥」
 きっとそれには何かしら意味があるのだ、とソノ・ハは思う。
 自分が見続ける事にも意味があるのだと。

 その時、空から甲高く一声鳴いた鳥がソノ・ハの元へと舞い降りた。
 指を差し出せばそこへ、ちょん、と留まる。
 先ほどソノ・ハを此処へと導いた鳥だった。
 そして再び鳥は空へと舞い上がった。
 高く高く。
 虹の架かった場所よりも高く。
 それを静かに見上げソノ・ハは見つめ続ける。

 何度と無く見た虹も今日もまた違った表情を見せた。
 流れていく風景も今日もまた違う表情を見せる。
 吹き付けた風がソノ・ハの髪を揺らし空へと舞い上がる。
 ソノ・ハは再び『何か』を見る為に歩き出した。