<東京怪談ノベル(シングル)>


Angel Howling

 どこを見ても闇だった。
 それは懐かしい闇。
 動器精霊だった自分にとっては、まさしく闇は安寧そのもの。
 音を忘れた闇の中に息衝いて、時が過ぎてゆくのを感じている。そんな人生の大半は自分にとって安らかでさえある。しかし、今はそれとは状況が違っていた。望む闇ならいくらでも過ごすだろう。
 だが、この先にある宝珠を手に入れるために自分に依頼してきた男は、こっちのYESと言う言葉を聞く前に無理やり自分をここに連れてきた。
 無論、叩きのめして去り際に「NO」と言う一言を突きつけてやっても良かったのだが、すでに失われてしまった世界のガーゴイル(仲間というべきか?)にはまっていた宝珠があると聞いては、簡単に引き下がるわけにもいかない。
 目の前は洞窟。後ろは仄暗い森の闇。今は夕暮れ、逢魔が刻。
 自分は無理やり馬車に乗せられてここまできたのだが、道の半分まで来たころには無理やり連れて来られた事が半ば如何でも良くなっていた。
 …とはいえ、薄気味悪い洞窟の前に来ると、怖さよりも喪失感だけがとてつもなく強く感じられるのは何故だろう?
 恐怖というのはまだいい。
 無くしたと言うか、無くしてしまったというか、どちらでもいいのだが「無い」という感覚だけはどうしようもなかった。
「今までで一番嫌ですね」
 アンジェリカは言う。
 癖になってしまっている皮肉っぽい笑みを浮かべた。本当のところは何の感慨も無いとかそういうわけでもなかったのだが、人がいたのなら確実に誤解されていただろう。
 いつも口の端に嘲笑のような笑みを浮かべているため、実に素っ気無く見えるのだ。今は依頼してきた男でさえも気味悪がって宿屋に帰ってしまった。
 小さな少年。
 最初の印象はこうだ。
 しかし、人は最後に彼をこう言う――不気味な奴だ、と。
 人にとってはありがたくない形容だろう。だが、そんなのは「人にとっては」であって、自分には当てはまらない。まったくいい迷惑としか言いようがなかった。
 アンジェリカはやれやれと肩をすくめて一歩踏み出す。
 長いローブが草の表面を擦り、カサッと乾いた音を立てた。
「ここまで来て、一体何故に宝が欲しいというのかわかりませんね」
 嘲りとも聞こえるであろう言葉を氷よりも冷たい感情で言えば、遠く山の峰の何処かで鳴く梟の声が聞こえた。
 やめろと言っているのか、お前は馬鹿者だと言っているのかは知らぬ。
 血と闇に染まった空のような赤黒い瞳を遠くに向けたが、ふとその瞳を細め、アンジェリカは小さく笑った。
 自分が愚かと身ゆるか、他人を愚かと見ゆるかの先には大して代わりがない未来が広がっている。気にすることなどはないのだ。
 アンジェリカは来た時と同じように、皮肉めいた笑みを浮かべて、また歩き始めた。
 今度は一人で。

 闇は叫んでいた。
 胸を引き裂くような咆哮を投げつける。
 アンジェリカは目を細めた。
 相手の姿が見えない。
 爆発的な衝撃は攻撃としか言いようがない。
 何もかもが叫んで自分を引き裂く。痛いも何も無い。声も出せない。咆哮の後は何も聞こえなくなった。音が世界を支配して、発したはずのアンジェリカの声も粉砕していく。
 闇が捩れた。
 腹を打ち叩くかのような破は今でも続いている。胃を刺激し、食道を圧迫し、喉を潰そうとうねりはアンジェリカを飲み込んでいった。
「……!!!!」
 口が動く。
 言ったはずだった。
 耳に届かない。
 世界には音が無い。
 音と認識する「何か」を亡くしてしまったように感じた。
 洞窟の壁がまるで巨大な竜の食道のように引き攣れて波立つ。
「!!!!」
 アンジェリカは飛び退った。
 肩まで伸びた青い髪の端が衝撃に散らされる。
 本能よりも鋭い理性が、無を告げていた。
 死はまだ甘い。
 存在を粉砕する破は『無』そのものでしかないのだ。
 敵に驚嘆している暇無く、アンジェリカは深き森まで走った。音波は草木も何もかも拭い去りながらアンジェリカを追う。小山ほどの大蛇が地を張ったよううな痕が地面に刻まれた。
 からくも逃げおおせることに成功したアンジェリカは、自分の耳が音を認識するまで息を潜めて地に伏せる。
 肋骨に覆われた空気袋(肺)はパンパンに晴れ上がり、背中が軋むほどに圧迫している。そんな風に感じた。呼吸でさえ鬼の叫ぶ振動に感じれたほどだった。これ以上吸えない。まったく自分のズタ袋ときたら、まともに動いているのかどうか怪しいほどだ。
 この自分を地に伏せさせた不届き者を確認すべく、アンジェリカはゆっくりと立ち上がる。
 なぎ払われた草の上を夜風が優しく撫でて行く。
「……」
 追従する攻撃は無い。
 アンジェリカは無言のまま歩き出した。
 足もとが覚束無いが、この際は仕方ないだろう。
 恐れることなくアンジェリカは洞窟に入っていった。
 さっきと違い、耳が痛くなるばかりの静けさだ。アンジェリカは自分の耳が今度は本当にどうにかなってしまったのではないかと思った。
――おかしい……
 アンジェリカは呟いた。
 ほんの少し外気より低い空気がアンジェリカの頬を冷たく撫でる。
 先ほどの衝撃で洞窟の岩肌は細かい砂をアンジェリカに振りかけた。目を細め、警戒しつつ進めば少し広くなった場所で奇妙なものを見つけた。
「これは……」
 水晶を薄く削ってはめ込んだ高い塔が眼前に聳え立っている。
「水晶? こんな塔があったとは知りませんでしたね……」
 煌く塔に近づいていくと、エントランスのように広くなった場所が見えた。そっと出口らしき扉を押すと、それは音も無くくるりと回った。少しできた隙間にアンジェリカは体を滑り込ませる。
 青に染まった塔の真中に、鉛色のガーゴイルが祈っていた。
 民家一個分の大きさはあろうそれに動きは無い。
 うっとりと天空を見上げたまま手を伸ばしている。
「ガーゴイル……ですか」
 アンジェリカは眉を顰め、大きな翼を生やした天使の像を見つめた。
「確かに……ガーゴイルの一種かもしれませんがねぇ……学の無い」
 アンジェリカは呟いたが、宿屋に逃げ帰った無学な男にその声が届くことは無い。
 しかたなく、アンジェリカは天使の像が持っていた宝珠を手に入れるため、ガーゴイルとは程遠いそれに向かって歩き始めた。

 ■END■