<PCクエストノベル(1人)>


風路

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【冒険者一覧】
【2812/ドリット・ロスヴァイセ/冒険者】
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 冷えた空気がたゆたっていた。
 陽射しの届かない、入り組んだ洞窟の奥だったからかもしれず、枝分かれした洞窟の、行き止まりのひとつにいるからかもしれなかった。あるいは、背筋が凍るほどの恐怖が感じさせているのか。
 冷たい空気が肌に纏わりついて、離れなかった。まるで獲物を絡め取る蜘蛛の糸――。


 肌を覆う黒い毛並みが僅かに波打って、空気の流れを伝えた。陽光を吸って緩い風と、暗闇を含んで静かな風がゆるゆると交錯している。入り口からの淡い光はまだ洞窟の湿った側面に揺らいでいるが、穴の奥には闇がしっかりと貼り付いていた。
 足を進めるにつれ湿気を帯びていく空気が、外とは別の世界へと彼を誘うようだった。動くたびに毛並みを舐められる、異質な世界へと。ひやり、と冷たさを増す独特の匂いを含んだ風に、自然、彼の意識は緊張する。
 ここは既に、聖獣界ソーンの人々が大手を振って歩く場所ではないのかもしれない。湿地帯にぽかりと開いた洞窟は、無防備に人々を招いているようでいて、実は餌を誘い込む罠なのだろう。その奥に棲みついている大蜘蛛も、自身が吐く魔力効果の高い糸を餌に冒険者たちを引き寄せ続けている。
 けれど彼――ドリット・ロスヴァイセがこの場所へ踏み込むのは、決して罠に掛かってのことではなかった。奥に眠らせてしまった戦友を訪ねてのことで、毎年必ずと決めているのだ。戦友を失った時には聖獣装具を構えていた手に、以来白い花束を抱えて暗闇に潜っている。もっともここが大蜘蛛の巣窟である以上、聖獣装具も手放せはしないのだが。
 花の鮮やかな白が周囲の闇に呑まれる頃になってようやく、彼は用意していたランタンに小さく灯を入れた。ふわり、と朱橙色の光が広がって、彼の後ろに長い影を伸ばす。それは彼の形をなす前に輪郭を失って黒灰色に溶けていた。手元も鮮明でない分、逆にかなりの距離までを捉えることができる。強すぎる光ほど闇は簡単に飲み込んでしまうのだと、彼は識っていた。
 もう何度目かになる路筋を、記憶したとおりに進んでいく。こつ、こつ、と靴底が岩肌を蹴る音が、妙に短く割れて聴こえた。湿気に阻まれてそれ以上は響けないとでも言いたげだったので、少し蹴りを強くしてやる。こつん、こつん、と少しは満足のいくものになっただろうか。
 そうして音と戯れながらも、彼は決して気を抜いたりはしていなかった。入り口に程近いとはいえ、危険がないとは限らない。聖獣装具を前面に構えていない分、いっそう慎重だった。だからといって路を行くのを躊躇ったり、へんに怖気づいて途惑ったりはしない。あくまで堂々として、たとえ大蜘蛛に出くわしたとしても、お邪魔していますよと挨拶するくらいの落ち着きが彼にはあった。
 枝分かれして深く続いていく洞窟を右に左にと折れて、ようやく目的の場所への最後の分かれ路に差しかかる。緩い曲線を描いた先は小さく広がった空洞で、上部は外に近いらしく、僅かな隙間から光と風が入るのだ。風は時折高く鳴いて歌う。それが今も、路を伝って彼の耳に届いていた。
 ピィイ、ピィ、ピィイ、と断続的に続く呼ぶような音色に、彼の後ろから、ボオゥ、ボォウ、と招くように低く、深い奥底からの声が応えている。そちらには気を留めずに迷うことなく路を進みかけ――立ち止まった。
 低く身体に振動する奥からの風音。それに異質な音が混じった気がしたのだ。おや、と耳を澄ませた彼は、這うような音の中に違うものを確かに捉えた。
 それは、凍ってひび割れるまでの叫び、だった。

 苦戦を強いられている、というよりはもう一方的に負けている。そんな声だった。
ドリット:「……蜘蛛の機嫌を損ねている方がいらっしゃるようですね」
 呟くが早いか、不要な荷物を地面の乾いたところに降ろして、その上に花を丁寧に置いた。そうして聖獣装具とランタンを手にすると、少し待っていてくださいと、行きかけた路の先に声をかける。彼は引き返して、洞窟の奥へと歩き出した。
 路の分岐するたびに立ち止まっては、深い風の音に声を聴いて、慎重に方向を定めていく。戻る路を間違えないよう、壁面を抉って印を刻むのも忘れなかった。空洞までの路ならばともかくも、奥に至っては彼とて詳しいはずがない。一歩間違えれば、彼自身が迷うことになるのだ。
 慎重に、しかし確実に進むことしばし。風に乗っていた叫びは声そのものになり、それ以外の音も聞こえる距離にまで近付いた。分かれた路を左に折れてその先が、戦場だった。
 通路の先に置かれたランタンが、その有様をまざまざと映している。巨大な蜘蛛と相対するのは、まだ若い男たちだった。彼らも大蜘蛛の糸を求めてやって来た冒険者なのだろう。
 大蜘蛛の、銀とも黒ともつかない太い肢が振り上げられ、近くで長剣を構えていた冒険者を剣ごと薙ぎ払った。苦痛に歪んだ悲鳴を上げると同時に、壁に叩きつけられている。反対側の壁には別の男がいて、こちらはもう意識を手放しているようだった。もうひとり立っている男もいるが、先の二人のようになるのも時間の問題だ。しかしこうなっては撤退も難しいかもしれない。
 ひやり、と背筋が凍るのを感じた。周囲は光を知らない凍りついた風が揺らいでいる。
 ランタンを足元に置いて、聖獣装具――彼のは長い棍の形をしている――だけを手に、残りの距離を駆けた。
 男を薙いで先を紅く染めたのとは別の肢が、立ちつくしている男を突きに器用に動く。対して武器を構えたものの、男は及び腰でまともに受けられるはずもない。それに後ろから飛び掛るように押し倒して、大蜘蛛の肢を頭上にやり過ごした。
 肢はそのまま折り曲げられて、真下に振られる。地面を転がって避けると、すぐに飛び起きて距離を取り、男の方も逃げおおせたのを確認した。壁際で気を失ったままの仲間のところへ走っている。
ドリット:「――撤退に手をお貸しします」
 大蜘蛛の動きに注意を払いつつ、壁に打ち付けられたままの男へ駆け寄って声をかけた。
冒険者:「……っ、余計なことをするなっ!」
 差し出した手を振り払って、男はゆらりと立ち上がる。そこへ大蜘蛛の肢がすい、と伸びた。ふらつく男は剣を構えるにもいたらない。
ドリット:「命を粗末にされるのは、感心致しませんな」
 男の前へ一歩出て、天狼棍・レギンレイヴを肢の側面に当てるように払う。軌道を逸らされた肢は、岩肌を穿った。
冒険者:「うるさい。やっと見付けたんだっ。チャンスを無駄にできるかよ」
ドリット:「仲間を見捨てると、そう仰るのですか?」
 叫ぶ男に、あくまで冷静に言った。手首を返して回転させた棍が、ひゅい、と耳元で高く鳴る。逆の先端で、大蜘蛛の肢の関節を叩いていた。
 大蜘蛛に手出しはしたくないのですが。そう思えど、前へ出たがる冒険者がなかなかそうはさせてくれない。男への攻撃を代わって受けて、やがて大蜘蛛の標的が彼に変わっていく。
 ちらり、と残りのふたりに視線をやると、そちらは撤退の準備に掛かっている。無事な男がもうひとりを支えて、ゆっくりと通路へと向かっていた。
冒険者:「――先に行く」
 視線に気付いたのか、その男が叫ぶ。諦めるのかよ、と側の男が仲間に返したのには、命が先だと賢明な答えがあった。
ドリット:「貴方も。ここは退くのが勇気というものです」
 言われた科白に軽く舌打ちして、男もしぶしぶ撤退に移る。八本の肢を巧みに使って攻撃を繰り出す大蜘蛛をギリギリのところで抑えて、ふたりもまた通路へと退いた。ランタンを手早く回収して、通路の入り口を僅かに崩す。多少の時間稼ぎにはなるだろう。
 ランタンの灯が不規則に揺れた。岩肌に伸びた黒い影が奇妙に躍って、ともすれば襲い掛かろうとしているように見える。人ひとりを支えて走って熱いはずなのに、空気が冷えきっていて寒かった。
 ようやく洞窟の一角に落ち着いたときには、冒険者たちは皆ガタガタと震えていた。応急手当を施して彼らを落ち着かせるのに、少なくない時間が必要だった。
 奥からボォウ、ボオゥと鳴る風に、大蜘蛛の肢を鳴らす音は聴こえない。風が不意に止んで、一時を静寂が覆った。
冒険者:「……くそっ、もう少しだったってのに!」
ドリット:「貴方がたはまだ随分お若い。これから幾らでもチャンスがあるでしょう。急がずとも良いではありませんか」
 悔しそうに吐き捨てた男を、彼は優しく窘める。この湿地と蜘蛛の洞窟の罠にあえて挑戦するのを、彼は決して莫迦だとは思わなかった。けれど、今の彼らには無謀に過ぎたのだろう。その無謀に対しては、莫迦だと思う。それは彼らへの戒めの反面、自身への戒めだった。
 洞窟の途中で彼らと別れ――彼らは別のルートで来ていたので――見送った背中に、彼ら全員の無事を安堵せずにはいられなかった。
 莫迦をして、その経験を反動に次へ進めるなら良いのだと思う。彼らのように。しかし、それで路を失ってしまってはもうどうしようもないのだと、身に染みていた。

 ピィ、ピィイ……と奏でる風は、待ちくたびれたのか途切れがちだった。曲線を今度は立ち止まることなく進んで、小さな空洞の入り口にゆっくりと立つ。最奥に佇む献花台は、岩肌の亀裂から射し込む細い光を受けて穏やかだった。
ドリット:「お久し振りですね」
 ゆるり、と微笑みかけた彼に、既に緊張した雰囲気はない。
 ――それが、彼らの、一年越しの再会だった。
 すぅ、と乾いた風が内部へ踏み込んだ彼を迎える。水分をまとって萎えていた毛並みが、新鮮な空気に洗われて心地良い。淡く射す光の白が、ランタンの白橙色に慣れた目に沁みた。目を十分に光に馴染ませて改めて見渡したそこは、ごくごく静かだった。
ドリット:「ここは変わりない様子……安心致しました」
 同じ洞窟の中でありながら、この場所は他と切り離されている。無二とまで呼んだ戦友は、ゆっくりと眠っているのだろうか。眠れているだろうか。どうか、この場所がずっとこのままに静かでありますように、と誰へともなく祈った。
ドリット:「――ええ、そうですね。私も、相変わらずです」
 君も変わらない。
 風を感じて瞳を閉じていた彼は、言われた気がして呟いた。この小さな場所のどこに今彼はいて、迎えてくれているのだろうか。決して献花台になど落ち着いてはいない、と思う。
 なかば苦笑気味に献花台に近付いて、簡素な造りのそれにそっと触れる。一年に積もった土屑がさらさらと落ちた。昨年に置いた白い花が枯れて、土に還ろうとしている。
 削りもしない石を組み合わせただけの献花台を丁寧に掃いて、昨年までに置いた花の隣りに、新しい白い花を置いた。小さく雪を散らすような花で、戦友がこと好んだものだった。実をいえば、用意したものは彼の示したものとは違う種なのだが、重要なのは花の種ではないのだとも知っていたので、許してもらっている。
ドリット:「今年も季節はずれの雪をお持ちしました。……結局、貴方に理由をはぐらかされたままです」
 この花が好きなんだ、風に舞うのが雪みたいで。そう言った彼は、特別な思い出でも、と訊くのには笑って答えなかった。きっと今も笑っている。その声が唐突に耳の奥で甦った。
 ここにいれば、彼の姿と声を鮮明に描くことができる。そのどこまでが思い出で、どこからが想像なのかも明確にできないほどに、彼は快活に話し動くのだった。一年に出会った色々な人々との出来事を話して聞かせ、昔の出来事や人々を共に懐かしむ。それがここでの過ごし方だった。
 差し込む光がサッと陰って、ずいぶんと時間の経っていることに気付かされるのも毎回のことだ。
ドリット:「――さて、今年はこれで暇を頂きます。先に野暮用で貴重な時間を使ってしまいましてね」
 消していたランタンに再び小さく灯を入れ、荷に手を伸ばす。それだけで帰り支度は済んでしまった。天井を仰いで、続いて献花台に小さく声をかけ、彼は空洞の出口へ踵を返した。
 ではまた、とだけを口にして、一年後にとは胸のうちで留めておく。
 かつてこの戦友を失ったように、またいずれ誰かを失うかもしれず、あるいは先程の冒険者たちのように、自身が危険に遭うかもしれない。けれど冒険へ出るのを辞めてはいなかった。今でも聖獣装具を片手に、あちこちへ出向いている。
 だから必ず来年もここへ来るという約束は、いつ反故になるともわからなかった。しかしだからこそ、約束しておこうと思う。また来年も彼に雪色の花を届け、束の間を変わらず過ごせるように。

 柔らかな空気が彼を見送った。
 淡い陽射しと共に入り込んだそれは、洞窟の奥で小さな空洞を満たしている。背を押す暖かさに、振り返らずに外へ向かえた。
 優しい空気が毛並みをくすぐって、導くように駈けていく。まるで彼らをつなぐ強い絆――。