<東京怪談ノベル(シングル)>


Secret of Rainbow

 一筋の風が目の前を通り過ぎた。それは少女の銀髪を揺らし、緑溢れる木々たちへと向かっていく。
 ザアァァァ……と風は木々の間を抜けながら、爽やかな音をたて、そして……満足したようにその姿を消す。
 七色の光を返す銀の髪の持ち主は、風の去っていった方向を振り返った。
 風の悪戯でざわめいていた木々は、いつもの静けさを取り戻し、何事も無かったかのようにそこに立っている。
 少女はしばらくそこに佇んでいた。木々を見上げ、何かを懐かしむように目を閉じて。

 自分が生まれ育った森を出て、もう二年になる。父を探そうと思ったのは幼い頃からのこと。父を探しに行こうと心に決めたのは、もう二年も前のこと……。
 自分を育ててくれた森の長にどうして、と尋ねたのがきっかけだった。


「長さま」
「どうした彩霞?何かあったのか?」
 パタパタと足音を立てて駆けて来る幼い少女を優しく抱きとめ、エルフの森の長は彩霞と同じ視線になるように姿勢を低くした。
 彩霞は森の長の問いかけに、先程までしていた会話の内容を話し出す。
「今、鳥と話をしていました。どうしたら綺麗な声で歌えるようになれますか?と」
 言葉を選びながら話す彩霞に、森の長は頷き、それで?と優しく微笑んだまま問い返す。
「鳥は、お父さんとお母さんに教えてもらった、と……」
 森の長の質問に彩霞はそう答えると、急に何かを気にして視線を落とし……顔を俯かせてしまった。
 突然元気の無くなった彩霞の様子に、森の長は何かを感じ取ったようだ。笑みを絶やさず、あえて何も言わずに続きを待つ。
 自分の言葉を待ってくれている森の長に、彩霞は言うのをためらっていたが……ぐっと小さな手を握ると、何かを決めたように疑問を口にした。
「長さま、わたしには何故、お父さんとお母さんがいないのでしょうか……?」
 不安の映る天藍の瞳で恐る恐る自分を窺う少女……。訊くことに決めたものの、相手がどのような反応を返してくるかが心配で、すぐに顔を俯かせてしまった。
 彩霞の様子を見ていた森の長は、少しの沈黙の後……一息ついてから穏やかな笑みをうかべた。
「……そうか……もう話しても良い年頃になったか」
「……?」
 森の長の言葉の意味がわからず、彩霞はまあるい目を不思議そうに瞬かせ、小首を傾げた。どういう意味なのだろう……?と小さな頭の中でその言葉を考える。
 そんな少女の様子を見て森の長はぽん、と彩霞の頭を軽く撫でると、静かに語りだした。
「あれはもう、五年、いや六年前になるか。このエルフの森に迷い込んできた人間の男性が一人。傷ついた体を引きずって現われた」
「傷だらけの人間……男性……?」
 この森に人間はいない。人間はエルフの森に入っては来れないし、入ることを許していない。ということは……そこまで考えて彩霞は森の長をみつめる。
 彩霞の視線に森の長は笑顔のまま、少女のために椅子を出し、先を続ける。
「ああ、そうだ。その男性は傷を負ったときにそうなったのか、それとも元々無かったのか……自分に関する記憶を持っていなかった。本来ならエルフの森に人間を受け入れることはしないが、
記憶が無いこと、怪我をしていることから、その男性を一時的に受け入れることにした」
 森の長が自分のために出してくれた椅子に座りながら、彩霞はその人間の男性が一時的にでもエルフの森に受け入れられたことに安堵した。傷だらけのまま放り出されていなくて良かった、と。
「人間の男性の怪我は悪化することもなく、順調に回復していった。朝から晩まで、男性を手厚く介抱していた女性がいたからね」
 森の長は長くなる話のために茶を淹れようと、棚から茶筒とティーポットを取り出した。
「そんなある日のこと。人間の男性は歩けるようになり、森を見て歩いていた。だが、途中で男性は足を止めた。泣いているエルフの子供をみつけてね。男性は何故泣いているのかと子供に尋ねた」
 エルフの子供が何故泣いていたのか、彩霞にはその理由がわからず、答えに興味を惹かれて森の長をじーっとみつめる。早く続きが聞きたいと目で語りながら。
「エルフの子供はこう答えた。お父さんに作ってもらった笛を落としてしまったら、音が出なくなってしまった、と。そこで男性はエルフの子供からその笛を見せてもらい、吹いてみた。結果はエルフの子供が吹いたときと同じく、音は出なかった」
 彩霞はきょとんとした表情をうかべた。音が出ないとわかっている笛を吹くことに意味があったのだろうか……?と。
「不思議そうな顔をしているね。だが壊れた笛を吹いても音は出ない、それを承知で男性は音の出ない笛を吹いたのだよ。笛を吹いたときに空気がどのように通っているのか、確かめるためにね。男性は鳴らなくなってしまった笛を持ち帰り、介抱してくれた女性に道具を借りて笛を修理した」
「笛を修理した……?長さま、先程その男性には記憶が無いと仰られていませんでしたか?」
「ああ、言った。男性には記憶が無かった、これは事実だよ。だがね……」
 森の長は火にかけていたケトルをおろすと、茶葉の入ったティーポットに沸騰した湯を注ぐ。
「驚くべきことにその男性は楽器を修理する、ということを身体で記憶していたのだ。そしてその翌日、エルフの子供に笛を返し、吹いてみるように促した。エルフの子供は本当に直っているのかどうか半信半疑だったが……駄目なことは承知でその笛を吹いてみた。すると……笛は作られたときよりも美しく、綺麗な音色を奏でた。男性は楽器を修理するだけではなく、調律にも長けていた」
 ティーカップを出そうと戸棚の扉に手をかけながら、森の長は彩霞に話し続ける。
「それからだ。その男性がこの森の仲間にも受け入れられるようになったのは。楽器を調律することはもちろんのこと、自ら楽器を作り出すことも出来たのでね」
「頭では覚えていなくても身体が覚えている、ということは……とても不思議なことですね」
 この森に住むものは自然を愛する。地に根付いている植物、青い空を飛ぶ鳥たち、サラサラと涼しげな音を立てる小川、木々を揺らす風を……自然のままに。一つも揺るがすことなく、あるがままに。自然と共に暮らし、自然と共に歩んでいく、自然に認められた者……それがエルフの森に住む、エルフの森の仲間である条件。
 今まで自然と共に歩んで来なかった人間の男性が、森の仲間に受け入れられるということは……異例と言って良いほどのことであった。
「その方は心の澄んでいる、とても優しい方なのですね……」
「ああ。いつでも笑顔を絶やさず、他に対する気遣いを忘れない、優しい男性だった」
 森の長はティーカップを二つ並べると、少々蒸らした茶をゆっくり注いでいく。
「そのような所に惹かれたのだろう。男性を介抱していた女性はいつしか男性に恋心を抱き、また男性も、彼女の優しさ、懸命さに惹かれた。そして……二人が結ばれるのにそう長くはかからなかった。花々が咲き、蝶が舞う月、この村の御神木である大樹に、二人は永遠の愛を誓った」
 森の長の言葉は彩霞には少々理解ができなかったようだ。しばらく考えた後、小首を傾げて目で問いかけた。
「そうか……彩霞にはまだ理解のできない話だったか。だが結婚式という言葉ならわかるだろう?」
「はい。大人の男性と女性が指輪を交換する式のことですよね……?」
「ああ、それだ」
 森の長は一生懸命考えた末に出した彩霞の結論に、思わず笑みをもらす。この幼い少女に印象付けられているのは綺麗な衣装よりも指輪交換の場面なのか、と。
「結婚をした二人は本当に幸せそうだった。いつも互いを気遣い、支え合っていた。幸せな毎日を送る二人が結婚式を終えたその一年後。二人に子供が生まれた」
 湯気のたつ、温かい茶の入ったティーカップを持つと、森の長は彩霞にそっと手渡して微笑んだ。
「それが彩霞、君だよ」
「え……!?」
 ティーカップを受け取った姿のまま、彩霞は大きく目を見開いて動きを止めた。そして森の長を見返す。
「長さま、その話は……」
「ああ、真実だ。エルフの森に迷い込んできた人間の男性、それが彩霞の父であり、その男性を介抱したのが彩霞の母だ」
「お父さんが人間……」
 受け取ったティーカップを持ったまま、彩霞は呆然としていた。父が人間だったとは……考えたことも無かった。どこか違えばそう考えもしただろう。だが、自分はこの森に住む者たちと何も違わない。声も姿も、何もかも……。
 ショックを受けた様子の彩霞に、森の長は黙ったままの少女をみつめた。この話はもう少し成長してからの方が良かったかと……後悔の念を覚えながら。
 二人の間にどこか重たい、静かな空気が流れた。何も話さず、少しも動かず……ただただ、沈黙が続く。
 しばらくの沈黙の後、森の長は静かに息を吐いた。やはり話すのが早すぎたかと結論をつけながら。
「彩……」
「続きを……」
 森の長が沈黙を破ろうと口を開きかけたそのとき。黙ったままであった少女がぼそりと呟いた。
「続きを聞かせていただけませんか……?その後、お父さんとお母さんがどうしていたのかを」
「……続きを……?」
「はい」
 森の長は内心驚いていた。あれほどショックを受けていたように見えた少女が……今は立ち直ったようだ、凛とした瞳でこちらを見ている。
「お父さんの話には驚いただけです」
「……」
 彩霞は森の長をじっとみつめた。それを森の長が受け止め、みつめ返す。
 二人の視線が交わった。相手を探るように、じっと。
 しばらくの間、二人はぴくりとも動かずに相手をみつめ続け……その結果、森の長が先に折れ、表情を緩めた。
「わかった。では続きを話そう」
「ありがとうございます」
 強い子に育ってきているな……そう思いながら、森の長は一旦切った話の続きを話し出した。
「二人に彩霞という家族が増え、これから三人の幸せな暮らしが始まろうとしていた。森の仲間たちはそれを疑ってはいなかった。だが……」
 森の長は言いにくそうに言葉を切ると、ふっと彩霞から視線を外した。
「現実は残酷なものだ……。彩霞が生まれ、喜びに溢れていたその翌日……彩霞の母が他界した」
「……」
「そのときは原因がわからなかった。出産のために身体が弱ったせいかと誰もが考えたが……そうではないことが、後日、医者の口から語られた」
 彩霞の顔を見ることができず……視線を伏せたまま、森の長は続ける。少女に真実を伝えなければ、と。
「彩霞の母は病を患っていたと。今直さなければ病状が悪化して死に至ることもあると忠告したが、お腹の子のためにと言って薬を飲まなかったらしい。すぐに死ぬことがないのならば、この子の顔を見てから治すと言って。だからあの人には言わないでください、心配をかけてしまいますから、と彩霞の母は医者に口止めをした。この話が医者の口から彩霞の父に伝わった。そして私に」
 森の長はゆっくり、視線を彩霞に戻した。
「彩霞の父はそのことを聞くと呆然と立ち尽くし……何も言わずに家の中へ入っていった。森の仲間はそっとしておいてあげようと気遣い、後を追うものはいなかった。だが、そこで誰も追わなかったことを誰もが後悔するような事件が起こった。それは、彩霞の母のことが明らかになった夜のこと……森中に元気な赤ん坊の泣き声が響き渡った」
 事件の起こった日のことを思い出しているのだろう。森の長の目はどこか遠くを見ているようだった。
「そのとき森にいた赤ん坊は彩霞だけだった。森の仲間はすぐに彩霞の元に駆けつけた。家に鍵はかかっておらず、灯りもついていなかった。そのような暗闇の中、彩霞は父のベットに寝かされ、大きな泣き声をあげていた」
 あのとき彩霞をみつけ、抱き上げてなだめたのは自分だったと、森の長は苦笑をうかべた。
「彩霞をなんとかなだめると、森の仲間は家の灯りをつけた。何があったのかを把握するために。だが、それは彩霞のいた部屋の明かりをつけたときに判明した。彩霞が大声をあげて泣き出した理由、それは自分に背を向ける父親の姿と気配を感じ取ってのことだったのだと」
 森の長は席を立つと、丁寧に包装された包みをどこからか持ってきて、彩霞の目の前に置いた。
「開けてみなさい。それは彩霞、お前の物だよ」
 彩霞は目の前に差し出された包みをしばらくみつめていた。自分の物、と言われて出された物だ。自分にだけ開けることが許された物、自分宛てに残された何か……それを彩霞はわかっていた。だが……それを開けることは何故か、ひどく怖かった。
 森の長は優しく彩霞を見守り、少女が包みを開けるのを静かに待っている。
 これを開けなくては、と彩霞は思った。だが自分の中の自分が言う。これを開けたら、今の話を全て真実、実際に起こったこととして受け入れる、という承諾の証になると。それで良いの?と問ってくる。
 
  人間の父とエルフの母の間に生まれたのが自分……。
  自分のために母が死に。
  父は自分を置いてどこかに行ってしまった。
  赤ん坊の自分を……たった一人、残して。
  彩霞、あなたは認めるの?この話を……。
 
 彩霞は包みに手をかけた。そのときにはもう、ためらいはなかった。そして、自分の中の自分にしっかりと答えた。わたしはそれを受け入れます、と。
 包みの結び目をほどき始めた。ゆっくり…ゆっくり…慌てずに、ゆっくり…そっと。
 はらりと布が外れた。大事に大事に包まれていた中の物、細長い木の箱がその姿を現した。
 彩霞は木の箱に手をかけると、そっと蓋を外した。何が入っているか、考えもせずに。すると、そこには……
「笛……手紙……?」
七色の光を放つ石がはめ込まれた横笛、古びた二つ折りの紙が入っていた。
「彩霞の傍には二つ、置かれていた物があった。それがその二つだ……」
 彩霞は箱の中の手紙を取り出すと、恐る恐る開いてみた。そこには……少しの文字と、絵が描かれていた。
「“愛娘に送る 希望という空の橋の名 彩霞という名を”」
 力強く書かれた文字、そして柔らかな色彩で描かれた七色の虹……。手紙に書かれていたものは、両者とも彩霞を示していた。
 彩霞は手紙を持ったまま、動きを止めた。胸の中に込み上げてくる想いのために……動けなかった。
 ぱたり……ぱたり……小さな音が静かな部屋に響く。手紙にあたった雨音が立てた、小さな小さな音……。
「彩霞……」
 手紙を手にしたまま、彩霞は泣いていた。後から後から流れてくるものを止める術を知らず、流れるまま、そのままに……。


 少女はゆっくり、目を開いた。そこには木々があり、少し上を向けば澄んだ青空が見える。
 少女は森に向って歩き出した。一歩一歩、何かを確かめるように。口元に微笑をうかべながら。


「本当に行くのか?父を探しに」
「はい」
 雨季に咲く紫の花が満開になり、彩霞が十六になったある日。長く降り続いていた雨が止んだのを期に、彩霞は父を探しに行くことを森の長に報告した。
「長様にお話を伺ったあの日より、心に決めていました。自分で歩くことができるようになったそのときに、父を探しに行くと」
 旅に出るための仕度は既に整っていた。旅に必要と思われる物はもちろん、父が自分のために作ってくれた横笛も鞄の中にしっかり入っている。
「父の手掛かりは虹の雫のはめこまれた横笛と、彩霞というわたしの名前だけですが……。父が何故、あの日森を出て行ったのか、その理由を知りたい……直接会って父に訊きたい……。父に会ってみたい……会いたいのです」
 凛とした瞳で森の長をみつめると、彩霞は言った。迷いは無いと。
 森の長はそんな彩霞の様子に一つ息を吐くと、微笑をうかべた。
「決意は固いようだな。では私が反対する理由はどこにもない。気をつけて行っておいで」
「はい、ありがとうございます」


 森の長は自分が森を出るまで見送っていてくれた。それを彩霞は今でも鮮明に覚えている。少し行って振り返ったときに見た森の長は……まるで娘を嫁に出す親のような、そんな目をしていた。
 昔を懐かしく思いながら、彩霞が森を歩いていくと……次第にある音が聞こえ始めた。
 彩霞はこの音を知っていた。サアアァァァ……というこの音を。以前はよく間違えたものだ、風が木々を掠めていく音と。
 今はもう、その音が何を示しているのか……はっきりとわかる。これは……
「わぁ……」
 森を抜けるとそこには、小さな滝が姿を現した。切り立った崖の上から降り注ぐ水に陽の光が反射し、キラキラと輝いて見える。
 だが、彩霞が目にした光景はそれだけではなかった。
「虹……」
 水が落ちるときにたつ水しぶきに光が反射し……滝の流れ落ちる崖と崖の間に、七色の橋が架かっていたのである。
 彩霞は無意識にその滝に駆け寄り……そして、その虹を見上げる。そういえば何時のことだっただろう……自分の名が空にだけ架かる物の名では無いことを知ったのは。
「あ……」
 ぽしゃん、と何かの音がして、彩霞は音のした方向に視線を移す。すると、そこには……泳いでいく魚と、淡い紫のグラデーションがかかった紫陽花が水に映っていた。
 彩霞は水面に映る紫陽花に、そっと手を伸ばす。自分が森を出るときに咲いていた花に。
 水面に彩霞の顔が映る。煌きながらさらりと流れる銀髪に、天藍の瞳を持つ、少女の顔が。容姿は変わらない。森を出たばかりの頃と同じだ。だが、昔には無かったものが確実に、今の少女には備わりつつある。
 ふわりと水面の少女が微笑んだ。
「次の出会いを探しにいきましょうか。お父さんに会えるまで」
 彩霞はすっと立ち上がると、滝を背に森へ向って歩き出した。
 森を抜けて新たな地へ……。勇気と強い心を胸に、少女の瞳は真っ直ぐに前を向いていた。