<東京怪談ノベル(シングル)>


うてな


 色なしと 人や見るらむ 昔より 深き心に 染めてしものを――

 ***

 雫に打たれた葉の顫えが、己が指先にも伝わったようだった。
 藤野羽月は自室から眺むこと叶う庭先に、何かを誘うが如く揺れ動く花を見てそのような心持ちになる。ゆらり、青き花。大輪から打ち零つ水滴が束の間光を集めて輝く。濃い緑葉も霞みて、今だけは花裏にひっそり添うていた。
 紫陽花は、羽月にとって比較的馴染み深い花だ。故郷はちょうど今がこの花の盛りのはず、従兄弟の居た町では雨に濡れた道を辿り、差し傘の向こうに艶やかな瓦葺きの屋根々々、この花の名を冠する寺院は特に名所として知られ、羽月自身も幾度も訪れている。そこに咲く紫陽花の花色はほとんどが薄い青の清々し、それに比して今この庭を彩るのは、紫の滲むものが多かった。
 この世界は、羽月の故郷とある部分では大きく違っていて、しかし別の部分ではよく似ている。それには過去にここへ訪れた、恐らく羽月と郷を同じくする者たちの影響もあるのだろう。この家も、そして庭の花木も確かにそれを伝えていた。
 開け放した戸は風の通い路。水を含んだ流れは頬を撫ぜて、するりと羽月の視線を手許に促す。手のなかには一尺ばかりの作りかけの人形がひとつ、仮の薄い衣を着せられて、まだ色の淡い眼を羽月へ向けている。かたちは普段作る人形たちに等しいが、一目に違いは髪と瞳の色の相。それは妻に肖せた、やさしい紫の花の色だ。
 妻の姿を肖った、人形。
 作り始めたのは、今茲に入ってからだった。新年に見た和装姿が、あるいはひとつのきっかけかもしれない。その前にも寝衣、浴衣と和装の彼女を見たことはあったが、新年の時のそれは、羽月にとって特別なものであったのだ。
 彼女は、振袖を着ていた。
 昨今は気にせずに着る者も多いと聞くが、和のしきたりに染まった羽月には、やはり振袖は未婚女性のものという認識で。
 同じ新春の日、白い洋式の花嫁衣裳を纏い、彼女は羽月の妻となった。
 振袖はまだ箪笥に仕舞われて、ここにある。けれど再び彼女がそれを身につけることがあっても、今春に着たそれとは、きっと印象を大きく違えるだろう。
 ――彼女の和装姿を、人形というかたちで、留めておきたかった。
 それが、理由だろうか。
 ――否。彼女の姿というよりは、その姿を見た時の私の嬉しみの気持ちを、

 彼女に伝えたくて。

 羽月はこの人形のことは、彼女には知らせていない。完成し、彼女に手渡すその時まで黙っているつもりだ。それは妻の驚いた顔を見たいと思う故の行動でもあったが、実のところ不安が先に立ち、常ならばとうに作り終えているはずの今時分でも、まだ人形は完成を迎えていない。
 ――彼女は、喜んでくれるだろうか……?
 繰り返しの問いが、羽月を悩ませる。
 己がそれほど気が回る性質ではないのは自覚している。時にはあまりに気が利かぬと、自分自身に苛立つこともある。それでも彼女は、羽月の些細な言動や表情から、本人さえ気づかぬほどの感情の揺れを読み取ってくれている。
 そういった面では、彼女に甘えているのかもしれない。
 甘えてはならぬとは、思わない。羽月が思い煩うのは、それが、羽月の気持ちが、彼女にちゃんと伝わっているか、という点だった。伝わって、いるだろう。いるはずだ……きっと。
 それでも。
 ――それでもこうして、形として残し、彼女へ贈ろうとするのは。
 ただの、自己満足に過ぎぬのかもしれないけれど。
 ゆるく波打つ人形の髪をひと梳き。そのまま結い上げようとして、指を止める。胸裡に浮かぶ、同じ色した妻の髪。装いに合わせ、楽しそうに髪型を変えていた。この人形の髪にも、結うたあとに飾り物をつけてやろうか。簪、櫛、笄、その前に衣の方を決めねばと、羽月は頤に指を添えて首傾いだ。
(やはり、自己満足なのだろうな)
 思わず苦笑が洩れる。
 いつも結局は、人形作りの楽しさに、遅々とだが作業は進んでいる。何度も何度も、衣の図案や模様に悩み、妻の姿に重ね、そこに期待を込めて。

 願わくは彼女にも、この気持ちが伝わらんことを。
 彼女が人形に出逢う時、その面に広がるのが喜びの表情であるように。

 祈り。

 妻の名を口にして、人形の眦を指先でそっとなぞる。
 たったふたつの音を唇に乗せただけで、羽月は満ちた心地に眼差しが和らいだのを感じた。舌に転がるように心地好い音。もう幾度その名を呼んだだろう。彼女はそれに何度応えただろうか。
 けれどまだ、足らない。
 もっとあなたの名を呼んで、ずっとその傍に在り続けたい。
 その一環を、この人形に。あなたに僅かでも、私の確かな想いを、渡すことのできるようにと。

「……そのためには、早く仕上げねばな」
 呟きに、縁で丸まっていた茶虎縞の猫がぴくりと反応し、身を起こす。片耳を震わしてから、顔を上げた羽月の許へそろそろと寄ってきた。
「彼女には、まだ内緒だ」
 羽月の手許の人形に興をそそられた様子の猫にそう告げて、口の前で指を立てる。賢い猫は、にゃ、とひと鳴きすると、了解の旨を伝えるように羽月の膝に頬を擦り寄せた。
 再び今度は羽月の隣に丸まる猫を横目に見て、羽月は改めて人形に向き直る。
 肝心の、衣が決まらぬ。色も柄も、様々合わせてみるのだが、そのどれもが良いと思うし、同時にまた違うものの方が良いのではとも感じてしまう。ここまで自分が優柔不断だとは知らなかった。また口許に上る苦笑を押し止めて、気持ちを落ち着かせるように瞳を閉じる。浅く呼気を落とし、瞼を上げると、今一度庭へ視線を遣った。
 くすんだ空は雨模様。もうすぐこの庭にも雫を連れてくるだろう。
 視点を僅かに下げると、途端に鮮やかな色彩が飛び込んでくる。紫陽花。花弁に見える色のついた箇所は、花ではなく萼である。花に当たるのは萼の囲む小さな点の方だ。きっと妻はそれを知らぬだろう。教えれば、あの大きな瞳をいっぱいに開いて驚くのに違いない。
 そして、何と云うだろうか。

 ――不思議ですね。すごいです。
 ――私、知りませんでした。
 ――でも、お花の方も、好きですよ。
 ――お花も、萼も、葉っぱも茎も、皆それぞれ、好きなんです。

 萼は花を囲み、時に花を守る。
 常にともに在り、ひと括りに同じ名にて親しまれることさえ。
 ふと、羽月は己がいつの間にか淡紫の色合いを花に探しているのに気がついた。いつでもその色を探している。その色を想っている。
 何と愛しく、恋しきひとよ。
 ゆっくりと人形へ面を戻し、白はどうだろう、と思った。
 結婚式の花嫁衣装が浮かぶ。白とは旅立ちの色。いまだ何にも染まらず、あるいはすべてを落としきった、無の色彩。
 細やかな文様を銀糸にて編み、その表をあくまで密やかに楚々と映えさせて。
 それはとても良い考えのように思われた。まずは、白の衣を。その後に襲を考えるのも、別の艶やかな着物を見繕うのも良いだろう。
 染まらぬ色。染まった末の始まりの、終わりの、すべてを込めて、無でありながら、在る、色。
(色なしと人や見るらむ昔より深き心に染めてしものを)
 ようやく次の作業のはっきりとした目標ができたことに安堵して、羽月は人形を、仕舞っていた箱へと戻す。物音に、微睡のなかにあったらしい猫は、羽月を見上げ瞬いた。それに微笑を返してやると、猫は心做しか嬉しそうな声音で鳴く。励ましにも聞こえた。
 風に雨の匂いが強くなっていた。そろそろ彼女の帰宅の時間ではなかろうか。傘は持って出ただろうか。
 立ち上がり、戸を閉めようと手を掛けたところで果たして、雨。
 紫花つつむうてなは、雨に打たるる花を案じて、水退けるようにひとつ、顫えた。


 <了>