<東京怪談ノベル(シングル)>
冷たい雨
月の光に照らされた惨めな程に酷い状態の骸。
その光景が今もエヴァーリーンの脳裏に焼き付いている。
ただ見ている事しか出来なかった。握りしめた鋼糸が与える痛みもエヴァーリーンには感じられなかった。
流れる血などどうでも良くて。崩れゆく身体を目を覆う事もせずに、見つめている事しか出来なかった。
師匠がただの骸へと変わる事が分かっていて何も出来なかった力ない自分を責めながら、エヴァーリーンは組織から向けられた疑いの目をのらりくらりとかわしていた。口を開こうともせず、感情を見せないエヴァーリーンに組織の幹部達は激怒し、疑いが晴れるまではそこで暮らせと地下牢に繋がれた。
地下牢には天窓があり、そこから切り取った様に空が見える。青い空も流れゆく雲も、そしてあの時と同じ月も見えた。
師匠が組織を裏切り骸へと変わったあの時と同じ月が。
あれから何度厳しく追求されようと、エヴァーリーンは全ての感情を殺し、相手をじっと見据えていた。
その瞳にはなんの感情も浮かんではいない。
エヴァーリーンは組織への怒りも憎しみも、亡き師への悲しみも全ての感情を、心の中に牢獄を作って全てをその中に押し込んで鍵をかけてしまっていた。
今はその感情を表に出す時ではない、と。
程なくして、エヴァーリーンは自由の身となった。
特に忠誠を示していた訳ではなかったが、エヴァーリーン一人では逃亡する事も組織への反乱を起こす事もないだろうと判断されての事だった。ただ、常にエヴァーリーンへの注意は促されていた。身近な者を殺した組織に対しての不信感を持っているに違いないと。それは間違いではなかった。
自分の母親代わりでもあった師匠が殺され、エヴァーリーンが組織に怒りを持たない方が可笑しい。
今すぐにでもどうにかしてやりたいと内心思っていたが、エヴァーリーンはその度にあの最後に見せた師匠の笑顔を思い出し感情を殺した。
あれは哀しみに暮れた笑顔ではなく、エヴァーリーンだけに向けられた家族の温かい笑顔だった。エヴァーリーンに生きろと告げたあの表情を、エヴァーリーンは一生忘れる事はないだろう。それを思い出すたびに胸が震えたが、それも一時の感情だ。
こんな時に師匠の教えが役立つとは思わなかったが、静かに飄々とした表情を浮かべエヴァーリーンは日々を過ごした。
耐えているのではない。
エヴァーリーンはただ待っていたのだった。
その怒り、憎しみ、哀しみにも勝てる程に自分自身が強くなるのを。この組織を壊滅できるほどの力を手に入れる事を。
エヴァーリーンは師匠よりも強くなろうと心に決めた。
日々、師匠に課せられた鍛錬を積み技を磨く。
一人きりでただひたすらに強さを求めて鍛練を積んだ。幾度も身を裂くような苦しみを味わったが、それもこの先にある事を思えば耐えられた。
前だけを向いてエヴァーリーンは進んでいった。
昔は自在になど操る事の出来なかった鋼糸も、今ではまるでそれが自分の手足のように息をするよりも容易く扱えるようになっていた。エヴァーリーンが望めば暗闇に溶け込んだ鋼糸が目標物へと忍び寄り、あっという間にその命を絶つ。
着実に仕事をこなし、いつの間にかエヴァーリーンは組織の中でもトップクラスの暗殺者へとなっていた。
その頃には黙々と仕事をこなすエヴァーリーンから幹部の監視の目は緩められていた。もうエヴァーリーンを見て、反逆した者が居た事を思い出す者はほとんど居ない。
これがエヴァーリーンの待っていた機会だった。
静かに爪を研ぎ時を待っていたエヴァーリーンに訪れる復讐の時。
蓄積された怒りと憎しみを解き放つ時が来たのだ。
しとしとと降り続く雨の音が響いている。
皆は酒を飲み、雨の音など聞く事もなく何が楽しいのか馬鹿笑いをしていた。
エヴァーリーンは窓から外を眺めながら一人部屋の隅でグラスを傾けていた。
いつもエヴァーリーンは一人で過ごしていた。声をかけてくる者がいてもほとんど相手などせず、一人を好んでいた。いつしかエヴァーリーンに声をかけてくるものも居なくなり、必要最低限の言葉しか交わさなくなった。
それはエヴァーリーンの決心を鈍らせるものを作らない為のものだったのだろう。
自分に近い者を作れば作る程、組織を潰す時に支障が出る。全ての者を手にかけなければならないのだから。
いくら強さを手に入れても、迷いがあったら確実に隙が出来る。大多数を相手にする場合、そのちょっとした隙が命取りとなるだろう。
グラスの中の氷をくるくると回しながら、琥珀色の液体を回す。
「あの人もよくこうしてたっけ……」
飲ませて、と言っても、まだ早い!、と手を遠ざけられいつになったらそれを飲ませて貰えるのだろうと面白くなくて頬を膨らませていたことを思い出し、エヴァーリーンはほんの少しだけ笑った。
耳に心地よい氷とグラスのかち合う音。
雨の音よりも胸に染みわたるようだった。
エヴァーリーンは思い出も全部その液体と共に一気に飲み込み席を立つ。
「今日はもういいのかい?」
そう尋ねられてエヴァーリーンはバーテンに頷いた。
代金を払ってエヴァーリーンは酒場を出た。
エヴァーリーンの手には鋼糸が握られ、その先端は既に別の場所へと向かっている。
酒場にいる全員を葬り、その二階にあるアジトに居る人々も全て叩く。
一人残らず葬る必要があった。一人でも闇に逃せばエヴァーリーンの負けだ。
この世界で負けは『死』を意味する。
師匠の向けた笑顔を思い出してエヴァーリーンは溜め込んだ感情を爆発させた。
既に逃げられないように網は張り巡らせた。後は確実に一人一人の息の根を止めるだけ。
エヴァーリーンは隙間から侵入させた鋼糸で扉から遠く離れた者たちの首を一斉に裁った。撒き散らされる血に近くの者達が慌てふためく気配がする。
中から怒号が聞こえ、人々は慌てて外へと飛び出してくる。
エヴァーリーンは冷静だった。
冷たく凍らせた瞳で向かってくる者を全て一瞬のうちに葬った。横たわる死体には目もくれず、次の標的へと向かう。
鮮やかにエヴァーリーンは闇に舞った。
何の慈悲も躊躇いもなく腕を振るい、次々と地へと沈めた。べしゃり、と濡れた地面に崩れゆく身体。
自分を狙う剣も矢も全て薙ぎ払った。エヴァーリーンは鋼糸で相手を絡め取り、一気に貫く。
鮮血が舞うがその血を浴びる前にエヴァーリーンは次の標的の元へと向かっていた。
倒れ様に薙ぎ払われた剣で脇腹を斬られるが、深いものではない。気に止めずその者へ止めを刺した。
雨に濡れた足場は当てにならない。エヴァーリーンは近くの人物の身体を足場に軽業師の様に宙に舞い、四方へと鋼糸を放ち逃げようとする者の足を止め止めを刺した。
逃げ惑う人も躊躇いなく息の根を止める。
誰一人残すことなく。
誰も残してはいけないのだ。その為に関わる事を拒み、ひたすら静かに生き続けてきたのだから。
自分を縛り付けるものを解き放ち、過去からも未来からもその組織を葬り去る。
叫び声も次第に消え、最後の一人も地へ沈めた。
辺りには静けさが戻り、エヴァーリーンは生存者が居ないかを確認する。
時間はかかったが、酷い傷を負う事もなくエヴァーリーンは復讐を果たす事が出来た。
これで亡き師を縛り付けていたものも、エヴァーリーンを縛り付けるものも無くなった。
エヴァーリーンから戻る場所も大切な人も、何もかも全てが消えていった。
降りしきる雨が辺りに漂う血臭を消し去っていく。
ふらふらとエヴァーリーンは歩き出していた。
向かったのはアジトがあった場所から遠くない、ほんの少しだけ街が見下ろせる小高い丘だった。
そこはエヴァーリーンの師匠が殺された場所だった。
墓がある訳でも、誰かが居る訳でもない。
何もない。
エヴァーリーンは心を蝕んでいた憎しみという感情が消え、胸にぽっかり空いた穴があることに気付く。
そこにようやく場所を得たかの様に満ちてくる哀しみ。
胸がいっぱいになりエヴァーリーンの頬を雨ではないものが流れた。
数年分の溜め込んだ哀しみが堰を切ったようにとめどなく溢れてとまらない。
そんなエヴァーリーンを抱きしめる腕はそこにはない。温もりを与えてくれる人は消えてしまった。
しかしその人の苦しみを断ち切ったという想いがエヴァーリーンの中に満ちていく。
胸に溢れる喜びと哀しみ。
雨は激しさを増し、エヴァーリーンの身体を打つ。
雨に紛れる涙と雨音に紛れて消える嗚咽。
誰もエヴァーリーンを見つめる者はない。
ただひたすら冷たい雨がエヴァーリーンを打ち付けていた。
後にも先にもエヴァーリーンはこんなにも自分を打ち付ける冷たい雨を知る事はないだろう。
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