<東京怪談ノベル(シングル)>


花とキス
 目の前に燦燦と降り注ぐのは、木漏れ日である。愛すべきこの光景にオーマはため息をついた。これは安堵のため息とかそういう類ではなく、
 「……暇だ、暇すぎる」
 退屈ゆえの、ため息であった。
 閑散とした病院内のある一室で、オーマはとにかく暇を持て余していた。廊下から聞こえてくるパタパタという足音に、わざわざ扉を開け聞いてみる。
「おい、患者はいないのか?」
 「いないですよーぅ。喜んで下さーい」
 話しかけられた看護婦はにっこりと微笑って、早足でどこかへと行ってしまった。
 寂しく扉をパタンと閉める。こんなに患者が来ないだなんて、何ヶ月に一度あるかないかの暇な時間だ。外はとても良い天気だった。確かにこんなに良い天気の中、わざわざ病院にやってくる人は少ないだろう。
 このまま暇を持て余していくしかないんだろうか。静まり返った部屋の中、ため息をついた瞬間、盛大な音が聞こえてきた。
 ―――――ドスッ
 「何だ何だ何だ?」
暇を持て余すよりは何かが起こった方が良い。オーマは嬉々として音がした場所へと寄った。窓を開けて覗き込む。
 「……何してんだ?」
 目の前には、6,7歳くらいの少女が蹲っていた。目に飛び込んできた人物に、眉間にしわを寄せ尋ねてみる。薄いピンクのワンピースが目に眩しい。膝丈くらいのワンピースから伸びた白い足には、少しの擦り傷。どうやら今、ここで転んでしまったらしい。あの鈍い音はこれだったのか、とオーマは少し目を細める。
 「怪我したのか?」
 「……あ」
 少女はオーマを警戒しているのか、乾いた音を発したきり黙ってしまった。
 「来いよ、治してやろう」
 有難く思えよと胸を張る。患者が多かったなら、忙しさの騒音の中、こうして窓を開けて転んだ少女を見つけることもなかったかもしれない。そう思うと今日は暇で良かったと思えた。
 医者にしては逞しすぎる腕を伸ばし、少女に触れようとすると、
 「いいよ」
 パシッと手を叩かれた。痛くはなかったが、心は傷つく。
 「は?」
 「別に良い。要らない」
 「何言ってんだ、怪我は治すもんだろ」
 「うるさい、オジサン」
 「お……」
 又もや傷ついた。分かってはいても触れられたくないところだ。白衣を着ている以上は「お医者さん」だとか「先生」だとか、他にも呼び方はあるはずなのに。
 「こんちくしょっ!」
 「きゃあっ!」
 両腕を伸ばし、力に任せて少女を抱き上げる。そのまま小さな体を窓に潜らせ、診察室の椅子にストン、と下ろした。
 きょとん、と目を丸くしている少女に向かってオーマは歯を見せ笑った。初めて少女に勝った気持ちを味わう。
 「はっはー、俺の怪力をなめんなよ〜」
 少々大人気ない気がしないでもないが……まあ、仕方がない。これで傷ついた気持ちも晴れるだろう、そう思っていたら、
 「医者にそれって必要なわけ?」
 痛い突っ込みである。丸く開かれていた少女の瞳は、又見下すような細いものに戻っていた。目を細くしない方が可愛いのに、とオーマは少し惜しい気分になった。
 「あーもう、うるさい!さっさと手当てするからな」
 半ば乱暴に、細い足に消毒液を付けた。少女は一瞬、痛そうに顔を歪めていた。
 「……散るもの」
 「は?」
 「どうせすぐ散っちゃうんだもん」
 何時の間にか哲学的な話になってしまったんだろうか?オーマは頭を捻って少女の言いたいことを探ってみる。
散ってしまうということは……
 「何だお前、自殺志願者か?」
 「おめでたいオジサン」
 撃沈だった。
 「無駄なことはしない方が良くない?そう思わない?」
 少女の言葉を受け流して、オーマはとにかく手当てを終える。怪我はとても軽いものだった。
 「そら、できたぞ」
 「お節介どうも」
 可愛くない子供だ。内心で少し毒づきながらも、オーマは話しかけた。
 それは、
 「……なあ」
 咎めるためではなく、伝える為に。
 「お前がどう思おうと勝手だけど、俺は見つけたら止めるし。それを無駄とは思わないぞ」
 「は?」
 大きな瞳を殊更に大きくして、少女が聞き返す。この話を蒸し返されるとは思っていなかったのかもしれない。
 「いや、俺の思い違いなら良いけどさ。もしお前が明日死んだとしても……自殺だろうが事故死だろうがな?」
 「医者のくせに、縁起でもないこと言うのね」
 「そこを突っ込むな」
 「話を戻すぞ。だから、お前が明日死んだとしても、俺は今お前の怪我を手当てしたことを無駄だなんて思わないし、手当てしなきゃ良かったなんて思わねえよってことだ」
 少しの沈黙。
その後で少女は大きな瞳をゆっくりと細めた。見下すようなものではなく、嬉しそうな笑顔の為に細められた瞳。こういう細め方は似合うじゃないか、内心そう思った。
 「……そう」
 少女が多分、きっと、初めてオーマに対して微笑ったその時。
 「……ありがと」
 少女の言葉が終わるか終わらないか、その狭間で大きく風が凪いだ。

 ―――――ザワッ 

 それは開けていた窓から、部屋へも鋭く流れ込む。オーマの髪を、少女の髪を攫う。
 「あーあ」
 「……どうした?」
 少女の残念そうな声。見ればどこか悲しそうに、寂しそうに、諦めたように微笑んでいる少女がいた。薄いピンクのワンピースが風でひらひらと揺れる。ガーゼを当てた膝が、ミスマッチなようで変に似合っていると思った。
 「もうー、ちょっと思い出作りにと思って外に来ちゃったら怪我しちゃうし、誰かに会ったかと思えば外見に似合わずお固いお医者さんだし。お節介で怪我の手当てなんか受けちゃったし。それにそれに、なんかお説教されちゃうし」
 「おい、大丈夫か?お前何言ってんだ?」
 出会ってから今まで、不可思議なことをばかり口にする少女に、又もオーマは尋ねる。言葉や行動は時に頭にくるものだったが、放ってはおけなかった。
 何より、少女の纏っている雰囲気が気にかかった。
少女はいつも、どこか寂しそうだったから。
 「でもま、良っか。ここで散るのも」
 オーマは眉をひそめ、少女を見る。そうして、あることに気付いて目を丸くした。
 少女の姿が霞んでいっているのだ。ワンピースの裾がひらひらと舞い、舞いながら、消えていく。
 「言ったでしょ?『散っちゃう』んだって」
 儚い笑顔が真実を告げる。散るというよりも、これでは消える、だ。
……今なら何となく分かる。彼女は自分とは違うのだ。
 「ああ、お前……そっか」
 そこまで言って、オーマは微笑った。なぜ微笑ったのかは自分でも分からない。少女の言葉を借りれば、彼女は今から散ってしまうらしい。それがどちらかといえば悪い意味であることは、彼女のどこか退廃的な態度を見れば分かることで。
 それでも、何故かオーマは微笑ったのだ。
 「嬉しかったわ。オジサン。又会えるかとか来年も咲けるかなんて本当、全然分からないんだけどさ……だから、すっごい怖いけど」
 少女も、微笑った。それは本当に消え入りそうな、儚い笑顔だったけれど、
 「ありがと。嬉しかった」
 とても綺麗だと、オーマは思った。


 気付けば一人、取り残された診察室でオーマは又もやため息をついた。大きな瞳も、薄いピンク色のワンピースも、自分が手当てに使ったガーゼも今はもうどこにもない。
 どこにもいなかった。
 「……はぁ」
 「先生、患者さんはまだ来ないでーす」
 勢い良くドアが開き、看護婦が入ってきた。
 「わざわざ教えに来んでも良いんじゃないのか?」
 「ぷっ!どうしたんですか?先生」
 「は?」
 看護婦が笑いながら自分の顔を指差す。一体何を言っているのか。無骨な手を自分の頬に当てた。
 そこに、あたる。柔らかくどこか温かな感触。
 「頬に花びらが付いてますよ」
 笑いを堪えながら看護婦が言った。大柄な自分が、どこで付けたんだか、花びらを頬に付けているのが大いにおかしいらしい。
 「ああ、これ……?これは、」
 オーマも笑った。心からの笑みだ。
 窓の向こうではもう一度、強い風が吹いた。ザワザワとした音の後で、何枚かの花びらや葉が、温かな風に攫われている。
 木漏れ日を目を細めて見ながら、薄いピンク色のワンピースがひらひらと舞う様を思い出していた。あの儚い色は今、自分の人差し指に在る。 
 

 「心憎い演出だよ」
 木漏れ日に溶けそうなくらい、小さな声で呟いた。