<東京怪談ノベル(シングル)>


し ろ い 花 の 約 束



 天鵞絨の夜があたりを覆って、遙か遠くの空までを濃い青鈍色に染め上げている。何時もは夜空に白く映えている星も、近頃は雲に遮られてめっきり姿を見せていない。きらきらと輝いていた空が、喪に服しているかの如く昏いのである。明かりを落とした診察室のデスクについたまま、オーマは独りで外を眺めていた。診察室の四角い窓に切り取られた夜の暗さは、まるで底無し沼のようだ―――――と、そう思ったところで、オーマは眉根を寄せた。
 常ならば床に入り、夢のひとつやふたつでも見ている時間である。けれどここ二、三日、オーマはこうして誰も居ない病院に残って、独り、あるものを『探って』いた。
 ―――――何処だ。
 窓から吹きこむ絶え間無い風のなかに、ひかりの無い夜空にその気配を探るけれど、それは僅かに瞬くだけで、一向に尻尾を掴ませぬ。北の空にふわり泳ぐオーロラのように、実体が解らない。幽かに感じるだけなのである。

 この世界に無い筈のもの―――具現の言語、ヴァラフィス―――の鼓動を感じたのは、一週間ほど前のこと。今と同じような暗い夜、遠くで鳴る鈴の音のような幽かな気配を捉えた。ゼノビアなら違和感は無いが、ここはソーンである。具現の出来ないこの世界において在り得ないその存在を、初めの内は気の所為だと思った。……けれど日が経つにつれ強くなっていくその波動は、既に気の所為では済まない量になってしまっていたのだ。
 気になって眠れねェじゃねえか畜生、と毒づきながら、オーマはがしがしと頭を掻いた。敵か味方か人かウォズかも解らないので念の為にと白衣の下にヴァレルを着てはいるけれど、それが役に立つのかもまた、解らない。解らない尽くしのこの問題に、オーマはいい加減頭が痛む思いであった。
「あー、何処に居やがるんだ……?」
 そう、思わず独り言も出てしまう。オーマはげんなりと頭を垂れて溜息をついた。
 オーマが気を張り巡らせて探っているのにも関わらずその網に引っ掛からないのならば、ヴァラフィスの力があまり強くは無いということなのだろう。けれど弱いからといって捨て置くには、これは余りに不可解に過ぎる問題だった。
 ……そろそろ、潮時か。
 こうなったら、闇雲でも手探りでも仕方有るまい。今回ばかりは危険かもしれないので、周りに助力を仰ぐこともあまり良策ではないだろう。偶には守るべきか弱い民たちの為、ときめき美大胸筋を反らせて威風堂々孤高に崇高に、天上天下唯筋独尊くらいの精神で如何なる努力も惜しまず貢献するべきか……などと一通り腹黒思考を巡らせたのち、オーマは立ち上がった。ヴァレルの裾を正し、おっしゃ、と口の中だけで気合を入れる。
 診察室の暗闇に、白衣の裾がひらりと泳いだ。

+        +        +        +

「何処だァ!」
 勇ましく声を張り上げて街中や街外れを縦横無尽に走り回る白衣姿の大男の姿など本来ならさぞ奇々怪々な光景であったのだろうが、もう既に慣れきってしまった彼らにしてみれば、またあそこのイロモノ病院の院長がご乱心遊ばせたのか、と簡単な感想のみで片付けられてしまう問題なのであった。ベッドから身を乗り出した夜更かしっ子が窓越しにオーマを指差す。ママァ、あれなぁに。……あらあら、見ちゃいけません坊や、もうおやすみ。あんなの見てたら脳味噌まで筋肉になっちゃうわよ。
 そんな会話が住人たちの間で繰り広げられているのも知らず、オーマはヴァラフィスの波動を探し回っていた。随分前から感覚器官をフルに使い探っているけれど、やはり向こうの力が薄いのか、それともここから離れているのか。断続的に波動が続いていることは確かなのだが……。
 闇雲でも手探りでも、とは言ってみたものの、ソーンは広い。失念していた訳では無いが、幾らか侮っていたことは確かであろう。見つから、ない。
 オーマが東西奔走しているうちに街の明かりは徐々に消え、次第にあたりが暗さを増してゆく。丑三つ時にはまだ早いけれど、明日も健やかに仕事に励むのであろう住人たちは、ちらほらと床に就いているようだ。民家の明かりがひとつ、ふたつと消える度に、夜空の紺鈍色がその色を濃く昏く強めてゆく。星は無く、曇り空の向こうからぼんやりと月の光が注ぐ夜であった。
 あぁ、今日も見付からないのだろうか。明日また現れるとは限らないが、次に回した方が良いのかも知れない―――――と、オーマが弱気になった瞬間。

 ―――――声。
 声が、聞こえた。

 探していた波動だと、直ぐに解った。
 オーマは立ち止まり耳をそばだてる。何処だ。オーマの意識の奥で、絶え間無いその声が鳴り響いていた。眼を閉じる。聴覚と第六感だけを研ぎ澄ませると、無明のなかでその声は星の光のように煌めき、ごく僅かだったけれど―――――小さなひかりを、発した。
「―――――よし、」
 その居場所を感知したオーマは、天使の像がしずかに微笑んでいる広場を抜け、再び長い足で駆け出す。

 街を抜け、すこしだけ走ったさきの林。針葉樹が並び立つ寂しげなその場所から、声は聞こえていた。近づいてみてやっと解るほどの、囁くようにうたう声。木々の隙間から見えるのは、オーマも何度か眼にした異国の民族衣装(着物と言ったか)を纏った、ひとりの小柄な人間の姿だった。
 紺桔梗の着物に、琥珀色の帯。漆黒の髪は肩を過ぎたあたり、肩幅が狭く小作りな体躯を見ると、少女かも知れない。声を掛けて驚かせると悪いがこのまま見ているのも変態チックで宜しくない。さて如何しようか、とオーマが首を傾げていると、

「だれ、」

 鈴の音のような、呼び声。
 夜闇に通るその声に何故かオーマは一瞬、意識が茫っとするのを感じた。
「……だれ、」
 振り返ったその貌は、夜目にも解るほどの雪白であった。十歳くらいであろうか、ぱっちりと大きな黒い瞳が可愛らしい少女は、紅い唇でそうことばを形づくった。途端、オーマの意識がゆらりと揺れる。眩暈にも似たその感覚は明らかに探していた波動、ヴァラフィス―――――。オーマは頭を振って、意識を蝕むその感覚を追い出した。
 ……これは、何だ。ヴァラフィス、確実にヴァラフィスであるのに―――――根幹が違う。

 少女はオーマの顔をみて、にこりと笑う。
「はじめまして。」
 微笑みながら言うことば、唇が動くひとことひとことの全てにヴァラフィスの波動が感ぜられる。ゼノビアにおいて具現能力者にしか使えず、解せず、具現の代償を守るときにしか紡がぬ言語。……具現に侵食されていないソーンでは、紡ぐことは不可能な筈。そしてゼノビアにおいてすら、自然、紡ぐことの出来る時が限られている言語であるのに。
 ―――――危険は無い、のか。
 オーマの頭は目まぐるしく回転していたが、けれど回答には行き着かぬ。そんなオーマを知ってか知らずか、……否、多分知らずに、少女は切り株に腰掛けて、足をぱたぱた揺らしていた。
 何を言えば良いのか考えあぐねるオーマと、好奇心一杯のきらきらした眼でこちらを見詰める少女。暫く両者睨み合いの図が続いたが、沈黙を破ったのは彼女の方であった。
「……ね、おじさん!おじさんは誰なの?おっきいから熊さんかと思ったよ!あとね、それ、その眼の色、うさぎちゃんみたいできれいね!」
 堰を切ったような少女のマシンガン・トォクに、オーマは気圧されそうになる。
 ……ていうかこの娘いま、寸分の迷いも一瞬のためらいも無くおじさん呼ばわりしやがった。ちょっとショック。いや、確かにおじさんな年だけどもな。
「でね、おじさん、その変わった着物きれいな色だからわたしも欲しいなって―――――」
「だぁ、よしよし、解ったちょっと待て!順番に答えっから、まずそこに直れ!」
 放って置けば何時までも続きそうな彼女の質問攻めを一時中断させ、オーマはひとつずつ答えてやった。自分はオーマ・シュヴァルツという医者で、熊さんではなくて、眼の色を褒めてくれて嬉しくて、けれどこの着物は残念だがやれないということ。少女は全てにきらきらした眼でうんうんと肯いていたが、最後の着物のことに差し掛かるとしょぼんと落胆したようだった。……自他共に認めるメロキュン子供好き親父に、その表情は反則である。状況も忘れて思わずキュンとなってしまったオーマは、す、と右手を差し出した。
「……おいおい、ヘコむなヘコむな。換わりに良いもんやるから、元気出せ。」
 言い終わると同時に、手を握ってくるりと返す。
 開かれた手のひらには、具現化された小さな兎の人形。
「わぁッ、」
 うさぎさんだぁ、と、先刻の萎れた表情が嘘だったかのように、満面の笑みを浮かべる少女。
「ありがとう、オーマ!」
「おう、大事にしろよ。」
 うんッ、と元気よく返事をすると、少女はオーマそっちのけで兎の人形をいじり始めた。足を引っ張ってみたり耳を触ってみたり、正面からじっと見詰めてみたり。鴉漆のおおきな瞳がくるくると動くさまは、やはり年相応に可愛らしい。
 そして一通りいじり終わると、少女は人形をちいさな両の手のひらに乗せて、じっと眺めた。えへへ、と笑い、眼を閉じる。

 ―――――その、刹那。

「たいらけく、きこしめしたまえ―――――」
 ヴァラフィスの力が、跳ね上がった。
「やおよろずのかみのおめぐみを、あたえたまえ。かしこみかしこみ、もうす。」
 言い終わると同時に、人形がひょこりと立ち上がる。
 木彫りの兎は寝起きのように、たどたどしい動きで首を傾げて耳を動かした。まるで生きている、ように。
「できた!」
「―――――お前、」
 この時思わず出した声は随分と呆けていたのではないかと、オーマは後になって思った。
 今行使された力は紛れも無く、ヴァラフィスの波動を有していたが―――――どこか、ほんの根源の所で僅かな差異がある力だった。そう、言うなれば、鏡の中の自分を覗き込んでいるような、違和感。
 ぽかんと口を開けたオーマを尻目に、少女の手のひらで、兎の人形はのたのたと歩き回る。けれど小さなその上を2週半したところで、兎はこてん、と倒れ、動かなくなってしまった。
「あ、おわっちゃった。あーあ、」
 残念そうに口を尖らせるの少女そのことばからも、弱いながらも数日間探し回っていた波動と一致するヴァラフィスの波動が感ぜられる。この少女がなぜヴァラフィスを会得しているのかは解らない。が、もし生来のものであるならば―――――何故今まで感知されなかったのだろう。感覚の鋭いオーマのセンサに引っ掛からないなど、絶対とは言い切れぬが、それでもあまり考えられないことだ。
 ……いや待て、少女の着ている服を鑑み、ひとつだけ考えるとすれば。
「……お前さん、どっから来たんだ?」
 少女は動かなくなった人形を残念そうに弄繰り回していたが、オーマのことばにぱっと顔を上げる。そしてにこっと笑って、ひとこと。
「ん、京都のおうちよ。」
 京都。
 その方面に詳しい友人に、聞いたことのある地名だ。
「この前おうちの庭で遊んでるうちに飽きてつまんなくなっちゃって、あーぁ、もっと面白いところにいきたいなぁ、って思ってたの。そしたら急にまわりのけしきが変わってね、……あれーって思ったけど、えっと、いつものことだからね、気にしないで遊ぶことにしたの。ここは静かでみたことないお花もたくさん在るから、よく来るのよ。」
「へぇ、成程ね。……それでか。」
 その方面、とは言うまでも無く、ここではない異世界のことについてだ。おそらくこの少女は、異世界からきた子供なのであろう。けれどどうやら、ここが自分の居た世界とは違う所だということを認識していないようであった。
「さっきのはね、ことだまよ。わたしはね、ことだまの家の子なのよ。だからわたしもまいにち練習してるの。」
 ことだま。―――――言霊か、とオーマは呟く。少女の住む異世界においての、ヴァラフィスとは少しだけ形の違う具現言語。ヴァラフィスだと思ったにも拘らずオーマが感じていた僅かな差異は、これだったのであろう。生まれてから修練を重ね続けた彼女の口からは、自然にヴァラフィスの波動が流れ出す。千切れていた線が一本に繋がった。恐らく彼女は異世界においても稀有な、言霊の能力者なのであろう。ゼノビアにおいてもヴァラフィスを体得し、本当の意味で使いこなせる者はそう居ない。況して無生物を動かしたり、空間や世界を自由に飛び回るなど。
「そうか。それで練習で疲れたから、こっちに遊びに来てんだな。」
「でもここに来るとね、何でかいつも夜なのよ。おひるに遊びにきたのに、へんなのね。」
 異空間移動をするときに何らかのタイム・ラグが生じているのだろう。
「おいおい、こんな夜更けに女の子ひとりってのは危ねぇな……。」
 けれどぽつりぽつりとこちらに遊びに来ているだけの彼女には、当然友達も知り合いも居ないのだろう。街の中心から然程離れては居ないから危険は少ないけれど、それでも安全な訳ではない。
「お嬢ちゃん、今日は俺が居たから良いけどな、ここにゃあ危ねぇ動物やら不埒なワル筋が居るんだ。今度からは昼に来い、一緒に遊んでやるから。」
「ほんと!」
 まだ言い終らぬ内に、ぱあっ、と少女の眼が輝き、短く細い手がオーマにの背に伸びる。ぎゅう。成長しきっていない腕に、オーマの背中は大きすぎたようだ。途中までしか回らなかった手のひらがぺたりとふたつ、張り付く。こんなに小さいのに、こどもの手というのは如何して暖かいのだろうか。
「よしよしよーし、」
 可愛いぞこのやろー、と言いながら、オーマも両手でぐりぐりと少女の頭を撫で回す。
「オーマ、約束ね!こんどはきっと明るいうちに来るから、遊んでよ!」
 やんちゃ盛りの仔犬のようにはしゃぐ少女に、オーマも自然と笑みがこぼれた。
「じゃあ、オーマのところに遊びに行くから!だからね、目印持ってて欲しいの、」
「目印?」
「そう、目印してくれればここだよーって教えてくれるから、迷わないでオーマのところに遊びにいけるの、」
 少女はオーマから離れ、足元のしろい花を一輪だけ摘む。そして先刻したのと同じようにそれを手のひらに載せ、うーん、とひとこえ唸ってから。

「―――――こいたてまつることのよし、きこしめしてごかんじょうねがいたてまつる。……てんにむこうて、かしこみかしこみ、もうす。」

 少女の漆黒の髪が、ふうわりと風の無い夜闇に靡いた。そして手に乗ったしろい花がぼんやり光ったと思うと、くるりと丸まって輪になる。

「指輪!」
 少女はオーマの鼻先に、しろい花を突きつける。成る程よく見れば、玉を削りだしたような光沢のある指輪が完成していた。けれど彼女は自分の指の太さを基準に考えたのだろう、オーマの骨ばった指には到底合わないのでは、と思えるほど、小作りで可愛らしいアクセサリである。
「よし、りょーかいした。……お前が来るまでちゃんとこれ付けてっから、気をつけて遊びに来るんだぜ?」
 うん、と肯いた少女は、このしろい花のように可愛らしい笑顔を浮かべ。
「それじゃあオーマのいうとおりにして、きょうはお家かえるね。また絶対、ぜーったい、遊びにくるから、いっしょに遊ぼうねっ!」
「おうともよ。待ってんぜ、」
「はーい。じゃあね!」
 小さな手二つを二つともぶんぶんと元気よく振りながら、少女の体は夜闇に溶け、霞のように、ふ、と消えた。
「……はー。すげぇな。いろんな奴が、いるもんだぜ。」
 感じていた、ヴァラフィスの鼓動―――――それがまさか、稚い少女のものだったとは。彼女はゼノビアではヴァンサーしか会得せぬその具現の力を、あの幼さでやすやすと使ってのけたのである。夢かとも思ったが、手の中のしろい指輪がそれを赦さなかった。

「言霊、ね。」

 彼女を導くしろい指輪はオーマの指にはやはり入らなかったから、鎖でも通して首に掛けていよう。鴉色の髪の毛をした少女の愛らしい笑顔と小さな手の感触を思い出しながら、オーマはるんるんと帰路に着くことにする。
 必ず遊びにくると、少女は言っていた。個性溢れる腹黒イロモノ病院に、また新しいイロモノキャラクタが誕生するのだ。

 はてさて、皆はあの少女を見たら、どんな吃驚呆け顔をするだろうか―――――?




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ライタァより:


お世話になっております、こんにちは。青水リョウです。
またまたご注文を頂きまして、当方、飛び上がりながら喜んでおります。
そんなに喜んでいるくせに納品が遅れてしまいまして、真に誠に申し訳ございません…!

今回は新しい設定をお任せ下さいまして、ものすごく楽しみながら書かせて頂きました。
オーマ氏を中心とする世界はとても広がりがあって、こちらとしても、いつもわくわくどきどきさせて頂いています。
そんな素敵な世界を、ひとりの不思議な少女と絡めて書き上げてみましたが、如何でしたでしょうか。
すこしでもお楽しみ頂ければ、至上の喜びでございます。

では、短いですが失礼いたします。ご発注、有難うございました。
再会の願いを、夜闇に咲くしろい花に込めて。

    青水リョウ