<東京怪談ノベル(シングル)>


過ぎた力
「〜ふふん、ふふん、ふんふん♪」
 久方ぶりの青空の元、刺繍入りの可愛らしいエプロンから身体をはみ出させながら、上機嫌で鼻歌を歌っている男がいる。
 刺繍は自前、そこにはありとあらゆるナマモノの絵が妙にリアルな筆致で描かれていた。勿論、この男――オーマ・シュヴァルツが夜なべしてまで縫い上げた一品であり、お気に入りのひとつである。
 …それにしても何着エプロンを持っているのかこの男は。
「いいねえ、この調子なら夕方までには布団もふっかふかだ」
 裏庭にあたるここに、ずらりと並べられた物干しロープに重量ギリギリまで乗せられた洗濯物が、あまりそよがない風に微かにその身を震わせていた。
「ううっし、この辺かね。さあてそれじゃあ、次――っと、コイツは日陰の方がいいな」
 何せ家族が多いからなぁ、とところ狭しと並べられた洗濯物の数々にどこか満足げに呟きつつ、日中は影の降りる場所にロープを引いて、ヴァレルをひとつひとつ丁寧に干して行く。
 金具は全て取り外し、手洗い揉み洗いつけおき洗い、とそれぞれの素材に応じて洗い上げ、ついでにと金属部分もぴかぴかに磨き上げたそれらは、オーマたちヴァンサーにとって非常に大切な品で。
 だからだろうか、オーマは毎回これらを洗う度に数度の戦闘をこなした時以上の疲れを感じるのだ。
「〜〜♪――、っとっと」
 不意に口を付いて出たいくつかの言葉の羅列、それに気付いて慌てて口を手で押さえる。それからオーマらしからぬ事に、手を口に置いたままぐるぐると周囲を見渡し…塀の外の気配さえも辿り、そうしてようやく誰もいない事を確認するとふうっと息を付いた。
「やれやれだ。あんまり気分良いもんだからつい口にしちまった。気が抜けてるなこりゃ」
 後で気合入れなおさないとなぁ、そんな事を呟きつつ、家事の続きを開始した。

 ――尤も。

 他の者に聞こえていたところで、何の意味もなさないものなのだが。
 それでも、私的な事柄であったし、何よりもその言葉は自分のこころに直結しているものだったから、言うなれば服を着るのを忘れて下着姿で外に出てしまいました――という心境に近かったかもしれない。
 実際にやってしまった事が無い訳ではないのが、オーマらしいといえばオーマらしいのだが…。

*****

 オーマたち、ヴァンサーには身に付ける事を強制付けられているものがふたつあった。
 1つは今も身に付ける衣服の『ヴァレル』。これは以前の世界よりも、具現を行使する際の危険性によるもので、具現の代償――あるいは、暴走を抑えるためのもの。
 そしてもう1つが、ヴァンサーそれぞれのこころに刻まれる『ヴァラフィス』である。
 ちなみにタトゥはどうかといえば、これはヴァレルと対になっているため、数の内には入れていない。

 『ヴァラフィス』は、物質では無い。
 音に具現の力を乗せて運ぶ、所謂言霊に非常に近いものだ。
 それは、能力者以外には無意味な音の羅列にしか聞こえない言葉で、具現をコントロールする際に時として必要になるものだった。
 言うなれば。
 ヴァレルは『鎧』にあたり、ヴァラフィスは『枷』にあたるだろうか。
 具現の反発や代償からある程度自らを守るためのヴァレルに対し、具現の反発力を逆に高めたり、制限を一時的に消失させて分不相応な具現を有する事に使用したものだ。
 勿論、これはヴァレルを外す時よりもずっと危険性は高い。
 それは、ヴァラフィスを使うに当たっての力の源が、別にあったからで――。
「………」
 ――思い出す。
 不思議なほど『具現』と言う異端能力を自在に扱える自分と違って、一般人でさえどうにか相手出来る程度のウォズの対処にまで苦慮していた若手のヴァンサーたちが、苦渋の策として良くヴァラフィスの世話になっていた事を。
 それは気分の良いものだっただろう。普段は使いこなせないような力を使い、無事に封印まで済ませた者たちは皆高揚した表情でソサエティに戻って来ていたのだから。
 本来の自分の能力とのギャップに苦しむのは数度まで。
 …そこからは、余程の自制心が無い限りは、出動する時点からヴァラフィスを使い始める。
 それが――オーマたちのいた世界に落ちていた澱、淀み混じり変容した想いの欠片、次第に侵食を広げていく具現の力の源だと、誰が知っていただろうか。
 自分の力では無いそれら『侵食具現』の力を使う事に抵抗の無くなった彼らに、ある日、否応なしにその対価を払う日がやって来た。
 それは、
 ヴァンサーとしての能力そのものの消失。
 ヴァレルを外しても、ヴァラフィスの言葉を幾ら唱えても、その手に具現の力が現れる事は無い。
 何故なら、そう。
 『ヴァラフィス』を行使することの代償は、自らの具現能力そのものなのだから。
 そしてそれを知らず、有限と思わず使い続けていくヴァンサーの具現能力は、世界を侵食し続ける具現の一部となり、取り込まれていく。
 自らの行動が、世界を侵食させる原因のひとつだと――能力が使えなくなり呆然としている彼らはそう告げられ、そして、ソサエティからも消失して行った。
 これはあくまで噂、だが。
 そうして消えて行ったヴァンサーの1人を、見た者が居ると言う。

 ――呪われし地、地上で。

 尤もその情報を伝えた者もはっきりと確認した訳ではない。
 ほんの一瞬の出来事だったからだ。
 そしてその頃には、下界に降りる事さえ困難になっていたため、あやふやな証言を元に確かめに行く猛者は存在しなかった。…いや、
「そういや申請しに行ったんだったな」
 ぽりぽりと頬を掻きつつそんな事を呟くオーマ。
 結果は案の定、
「却下」
 ソサエティの長――その頃はまだ荘厳な雰囲気を持った年期の入った老人だった人物により、言われたものだった。

*****

 いつの間にか太陽が移動していた。
「おう、もうこんな時間か」
 洗濯物の乾き具合を確認しながら、ぱむぱむと布団を叩く。
「今日は暑いからなぁ…ようし、冷製パスタと行こうか。トマトに、バジルに…と」
 後は冷たいスープでも添えて。
 うきうきるんるんとメニューを組み立てながら、すっかり主夫しているオーマがぱたぱたと足取り軽く家の中に入って行く。
 ――ヴァラフィスは。
 今はもう、オーマたちには使えない。
 その理由は単純だ。あれは侵食具現の力を呼び出して使うもの。つまり、ソーン世界には元々具現となりうる要素が無い為、呼び出す事も行使する事も不可能になったのだ。
 その代わり、具現が崩壊を引き起こしやすくなったためにヴァレルの重要性は前の世界の比では無くなってしまった。
 尤も、それを苦にするようなオーマでは無い。
 彼の目下の関心ごとは、今この時。昼食用に作る食事の味と、家族からの絶賛の嵐――これに関してはオーマの脳内妄想とだけ言っておこう――だけだったのだから。


-END-