<東京怪談ノベル(シングル)>


墜ちてきた天使―The Advent―

 聖都エルザードの東に位置する天使の森。それが大いなる者の庇護を思わせるためだろうか、豊かな緑と清冽な水、そして穏やかな風に育まれたこの森には、聖獣エンジェルが降臨したという言い伝えがある。
 が、今ここで繰り広げられている光景は、おおよそそのような言い伝えからはほど遠い、剣呑なものであった。
 1人の女性が息を切らして、木々の合間を縫うように走る。元々は可憐であろうその顔立ちは、今は怯えと焦りにこわばっており、見るからに上質であるとわかるその純白の衣装も、ところどころ汚れ、あるいは擦り切れている。
 その女性を追って、有翼人たちが宙を滑るように飛んで行く。その手に槍やら弓やらを構えた彼らは、一様に爛々と瞳を輝かせ、邪悪な笑みを顔に浮かべていた。
 女性は、何とか捕まるまいと、木々の茂った方へ逃げ、あるいは急に方向を変える。しかし、追っ手の数は見る間に増え、彼女の逃げ道はどんどん塞がれていく。
「あらら……。取り込み中みたいですのね……」
 突如目の前に現れた光景に、セヴリーヌは小さく呟いて目を細めた。その横を、追っ手の有翼人がまた1人、猛スピードで過ぎて行く。
 どうやら異世界イングガルドからソーンに降り立った途端、重大な局面に出くわしてしまったらしい。
 追われている女性は、聖獣王エルザードの娘、王女エルファリア。そして追っているのはエルザードと敵対するアセシナート公国の有翼小隊。ここで王女が有翼人たちに捕まるようなことがあれば、戦局は一気にアセシナートに傾くことだろう。最悪の場合、聖都の陥落といった事態にさえ及びかねない。
 有翼人の1人が威嚇するように放った矢が、王女の脚をかすめ、その衣服を地面に縫い止める。もんどりうって倒れた王女は、それでも迷うことなく衣の裾を引きちぎると、すぐに起き上がって再び走り始めた。
 けれど、いかんせん多勢に無勢だ。とても逃げ切れるものではあるまい。捕まるのは時間の問題と言えた。
 このまま見過ごすか、王女を助けるか。
 セヴリーヌは軽く首を傾げた。
 イングガルド女王の命を帯びた自分がこの地に降り立ったのは、世界を混乱に巻き込むオペレーション・ケイオスを遂行するため。アセシナートには混沌を招く力があるという点では、その勢力が拡大するのは目的に叶っているのかもしれない。
 けれど、同時に国内事情や統率手段に問題があるという情報もセヴリーヌの耳に入っていた。やはり、エルザードがアセシナートの手に落ちるという事態は望ましいとは言えないだろう。
 自分のとるべき行動を定め、セヴリーヌは深紅の翼をゆっくりと広げた。

 捕り物劇は、今や終幕を迎えようとしていた。有翼人に囲まれた王女には、もはや逃げ場は残されていなかった。努めて平静を保とうとしているようなその顔にも、隠しきれない絶望の色が滲む。
 一方、有翼人たちはそれを楽しむかのように残忍な笑みを浮かべ、徐々に王女を囲む輪を狭めていく。そして、一斉に獲物へと襲いかかるそぶりを見せたその時だった。
 一陣の風と共に、セヴリーヌは有翼人たちの間に舞い降りた。と、同時に王女はその姿を消す。もちろん、セヴリーヌが物質転送の能力で安全な場所に避難させたのだ。
 突然現れた闖入者の姿に、一瞬呆然とした表情を浮かべた有翼人たちも、すぐに自分たちが獲物を、それもこれ以上ない大物を寸前のところで奪われたことに気付いたらしい。
「何のつもりだ、貴様!」
 セヴリーヌへの怒りと敵意もあらわに吠えたのは、この小隊の隊長だろうか。他の有翼人に比べて体格も一回り大きく、手にした槍にも立派な飾りがついている。他の有翼人たちも、隊長の言葉に呼応するように己の武器を握り直した。
「そんな危ない玩具は……必要ありませんわ」
 セヴリーヌは穏やかな笑みを有翼人たちへと向けた。その次の瞬間には、有翼人たちの手から武器が消え、セヴリーヌの足下に転がっていた。声を発する間もなくそれらは、突如地面にぽっかりと開いた穴へと呑み込まれ、その穴ともども、跡形もなく姿を消してしまった。
 実力の差は圧倒的だった。物質招集から『ディメンション・シール』へと。流れるように放たれたセヴリーヌの技を、それと認識しえた有翼人がいただろうか。
「お引き取りなさいませ」
 セヴリーヌは、笑みをさらに優しげなものへと変えて、再び口を開く。
「今お引き取りになれば、命までとるようなことは致しませんわ」
「戯言を!」
 が、隊長はその言葉を聞き入れるどころか、さらに激昂した。
「調子に乗るな! 我らアセシナート有翼小隊を侮ったこと、後悔するがいい!」
 その言葉と共に放たれたいくつもの真空の刃が、セヴリーヌを切り裂かんと猛烈な勢いで襲いかかる。
 セヴリーヌは全く動かず、青い目をほんのわずかに細めただけだった。隊長の放った風魔法は、セヴリーヌの身体に触れる直前にことごとく見えないバリアに弾かれ、金色の髪の一本さえ揺らすことなく消え失せた。
「おわかり頂けなくて残念ですこと……」
 セヴリーヌは小さく溜息をついた。そのまま流れるような動作で自らの武器、女王より賜ったヴィエルジュを取り出して投げ放つ。チャクラムと呼ばれるリング状のそれは、光をまとい、しなやかな軌道を描いてまっすぐに相手へと向かって行った。
 未だ信じられない、といわんばかりに顔に驚愕を貼り付けていた隊長は、慌てて自慢の翼を広げ、それを避ける。が、一度はその脇を通り過ぎたヴィエルジュは、あたかも自ら意志を持っているかのようにその軌道を変え、獲物を追う。次は避けきれないと判断したか、とっさに両腕で身体をかばった隊長だったが、それも全くの無駄に終わった。
 ヴィエルジュが命中したその瞬間、ぱぁん、と高い音を立てて隊長の身体は弾け、きらきらと光る粉となって散ってしまった。
 それを目の当たりにした部下たちは、一瞬呆然とし、次に恐怖をその顔に浮かべ、一斉にセヴリーヌに向かって風魔法を放ってきた。が、隊長を失い、そしてこの恐るべき武器への恐怖にかられた彼らに、もはや本来の統率性など残ってはいない。
 セヴリーヌは表情一つ変えることなく、そのことごとくをバリアで弾きながら、もう片方のヴィエルジュも投げ放つ。
 輝く2つの光の輪は、宙を滑るように舞い、確実に敵をしとめていく。それはあたかも、急流を自在に泳ぐ魚のようであった。対する有翼人たちは、その水面に弄ばれる泡沫のように、なすすべもなく乱され、そして金色の粉へと弾けていく。
「うわああああっ」
 2人の有翼人が叫び声をあげ、ヴィエルジュから逃れるように直接セヴリーヌのもとへと突っ込んでくる。それは一か八かの賭けに出た、というよりは、恐怖にかられて自暴自棄になったというような行動だった。
「あらあら」
 セヴリーヌは軽く小首を傾げる。その手には既に、物質招集によってヴィエルジュが戻っていた。
 1回、2回。静かな微笑みをたたえたまま、あたかも舞いでも舞うかのような優雅な動きでセヴリーヌはそれを振るう。
 光の粉が2回弾けた後、そこに立っているのは、深紅の翼持つ天使ただ1人だった。
「ふぅ」
 セヴリーヌは小さく息をつく。その顔にはかすり傷はおろか、汗の1つも浮いていなかった。

「……聖獣エンジェル様!?」
 突如目の前に現れた光に、眩しげに手のひらを目の上にかざしながら、王女エルファリアは半ば呆然と呟いた。賢者の聖衣をまとい、深紅の翼を背負ったセヴリーヌがまばゆい光に包まれて現れる様は、いたく彼女の心に響いたらしい。
「聖獣様が私を……。やっぱり、言い伝えは本当だったのですね……」
 そう続けた声は、喜びに打ち震えていた。驚愕、畏敬、憧憬、崇拝、そして歓喜。まばたきを忘れたかのような王女の眼差しに含まれた色は、故郷で『紅い月の天使』と呼ばれたセヴリーヌには見慣れたものだった。
「いえ……、私は決してそのようなものでは……」
 セヴリーヌは戸惑いの表情を形作ると、軽く目を伏せた。
「そうですか……。それは失礼致しました。……ところで、あなたはどちらからいらしたのですか?」
 その言葉にほんのわずかの落胆を滲ませながらも、王女はすぐに品の良い笑みを浮かべた。
「私は……」
 言ってセヴリーヌは言葉を切った。そのまま小さく息を呑み、軽く眉を歪める。
「どうなさいました?」
 王女の顔にたちまち心配の色が浮かぶ。
「わからないのです……。……セヴリーヌ……という名前しか覚えていないのですわ……。光に包まれて、気がついたらここに……」
 セヴリーヌは細い声でそう続けると、俯いて軽く首を振った。
「まあ……」
『純白の姫』の呼び名そのままに、エルファリアは一点の疑心を抱くこともなく、セヴリーヌの言葉を信じたようだった。
「それはお困りでしょう。もしあてがないのでしたら、私と一緒に参りませんか? 当面のお住まいとお仕事くらいはご用意できますわ。……申し遅れましたが私、エルザードの王女、エルファリアと申します」
「王女様……」
 セヴリーヌはその声色に驚愕を混ぜて、小さく呟いた。
「でも……。よろしいのですか?」
 そして、今度は不安の色を、ほんのわずか。
「ええ」
 王女は、セヴリーヌを安心させようというかのように、優しげな笑みで大きく頷いた。
「ここであなたとお会いしたのも、きっと聖獣エンジェル様のお導きですもの」
 自らが呼び込もうとしている存在がいかなるものかも知らず、屈託なくそう続ける。
「……助かりますわ。よろしければ、ぜひ」
 異世界より舞い降りし紅い月の天使は、密やかに唇の端を小さくつり上げた。

<了>