<東京怪談ノベル(シングル)>





「たまにゃ、洗うか……?」
 院長は唇を尖らせて、一張羅のヴァレルをしげしげと見つめた。
 不可思議な虹色の光沢を放つ、それは不安の象徴。拘束服であり、オーマ・シュヴァルツに架せられた制約である。
戦闘服ヴァレル。
 それは、不安と安堵をひとびとに同時に抱かせる、矛盾の長物であった。オーマをはじめとするヴァンサーが、その恐るべき力を抑制するために着込む戦闘服だ。ことに聖獣界ソーンにおいては、必要不可欠な存在だった。異世界より流れ着いたオーマは、この世界にとっての『異』なのである。『異』が振るう力もまた、『異』であった。ソーンはヴァンサーが持つ具現の力を嫌っているのだろうか、――不用意に力を解放すると、きまってオーマの周囲はいろいろな意味での阿鼻叫喚をみるのである。
 オーマはソーンに居つくようになってから、寝ても覚めても、平時も緊急時も、ずっとヴァレルを身につけていた。
 ヴァレルは単なる布で出来ているわけではない。汗や血を吸って悪臭を放つこともない。オーマが永遠のものであるように、ヴァレルもまた不滅だ。オーマが世界とともに滅びるまで、ヴァレルはそこに在り続ける。
 とどのつまり洗う必要はないのだが、オーマは夏の暑さをしのごうと水浴びをし、「そういえば一度も洗ったことがない」と気づいたヴァレルを手に取って、しばらく無言だった。自宅からもエルザードからも少々離れたこの森で、水浴びをしていたのはオーマただひとり。彼ご自慢の肉体美を見る者もない。
「洗ってみるか……」
 あくまで、気分の問題だ。念のためすんすんと匂いを嗅いでみたが、悪臭どころか、完全に無臭だった。
 マッチョたるもの、「マッチョ=汗臭い」というイメージ及び定石を覆すためには努力を惜しんではならない。半ば義務とはいえ、ただでさえいつでも同じ格好なのだから、ときには「今日コレ洗ってきたんだぜ」と堂々と報せるのも必要だろう。たぶん。

 虹色の光沢を放つ不可思議な存在を、オーマは泉の水に浸した。ぶくぶくと水から生まれるあぶくまでもが、オーマの恐るべき力をそなえているかのように、虹色ときらめきをまとっている。

 とても大切なひとが、そのヴァレルを紡いだ。
 オーマが忘れてはならない、ヴァレルを紡ぐ者が――。


『その衣、その文身。おまえは、ヴァンサーか』
 その声が降ってきたときにはすでに、オーマは顔を上げていた。空をかち割るようにして現れたのは、オーマたちヴァンサーが封じるべき存在だ。
 ヴァンサーが方々の次元や世界に散り散りになっているように、『同にして異』なる存在、ウォズもまたあらゆる世界に現れる。パワーバランスが著しく不安定な聖獣界ソーンとて、例外ではない。
 オーマはその赤い瞳にするどい光をたたえて、獣頭を持ったウォズを見上げていた。
『おまえもまた、儂を封じんとするのだろう。ふん。ヴァンサーの一辺倒には、最早飽きた』
「は。じゃア、なんだ。殺されてェのか?」
『それが叶うのならば、或いは』
「なんだ、わかってンじゃねェか。……だったら、あきらめな。俺はおまえらに限らんで、『不殺』主義なんでね」
『甘い』
「悪かったな」
『だが、それも良かろう。理由と意志がはたらいているのならば』
 獣の顔であるにも関わらず、ウォズは笑う。青黒い毛が揃った顎の中で、ナイフじみた牙が光っていた。その牙や金の瞳、青黒い毛までもが、恐らくは彼の『想い』のかたちそのものなのであろう。禁忌とされる具現の力を、こうも容易く、罪悪感も抱かずに解放している。
 となれば、危険な存在だろう。
 ヴァンサーとしてだけではなく、ひとりの男としても、このウォズを野放しにしておくことは出来そうにない。
 しかし――
『衣をまとっておらんな。良いのか』
「あんまり良くねェな」
『そうか、なればこそ、好機』
 くあ、と獣が深遠へつづくあぎとを広げた。ナイフの牙は光り、虹色のきらめきを放っている。
『同胞の無念、哀しみ、怒りを知れ。粗忽なるヴァンサーよ』


 具現の力を、ことにここソーンでは、ヴァレルなしで開放してはならない。
 何が起きるか、わからない。
 己の四肢が千切れ飛び、煉獄も青褪める苦痛が襲ってくるとしても、その対象が『己』だけであるならばまだましだ。定義と秩序の概念が崩され、世界が消滅するような事態になれば、それこそオーマは8000年以上頭を冷やさなくてはならない。
「おい、ちょっと待てよ」
 オーマは眉をひそめたが、すこしも動じず、一歩も後には退かなかった。
「ウサ晴らしすんなら、相手選んだほうがいいかもだぞ」


 ごぉ、う、


『!!』

 オーマは、なにもしていない。
 ただ、渦巻く『想い』の力が、奇蹟じみた幻想――或いは悪夢を、ウォズとオーマの両名に見せたのだろう。
 半裸の黒髪赤目のオーマがそのとき背負ったのは、銀髪赤目のオーマの姿であり、<銀の獅子>であった。断末魔にも似た驚きの声を上げて、泉の周りにいた鳥獣たちが逃げていく。それがあまりの勢いであったから、泉を中心にして風が吹いたかのようだった。
 鳥獣たちもまた、見たのだろうか。
 オーマの背後に現れし銀の獅子を。
 その真なる姿は、ともすれば、ヴァレルがそっと包み隠していたのだろうか。雄々しい銀の獅子には翼が生えていた。そして獅子は、山の如くに大きかった。獅子は身じろぎもせず、吼えもせず、ウォズを見下ろしている。
 山ごときではない。まるで、神の如く。
『それが、おまえの真なる姿か』
「……何を見てる?」
『おまえを』
「……何が見えてるんだ?」
『まさしく、おまえだ』

『おまえがオーマ・シュヴァルツか。【WOZ】に魅入られしものめ。咎とともに生きつづけるがよい。【WOZ】に呪われしものめ』

 ぐわっ、と風が渦巻くと、獣頭のウォズの背に翼が現れていた。それもまた、ウォズの想いが具現化したものにはちがいない。彼は願い、強く想ったのだ――ここから、オーマ・シュヴァルツから、逃げ出したいと。
 風が起こると同時に、オーマはただひとつとなり、泉のそばに立っているだけになっていた。しかしウォズはオーマに牙を剥くこともなく、ぼろのマントじみた翼をはばたくと、空に飛び上がった。
「おい、だから、ちょっと待てよ!」
 オーマは子供が見たら恐怖のあまり泣き出しそうな表情で、上空のウォズにかみついた。
「俺はおまえらと同類なんだ。同じものとケンカすんのって空しいだろうが! 俺ァな、これでも、おまえらと一緒に――」
『笑止!』
 獣は吼えた。
『己が姿を鏡に映し、目の当たりにした上でほざくがよい。オーマ・シュヴァルツ! 我らは貴様を憎む。【WOZ】の一片とともに滅びよ。貴様が滅びるその日まで、我らウォズは貴様を呪い続けてくれる!』
 聖獣界の空が歪み、悲鳴を上げた。
 獣の翼が空の傷口ににじんで溶けていく。
 オーマはその光景をただ見上げ、眉をひそめるだけだった。

「――嫌われたもんだ。随分だな。傷つく言い方だぜ。そう思わねェか?」
 なぜか水中のヴァレルに語りかけつつ、オーマは屈みこんだ。泉は静けさを取り戻している。鏡のような水面に、オーマの顔と、胸のタトゥーが映りこんだ。
「あいつは……『俺』を見たんだな……」
 ――俺は、一体どのくらい、自分を知ってるって言うんだ。
 ――きっと俺は、なんにも知らねェ。
 ――きっとそれが、いちばん幸せなんだろうけどよ。
 オーマは水の中から、ヴァレルを引き出した。
 ソーンの清らかな水を浴びたヴァレルの輝きは、いつも以上に強いものになっていた。
「ん! 洗って正解!」
 水を吸うこともないヴァンサーの衣は、しかし、ひんやりとした清涼感をたたえ、オーマの肌に吸い付いたのである。




<了>