<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


涙から生まれた天使

 白山羊亭の二階は小さな宿屋になっている。階段を上ると左手に扉が四つ並んでおり、それぞれにベッドが二台ずつと衣装ダンスが一棹。テーブルの上には季節の花が生けられている。こまめな掃除が行き届いた、小さいが過ごしやすい部屋ばかりだった。
アルミア・エルミナールとエルシア・エルミナールの姉妹はとりあえず三日の予定で宿をとった。アルミアが宿帳に記入している間に、エルシアはウェイトレスのルディア・カナーズを呼び止める。
「申し訳ありませんが、温かいミルクをお願いできますか?」
「はい、かしこまりましたですよ。ミルクはお部屋にお持ちいたしますです」
「ありがとうございます」
「行くぞ」
宿帳をぱたりと閉じたアルミアは言葉少なく妹を呼んだ。
「はい、姉様」
後ろを振り返りもせず、階段を上っていく姉をエルシアは追いかける。二人の後姿を見送ったのはルディア一人だけ。長いお下げの片方を指でいじりながら
「・・・・・・はて。アルミアさん、なに持ってたですかね?」
アルミアの腕に抱えられていた大きな布の固まりがひっかかる。なんとなく動いていたような気もするのだが、一体なんなのだろうかと首を傾げた。
 姉妹が泊まることになった部屋は階段から一番離れた角部屋であった。二階へ上がった途端に、アルミアの歩調がぐっと早くなったのをエルシアは感じた。わき目もふらず、という勢いで歩き、鍵を回すのももどかしく部屋の扉を開ける。エルシアが部屋に入ったときには、アルミアは抱えていた布の固まりを左のベッドに置いて、右のベッドにぐったりと腰を下ろしていた。
「姉様、大丈夫ですか?」
「ああ」
気丈なアルミアは頷いてみせる、しかし顔色は優れない。体調が悪いのではなく、過剰に緊張していたせいだった。
 アルミアの緊張が伝染したように、布の中身がふにゃあと泣いた。姉妹は新たな緊張に、身を竦ませた。

 温めたミルクをトレイに載せ、階段を上ってきたルディアが聞いたのは、赤ん坊の泣き声だった。ガラスをひっかくような声と、自分の持っているミルクとが、ルディアの頭の中で
「ああなるほど」
と、音を立ててつながる。
「失礼しますです」
ノックもそこそこに扉を開くと、左のベッドで大きな布に溺れそうになりながら顔を真っ赤にしてもがき泣き喚いている赤ん坊と、反対側のベッドでぐったりと頭を抱えるアルミア、そしてなんとかなだめようとしてはいるもののどうしていいかわからず戸惑っているエルシアとが同時に視界に飛び込んできた。
「どうしたのですか、その赤ちゃん」
お腹空かせてるですよとエルシアにミルクを渡しながらルディアは訊ねる。
「捨てられていたのだ。目が合ってしまったのだから、見捨てるわけにはいかぬだろう」
答えたのはアルミア。エルシアは危なっかしい手つきで赤ん坊にミルクを飲ませるので精一杯だった。
「ルディア、誰か育ててくれる者を知らんか」
「そうですねえ・・・・・・とりあえず白山羊亭の掲示板に募集広告を出してみましょうか」
「あそこにですか」
エルシアが仕方ないというため息をつく。竜退治だの隣町までの護衛だのを募集している物騒な掲示板の中に「里親募集」を貼って、一体誰が見てくれるのだろうと言わんばかりの口調であった。しかしルディアは口を尖らせて反論する。
「あそこはいつだっていろんな広告を載せてるですよ。冒険者さんたちはいつだって、自分に必要な情報しか見てないだけなのです」
大声を上げたせいで、また赤ん坊が顔を歪めた。が、泣き出す前にミルクを口に含ませたので、どうにか半べそで機嫌をなおしたようだった。
「・・・・・・わかった。ルディア、頼む」
「はいです」
ぺこりと一つ頭を下げてから、跳ねるように部屋を出て行くルディア。オレンジ色の髪の毛のせいかウサギを連想させる。普段は子供っぽい、と感じているあの少女でも会話が成立する分、アルミアをほっとさせた。

 満足するまでミルクを飲んだ赤ん坊は、とび色の目をキョロキョロと動かしながらベッドの上を這いまわり始めた。落ちると危ないので、エルミナがぐにゃぐにゃした体を抱き上げ床の上に降ろす。ゆっくりと動き回る小さな生き物を、二人の目が追いかける。
 愛情で、赤ん坊を追っているだけではなかった。少しでも目を離すと赤ん坊がなにをしでかすかわからない、どうなるかわからないという不安から逸らせなかった。そんなに不安なら始終抱いていればいいのだが、そこまでは二人とも慣れていない。
やがて、床を這いまわっていた赤ん坊がアルミアの足元で止まった。
「姉様」
「う、うむ」
もみじのような手が、アルミアに向かって懸命に伸ばされていた。エルミナに促され、アルミアはおずおずと人さし指を差し出す。柔らかく暖かな指が、想像していたよりも強く握りしめてきた。
「・・・・・・」
アルミアの指を握ると、安心したのか赤ん坊の目がとろんとしてきた。もう片方の手を口元へ運び、自分の指を吸いながら赤ん坊は目を閉じる。まるで幕を下ろすように、すやすやと眠り込んでしまった。
「ベッドへ運びましょうか」
小声でエルシアが訊ねた。しかしアルミアは身を屈めたまま、赤ん坊に指を握られたまま
「いや、いい」
普段には珍しい穏やかな眼差しで答え、それから逆に訊ね返した。
「・・・・・・エルシア」
「はい?」
「私たちもこうだったと言うなら、お前は笑うだろうか?」
姉の言葉にエルシアは思わず赤ん坊を見た。無心に指を吸いながら眠る、赤い頬をした赤ん坊。泣くときは火がついたようになる赤ん坊。言葉で言い含めようとしても、決して聞かない赤ん坊。それでも、微笑むと天使のような赤ん坊。
「・・・・・・いいえ」
ゆっくりと間を置いて、エルシアは首を振った。
 エルシアは覚えているだろうか。自分たちがかつて存在した、今はもうない世界に伝わるおとぎ話を。その中で人間たちは、神の流した涙から生まれたことになっていた。それは果たして嬉し涙なのか、悔し涙なのか。
 以前、自分がいつ泣いたかさえ覚えていないアルミアはただただ黙って、涙の跡が残る赤ん坊の顔を見つめていた。

 二日後、赤ん坊の里親は無事に見つかった。両親になる夫婦は偶然にも赤ん坊と同じとび色の目をしていた。
「ずっと赤ん坊が欲しいと思っていたんです」
と言った、アルミアとそう年の変わらない女性はためらいもなく赤ん坊を抱き上げた。それを見た姉妹は、彼らなら大丈夫だと感じた。ただ、赤ん坊は突然見知らぬ人に抱き上げられ、戸惑ったように二人のほうへ視線を投げていた。
 赤ん坊の瞳に二人は、かつての自分を見た。といっても、生まれた頃の光景を覚えているわけではなく、かつてあった世界から今この場所へ弾き飛ばされたときの、あの自分を思い出していたのだ。
 なにもわからないまま、ただ放り出されるという恐怖。自分の目に飛び込んでくる新たな世界は果たして、愛するに値するものなのかどうか。あの頃の自分は、この言葉が欲しかった。
「恐くはないぞ」
一声、かけてもらうだけでいいのだ。それだけで赤ん坊は、天使のように笑うのだから。さらに赤ん坊は、エルシアからピンク色の飴玉を貰い、それこそ頬がとろけてしまいそうになっていた。
「どうです、掲示板も役に立つものでしょう」
赤ん坊と別れて白山羊亭に入ると、待ち受けていたルディアが誇るように、またウサギのように跳ねた。
「ああ」
アルミアは頷くと、階段のすぐ手前にある掲示板に目をやった。
縦一メートル、横二メートルほどもある黒ずんだコルク板の上に、これでもかとばかり依頼が貼りつけられている。目に飛び込んでくるものは冒険者専門のものばかりだったが、敢えて視線を逸らすと確かに些細な情報も並んでいた。
「仔猫が迷子になりました。誰か、探してください」
「今度うちの子供が王立学園へ入学することになりました。どなたか制服をお持ちの方は譲っていただけませんか」
「エルファリア様の別荘で、行方不明の本があります。返却を忘れている場合は至急図書館まで」
この世界は冒険者のためだけにあるのではないのだ、とアルミアは思った。普段なら見過ごしている、こんな小さな紙の上でも、涙から生まれた人間たちは懸命に暮らしていた。
 アルミアは目を閉じて、赤ん坊の手の暖かさを思い出していた。