<東京怪談ノベル(シングル)>


狗が嗤う

 ふと仰ぎ見たそこは透き通るような緑の向こうに白い雲が長閑によぎる青空が覗く平穏そのものの風景だった。響く音は小鳥の囀りとささやかに吹き抜ける風が枝を揺らし奏でる葉ずれといったような自然が生み出すものばかり。人の声はおろか、動物たちさえも叫び声をあげることはないありのままの自然が紡ぎ出す穏やかな時間が流れている。
 明らかに臣の周辺にあった事象が変化していた。一刹那の間にまるでスイッチが切り替わる俊敏さで変化した。しかしそうした事実を簡単に受け止められるのかといったらそうではない。変わったのは明らかに周囲の事象だけで、臣自身には何一つとして変化は見られなかった。何故自分がこのような所にいるのかも判然とせず、何をきっかけにこのようなところに放り出されているのかもわからない。ほんの数秒前に一体何が起こったというのかさえもわからないまま、どこなのかも判然としない場所に立ち尽くして臣は一つ舌打ちをした。
 変わったのは周囲だけだ。それだけはわかる。手には血に濡れた剣が握られ、傷つけられた額から溢れる鮮血もそのままだ。しかしどんなに目を凝らして周囲を見回してみても、それまでそこかしこに転がっていた傷つき倒れた仲間の姿はおろか、臣が今まさに剣を振りかざそうとしていた相手さえもいない。
 一体ここはどこだというのか。
 当然のように素直な疑問を脳裏に描いて、臣は自らに残る記憶を手繰り寄せて、思案する。
 ここへ放り出される以前は、どこへ浮かんでいるとも明確にはされないイヌ族の島にいた。イヌ族が面白可笑しく暮らす、争い事とは無縁のいたって平和な小さな島だった。そこにシシ族が攻め入ってきたのは一体どうしてだったかと今更考えたところでわからないことだ。
 ある日突然、そんな言葉が最も相応しい唐突さでシシ族は攻め込んできた。面白可笑しく、ただ平穏に過ごしていたイヌ族が武力で勝てるわけはない。攻め入られて数日のうちに島は瞬く間にほぼ壊滅状態に陥った。しかしだからといってイヌ族の皆が素直に島を明け渡したのかといったらそうではない。容赦なく年寄りが斬り殺され、無力な女子供が捕虜になる姿を前に黙って引き下がることなどできるわけがなかった。若イヌたちを中心にシシ族の侵略に抵抗し続けて、そのなかで多くの若イヌたちが倒れていく様を見てきた。臣は武器を手にシシ族に切り込んでいく若イヌのなかにいた。多くの仲間が倒れ、だんだんと追い詰められていることを自覚しながらも、決して後退することなく前に突き進もうとしていた。
 最後の記憶はもう数えるほどになっていた仲間たちと共に島の先端、崖の間際に追い詰められたところで途切れている。諦めることなく前に突き進もうと躍起になって、斬りかかってきたシシ族に対して剣を振り上げようとした刹那で戦闘の記憶は途切れていた。続く記憶は唐突すぎるほどの平穏な風景、今立つこの場の記憶である。何故このようなところにいるのかなどわかるわけがない。移動した記憶もなければ、きっかけさえもわからなかった。傷の痛みは本当だというのに、目の前にある風景を現実として受け止めることはできない。
 何がどうしてこうなったのかとどんなに思考を巡らせても触れられる答えはない。教えてもらうにも周囲には声は聞こえども鳥一羽の姿もない。イヌ族の生き残りをかけて死闘を繰り広げていたというのに、何故自分ばかりが平穏そのものと呼ぶに相応しい森のど真ん中に放り出されているのか。臣には皆目見当もつかなかった。つくわけがない。一体ここがどこで、いつなのかもわからないのだ。見当をつけろというほうが無理な話だ。
 溜息一つ零して見上げた空。不意に視界を白い影が過った。臣はそれを鳥だと認識するよりも早く言葉を紡ぐ。
「おいっ!ここはどこなんだ!」
 広すぎる森のなかに臣の声が拡散する。僅かな間をおいて、鳥はここはソーンだと答え、それ以上の会話は望まないのだとでもいうように遠くへ飛び去っていった。場所がわかったところで何一つとして変わらない。それがわかる。ソーンなどという場所を臣は知らない。聞いたこともなかった。
「ねぇ、どこから来たの?」
 不意に背後から声が響いて臣ははっと振り返る。そこには今しがた飛び去ったと思われた鳥が枝にとまって臣を見下ろしていた。
「イヌ族の島。知らねぇか?どっかの海に浮いてんだ」
 鳥は聞いたこともないという素っ気ない答えを返す。
「なぁ、帰らねぇなんねんだよ。仲間も可愛い白毛のあの娘も、皆、殺されるか捕まるかして、俺たちの島がライオン野郎に滅ぼされちまうかもしんねぇ」
 臣がどんなに切実に言葉を紡いでも小鳥は何も知らないの一点張りで、臣が苛立ちを爆発させようとした刹那それを察したかのようにして飛び立った。途方にくれた臣だけが森の真ん中に残されて、気付けばもう辺りには鳥の声は一つも聞こえなくなっていた。
 帰らなければならない。戻らなければならない。そんな焦りが胸の内で犇いているのを臣は自覚する。しかしそれと同時に戻ることができないのだという現実に安堵している自分がいることも自覚していた。死なずに済んだ。捕虜になることもなかった。目の前で倒れていった多くの仲間のように無様に死ぬことなく今この場、平穏すぎるこの場に立っていることができる。その現実が臣を安堵させる。たとえここがどこなのかもわからずとも、生きているというそれだけで、もう傷つけられることはない、殺されることはないというそれだけのことが臣に安堵を与える。
 焦りの裏側にあるそうしたことが臣が無意識下に押し込めていた真意を教える。死闘を繰り広げていたあの最中も自分はどこかで死を、傷つけられることを恐れていた。死にたくない、傷つけられたくない。そうした言葉を常にどこかに隠しながら剣を振るっていたのだ。
 だから今ひどく安堵している自分がいる。殺気立ち、いつ斬り殺されるかもわからない日々を怯えて過ごす必要はないのだということに安堵している。
 今、立つこの場所は平和そのものだ。争い事の気配など微塵も無い。手にしている剣のなんて滑稽なことだろうか。そんな風に思うほどに平和で長閑だ。帰りたいと思うのに帰ることが出来ない現実に安堵している。帰る術がないことに甘えようとしている。
 そんな自分に気付いて臣は思わず自嘲した。
 どうしようもねぇ。
 どうしようもねぇ意気地なしめ。
 それでも帰ることができない現実に安堵する自分が覆ることはなかった。