<東京怪談ノベル(シングル)>
『かけがえのない衣』
まばゆい桃色の石がところ狭しと敷き詰められている、とある方が所有権を誇示している温泉。
大きな立て看板には【許可なく入るべからず】という、持ち主の素敵な顔が浮かび上がってくるような迫力のある、だが、簡潔なひとことが書かれていた。
「一人でこの膨大な温泉を使うてぇのは、資源の無駄だからな。環境のためにも利用してやらねぇと」
ちゃっかりと桶とタオルを持参していたオーマは一通り周囲を見回した後、所有者が不在なことを確認すると、自分に言い聞かせるように都合の良い理由を作り上げ、極彩色の美しい輝きを放つ服を脱ぎ、勢い良く湯の中に飛びこんだ。
「あー極楽、極楽。日頃の過酷なもろもろから解き放たれる、至福のときだ」
しみじみと大きな独り言をつぶやき、淵に頭を預けると、揺れる木々の葉や溢れ出る湯の音に耳を傾けつつ、空を仰ぎながら、オーマは静かにまぶたを閉じた。
「にいちゃ……、はやく。そのひとおきちゃうよ!」
「しっ! お前は静かにしてろっ」
「はやくっ!!」
たどたどしい少年の言葉に続いてなにかが動く気配にようやく気づいたオーマは、ゆっくりと頭を上げると、声が聞こえてくる方向に目を向けた。
「わっ!! 気づきやがった!!」
「にいちゃっ!!」
浅い眠りではあったが、寝ぼけていたオーマは少年たちの行動に気づくまでに少しの間があった。
ずるずると重たいものを持つようにしながら、懸命に走り去ろうとする少年と、その後を追うさらに幼い少年。
兄らしき少年の腕の中には、先ほど濡れないようにと湯から離れた場所に置いておいたオーマの服がしっかりと抱えられている。
「お、おい! おまえら勝手になにを持ち出してんだ!」
ようやく異変に気づいたオーマは、湯から猛然と飛び出すと、タオルを引っつかんで少年たちの後を全速力で追いかけた。
「わーーっ、来たぞ! 早く来いっ!」
「きたーーっ」
慌てふためく兄をよそに、弟はきゃっきゃと笑い声を上げながらとことこと後を追って走っている。
しかし、大の大人の足に敵うはずもなく。
がっしりと背をつかまれた兄は、オーマによって軽々と宙に持ち上げられてしまった。
続いて転びそうになっている弟の背を掴みあげ、同じようにぶらりと持ち上げるオーマ。
「人のものを勝手に持っていくのは、泥棒だってお父さんに教えてもらわなかったか?」
「おじさんこんな綺麗な色の服着てるんだから、お金持ちだろっ! 一個ぐらいくれたっていーじゃんかっ!」
大きく暴れながら服を握り締めた少年は、オーマの筋肉質な腕に噛みついた。
「お金持ちとかそうじゃないとかじゃねぇんだ。人のものを持っていくことが良くないって言ってるんだ。分かるか?」
とりあえず、自分も許可なく他人の所有物を利用している手前、あまり大きなことは言えないと思いつつも、それでもオーマは子供たちに言い聞かせるために、言葉を続けた。
「……分かるよっ! でも、こいつに腹いっぱい美味しいもの食わせてやりたかったんだっ! だから、」
両親を殺され、残されてしまった幼い兄弟が食べるものに困る。
そうなってしまえば、子供の発想では行き着く道は盗みくらいしかない。
「だから、俺の服に目をつけたのか」
口を尖らせながらもしぶしぶうなずく少年を、オーマは地面へとゆっくり下ろす。
「この服はな、店に持っていったところでたいした値段にはならねぇぞ」
じっと自分を見つめる子供たちの頭を大きな手で撫でながら、期待を裏切るような台詞をオーマは告げた。
「これはな、高いものではない。けどな、作り手の想い、俺が守ってきたもの、守れなかったもの、これから守り続けなければならないもの、そんな皆の想いや願いが詰まったもんなんだ」
オーマにとってのこの服は、普通の人が好んでまとっているお気に入りの服とは意味が違うものだ。
彼の左胸上部に刻まれている幾何学模様のタトゥ。
ソサエティよりヴァンサーと正式に認められたものに、必ず刻まれる刻印である。
ウォズを屠る行為が同族殺しとみなされ、相応の代償を求められるのと同様に、彼らヴァンサーらの具現力そのものはこれと等しいほどの多大な影響を周囲に与えてしまう。
具現を発動したときに生じる影響は、己の身体をはじめとして周りのものを消滅させるほどのものだ。
それを防ぐためにあるものが、タトゥを媒介として召還着用をするヴァレル――オーマがこの世界ソーンで常に着用している極彩色の美しい輝きを持つ戦闘服なのである。
また、彼にとってこのヴァレルは、姉に作り上げてもらった唯一無二のものだ。
売る、売らないという問題ではなく、彼自身、他に替えることができるものではないと考えている。
「だからな、どんな理由があろうとお前たちにこれをやることはできな」
思いを巡らせて語るオーマであったが、突然降り注いできた温水と、続いて響き渡る甲高い奇声に言葉をさえぎられた。
「なんだ!?」
「っ、わあーーーっ!!」
温水の元である温泉の中には、丹念に敷き詰められていた桃色の石を次々と破壊し、オーマの隣にいる子供たちを舐るように見つめているウォズの姿があった。
一メートルはあろうかという長い舌を水面に打ちつけながら、トカゲの姿に酷似しているそのウォズは、今にも子供たちに飛びかかるかのような体勢をしている。
「くそっ、なんだってこんなときに!!」
温泉から飛び出そうとしているウォズに殴りかかったオーマは、大きく暴れるウォズの前に手のひらをかざして具現を試みようとした。
が、今の彼の姿では、それを施すことは不可能だった。
ソーンでの具現はゼノビア以上に全てへの侵食が激しい。
守るべきものがあるにもかかわらず、そのものすら消滅させかねないのだ。
だからこそ、オーマは常にヴァレルを身にまとっているのである。
これを着用しないままでの具現が不可能なわけではないが、決してやってはならない行為だ。
「おいっ!! 俺がコイツを押さえている間に、その服をこっちに持ってくるんだ! 早くっ!」
かざしたままの手のひらを握り締め、怯えた面持ちをしている少年に呼びかける。
少年は恐怖の感情に飲み込まれそうになりながらも、安全な場所へ行っているようにと弟に言いつけ、その足で必死にオーマの側へと向かった。
手にしているヴァレルが、彼にはさきほどよりも遥かに重く感じてしまう。
温泉へ飛び込み、湯の抵抗を受けながらも懸命に歩み、ようやくオーマにヴァレルを手渡した。
「よし、そのまま湯の中に潜ってるんだ。すぐに済むからな」
手早く袖を通して腰元の帯を結んだオーマは、ウォズの眼前に彼の身の丈をも超える巨大な銃を具現化させた。
ウォズが身動き出来ぬよう背中の部分を銃器で押さえつけると、対象を封印すべく、顔面に再び手をかざす。
「――人を襲うなんてことをしなければ、俺だってお前たちをこんな風にはしたくねぇのによ」
水面が噴き上げるように水を巻き上げ、一陣の風とともに、オーマに拘束されていたウォズはその姿を消してしまう。
辺りには、ウォズによって粉々にされてしまった桃色の石が散らばるばかりだった。
「よし、もういいぞ」
またしても軽々とオーマによって持ち上げられた少年は、肩で荒く息をしながら異形の姿がいなくなっているのを確認すると、ようやく落ち着きを取り戻した。
「まあ、その……なんだ」
わずかに少年から目を泳がせるオーマ。
「金に困ってるんなら、ここで働かせてもらえばいいさ」
その視線の先には、不運にも無残に破壊されてしまった温泉の姿があった。
「盗みをするよりも、そのほうがずっといいからな。俺がなんとか話をつけてやる」
「ありがとう、おじさん!」
家族を思う気持ちに嘘はない。
少年の思いに心を打たれたオーマは、この後自分に降りかかってくるであろう恐怖の仕返しを予感しつつも、豪快な笑い声をあげた。
そう、わざとじゃねぇんだからな!
やはり、自分に言い聞かせるような理由を見つけつつ。
【かけがえのない衣・完】
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