<東京怪談ノベル(シングル)>


開幕〜新たな世界〜


『えーであるからして〜この場合の比喩は――』

 少ししわがれた、けれど耳に心地よい声が脳内で響く。ふわふわと足元がおぼつかない様な、奇妙な浮遊感。
 まどろみを求める思考で
(ああ、あかん)
と思った時にはもう遅いけれど。
(この声があかんのや〜)
 古文のおじいちゃん先生の声は、丁度良い子守唄。これが体育や家庭科(主に食べるの専門)であればちょっとやそっとの眠気も吹っ飛ばせる自信がある一之瀬 麦だったが、昼休み直前の時間と授業の内容がコレではそうもいかない。
 そのまま麦は、先生の朗誦を子守唄にすやすやと寝入ったのだった。


 ○●○●


 麦の思考が再び物事を考え出すまでに、結構な時間が流れた。
 辺りは静まり返り、規則的な寝息だけが微かに聞こえている。
(………)
 さわさわと撫でていく風が気持ち良い。麦の体がぴくりと跳ねる。
(………)
 緩やかなペースで起き上がると、背中を金髪が流れた。そのまま体を起こした両手は閉じた瞼を二度ほど擦り――
「あかん、ガッツリ寝てしもた!!!」
 覚醒するや否や、頭を抱えて叫んだ。
 露になった双眸は黒真珠の様に丸くて大きい。眉は多少つり上がっていて、勝気そうな印象を受けるが、如何せんその場には麦一人。人目を引く雰囲気にも留意する者は居なかった。
 麦は己を取り巻く環境に気付く事無く、再度言葉を続ける。
「うち今日寝坊して、弁当あらへんのや。購走らなっ」
 購買で人気の惣菜パンは売り切れるのも早い。食欲旺盛な学生達を前に、昼休みを大幅に過ぎた今では――麦は腕時計を睨んだ。
「あかん、もう間に合わん! こうなったら誰ぞ捕まえて、吉牛かマクド、パシらせたろ」
 意地悪く口角を上げて、気の弱そうなクラスメートを求めて首を巡らせる麦。
 その瞳が見開かれて、初めて彼女は己の状況に気付く。
 小高い木立。自身に長い影を落とすそれに青々と茂る葉。もう一度ぐるりと視界を回転させるが映る景色は変わらない。
 葉擦れの音がやけに響く。
「――ここ何処じゃーっ!?」
 今の今まで教室で、己の椅子に腰掛けて、机に突っ伏してうたた寝に興じていた筈。あの冷たい机の感触は頬に残っている。
 それに記憶を辿った限り、学校の敷地内にもその近辺にもこんな場所は無かった。
 時計に再び落ちた視線に、麦は何かの事件の可能性を否定した。思ったよりも長い時間寝こけては居たが、自身の把握していない程遠くに連れてこられたにしては、経っている時間が短い。
(じゃあなんやの――夢?)
 等としばらく逡巡した後、麦は大きくため息をついて立ち上がった。
「やめじゃ! 考えたかて何もならん」
 清々しい。潔い。男らしい。元々の性格なのかただ単に飽きっぽいのか、それとも豪胆なのか知れないが、この時の麦の行動力は感嘆に尽きる。
 見知らぬ土地で、何の恐れも無く歩き出した。


 ●○●○


「ホンマ何やねん、ここ」
何度目かの呟きを漏らす麦だったが、しかし彼女はひどくご満悦な様子だった。
 鬱蒼とした森の中でも、今、それを抜けて辿り着いた街でも、目新しいものばかりが視界に映る。
 木から吊られていたオレンジに似たの実は、想像した柑橘類とは違って果汁が一切無い。少し触れるとくす玉の様に真ん中でぱっくりと割れて、丸いゼリーがそのまま落ちてきたのだ。腹を空かせていた麦は、ラッキーと頬張って、その甘さに舌を巻いた程。
 途中チラリと見た獣――と言っていいのか、駆けていく背中しか見損なったので定かでは無いのだが、黄金色の鬣を持った毛むくじゃらな存在が、二足歩行で去っていった。
 段々と状況を掴み始めた麦は、次に見た者で確信を持った。
 ここは、俗にいう異世界というものなのだと――思った上での第一声は「帰ったら、オトンとオカンにどやされるで」なんて事だった。
 最もそれ所の話では無い。帰れるかすら怪しい。
「まあ、その前に生きていかななぁ」
ぽりと頭を掻いて、麦は小さくそう言った。
 驚きは大きい。不安だって無いとは言わない。
 己の住む日本ではないのは明らか。この街の風景は、どちらかというと欧州――それも前世紀前の。何より車が走っていない。
 そして人。剣を腰に帯びる、中世の騎士風な青年。耳のとんがった子供。額に三目を持った老婆。半人半馬。通りすぎるそれぞれが見事に違った風貌を持ち、しかしそれさえも誰も疑問に持っていないかのよう。
 日本では女子高生という肩書きを持つ制服姿の麦が混ざると更に異様さを増すが、やはり行過ぎる彼らは頓着しない。
「ふぁんたじーってやつやろな……」
 それでも大概が何か映画等で見た事があるような存在で、麦自体も恐るるに足らずと感じられた。結構身近に感じられるものなのだ。

 短いスカートから出る長く細い足は、力強く街並みを歩き続ける。
 興味津々と四方に顔を向けながら、麦は次第に世界に、【聖獣界ソーン】に、馴染んでいった――。


 ○●○●


 太陽はこの世界でも変わらず暮れるらしい。
 再び主張を始める腹の虫から思考を逸らそうと、麦は橙に染まった空を見上げた。
 軒を連ねていた店が戸締りの準備と看板をしまい込む。辺りに夕餉の匂いが漂いだすと、麦もたまらず鼻をひくつかせた。
「とりあえず、どないしよ〜」
 持ち前の明るさで住人に話しかけ、己の持つサイフの中身が役立たない事を知っている。何かを食べる事も、まして泊まる事も出来ない。
「さっきのねーさんに、泊めてて言うべきやった?」
 うーんと唸って視線をさ迷わすが、街は先程までの喧騒を失っていた。
 けして寒いという事はないから野宿も出来そうだが、しかし――。
「仮にもうら若き乙女やし」
 もう一度低く唸った所で、麦の目の前をいかにも悪者といった風貌の男が駆け去った。
「なんや?」
頬に刀傷を持った人相の悪い男だった。目が、その背中を追っている最中。
「泥棒よ、誰か捕まえて!!!」
 通りの向こうで、女が泣き叫んだ。
「!!」

「っが!!!」
「あ」
 麦は男の頭を思いっきり殴り飛ばしたところで、しまったとばかりに声を上げた。思うより早く動いてしまった体に、しばし呆然となり――昏倒した男を見て、我に返った。
「ほら、ねーさん。鞄無事やで」
 男の手から鞄をむしり取り、近くまで寄ってきた女に投げ渡してやると、女は何度も頭を下げて、けれどさっさと走り去ってしまう。
「あら、行ってしもた……」
 頭を掻きつつ、倒れる男に目を落とす。しばらく目を覚ましそうにないが、これは自業自得。このまま放置しても死にはしないと最初からそんな事は眼中にないのだが。
「……背に腹はかえられん」
 麦はおもむろに腰を落とすと、男の体を検分し、目的の物を見つけてにんまりと笑った。


 ――憐れにも一発で沈められた男は、少ないながらの全財産を失っていた――


 ●○●○


「なんや疲れた……」
 街の外れ、新品のテントが月明かりの下に存在を曝していた。
 その中で麦は、襲ってきた眠気に欠伸を零す。
 悪者退治の対価で購入したテントは、麦の杞憂をとりあえず解決する事になる。
 オプションでついてきた寝袋にもぐりこんでもう一度欠伸を漏らして
「おやすみ〜」
誰にとも無くそう言うと、麦は意識を手放した。


 こうして、一之瀬 麦のソーンでの生活が始まった。



END