<東京怪談ノベル(シングル)>


想いの帷子

 「あんた、いっつもおんなじ服だねぇ」
 行き着けの居酒屋で、料理を運んで来た女将にいきなり言われて、オーマは小さく目をしばたたいた。
 本日は、妻と娘は旅行だとかで家を留守にしており、たまには外で他人の作った料理を食べるのもいいだろうと、この店にやって来た彼である。
 女将は、料理をテーブルに並べながら、なおも言った。
「そろそろ夏祭りも近いっていうのに、もしかして、晴れ着もないんじゃないのかい? あんた」
「え? いや、これは……」
 オーマは、やっとそれへ反論しかけて、はたと言葉に詰まる。
 彼が身に着けているそれは、厳密に言えば普通の衣類ではない。
 不思議な光沢を放つそれは、ヴァレルと呼ばれる戦闘服だ。
 彼、オーマ・シュヴァルツは、この界隈では名の知れた医者だが、異世界ゼノビアから訪れたヴァンサーというもう一つの顔も持っていた。
 ヴァンサーとは、具現化能力を持ち、異世界ゼノビアの国際防衛特務機関ヴァンサーソサエティに所属する者のことで、同じく具現化能力を持つウォズを狩る役目を持つ。聖獣界でいえば、治安を守る守備兵といったところか。
 ただ問題なのは、彼らの持つ具現化能力で、それは発現の代償に能力者と共に在るものを消滅させてしまう。その影響を抑えるために造られたのが、ヴァレルだった。
 ゼノビアでいた時には、ヴァレルの着用は能力使用時のみでよかったのだが、こちらの世界では常用が必須だ。理由は、能力の影響が大きすぎるためだった。
 そんなわけで、オーマはいつでもヴァレルを身に着けている。
 ヴァレルは、それを具現化させる専門職であるヴァレルマイスターの手によって造られており、ずっと着用したままでも、汗や埃に汚れたり、匂いがついたりすることはなかった。
 だから、当人は今までまったく気にしたこともなかったのだが、事情を知らない者の目から見るとそれは、いわゆる「着たきりスズメ」状態に見えるらしい。
 とはいえ、こんなことをこの居酒屋の女将に説明するわけにもいかず――オーマは言葉に詰まってしまったのだ。
 その彼の様子を女将はどう取ったのか、テーブルに料理を並べ終わって言った。
「あんたさえよけりゃ、ちょうど晴れ着にいい服があるんだけどね。どうだい? あとで見てみるかい?」
「え……。いや……。その、なんでそんな……?」
 答えに困って、彼には珍しく、ぼそぼそと歯切れ悪く尋ねる。
 自分が二メートルを越す大男で、がっしりした体格なのは、彼自身よくわかっていた。ようするに、誰かのお古をもらって着られるような体型ではないのだ。それに、たとえ体型が合ったところで、このヴァレルを長時間脱いだままでいることはできないのだから、同じことだ。
 しかし女将は、彼が遠慮していると思ったらしい。笑って言った。
「昨日、納戸の整理をしていたらね、息子の晴れ着が出て来たのさ。……五年前にあの子が死んだ時、体格が大きすぎて誰にももらってもらえないからと、衣類や何かは、全部捨てたはずだったんだけどね。けど、もしかしてあんたなら、着られるかもしれないと思ってさ」
「あ……」
 それを聞いてオーマは、女将には息子がいたのだと思い出す。
 たしかに、大柄な男だった。腕っぷしも強くて、気のいい若者だったが、五年前、二十になったばかりで《落ちた空中都市》の調査に加わって、湖の魔物と戦い、命を落とした。
 夫を早くに亡くして、一人でこの店を切り盛りしながら息子を育て上げた女将は、その後しばらく、まるで抜け殻のようになってしまい、彼女までどうにかなるのではと、常連客の多くを心配させたものだった。
 オーマは、その時のことを思い、うなずいた。
「ああ、ありがとうよ。じゃあ、後で見せてもらうとするかな」
「そうおし。あれを着たら、あんたの男ぶりもぐんと上がって、奥さんもきっと惚れ直すよ」
「そ、そうかな」
 女将の冗談に、オーマは軽く天井を仰いで引きつった笑いを浮かべる。
「じゃ、食べ終わったら呼んどくれ」
 女将はそれへ言って、立ち去って行く。オーマは、その背を見送って、さっそく料理に手をつけた。

 オーマが、こともあろうにベルファ通りの真ん中で、ウォズと遭遇したのは、それから数日後のことだった。朝早くに往診した帰り道のことだ。
 こんな街中で出くわすとは思ってもいなかったが、不幸中の幸いは、時間が時間だったため、通りには誰もいなかったということだ。
 更に彼が遭遇したのは、ウォズとしては比較的弱いものだったようだ。
 住人たちに配慮して、封印のための具現化による銃を使うのは最後だけと決め、肉弾戦でウォズに挑む。巨大な手足から繰り出される鋭い突きと蹴りは、充分に力を持つ凶器だった。
 やがて、さほど手間取ることなく、彼はウォズを追い詰めた。
 その時だ。
「オーマじゃないの。何してるんだい?」
 ふいに通りの角から顔を覗かせた、あの居酒屋の女将が声をかけて来た。そういえば、その角の向こうの露地は、彼女の店の裏口に面していたのだと、オーマは思い出した。おそらく、ゴミでも出しに来て、こちらの物音に気づいたのだろう。
 彼女は、まったく警戒する様子はなかった。巨大なくちばしと黒い翼を持つウォズの姿は、女将の位置からでは、大きなカラスとしか見えなかったからに違いない。しかし。
 彼女の声に、一瞬オーマの攻撃の手がゆるんだ隙をかいくぐり、ウォズは女将の方へと突進した。
「おばさん、逃げろ!」
 オーマは、とっさに叫ぶ。そうしながら、手の中に己の精神力を具現化させた巨大な銃を呼び出し、かまえた。
 彼が発砲するのと、ウォズの羽根が鋭い刃の雨と化して女将に降り注ぐのとは、ほとんど同時だった。
 ウォズの体に、オーマの銃弾が命中するなり、それは高い声と共に色を失い、水晶細工の鳥と化して石畳の上に落ちる。封印が完了したのだ。しかし、オーマはすでにそちらは眼中になかった。
「おばさん!」
 叫んで、倒れた女将に駆け寄る。彼女の小さな体は、ウォズの放った刃の雨に晒されて、全身ズタズタだった。石畳の上に、ゆっくりと血だまりが広がって行く。
「おばさん! しっかりしろ!」
 往診用のカバンを開けて、声をかけながら、必死に止血を試みる。しかしながら、これだけ全身くまなく切り刻まれていては、もはや手の施しようもない。
 見る間に彼女の体は、流れ出す血と共に熱を失い、ただの冷たい塊と化していく。
「おばさん! おばさん、しっかりしろ!」
 オーマはそれでもただ叫んだ。己のその声で、彼女の魂を呼び戻すことができればいいと、願うかのように。
 そうするうち、彼の大声に通りに面した建物の窓が開き、眠そうな目をした人々が顔を出す。わざわざ外に出て来る者もいて、いつの間にか通りにはすっかり人だかりができていた。
 しかしオーマは、それにも気づかないかのように、ただ一人、大声で女将を呼び続けていた。

 それから半月が過ぎ、都エルハザードに、夏祭りの夜がやって来た。
 都の通りという通りは人であふれ、誰もが着飾ってはしゃいだ声を響かせながら、夏の一夜を楽しむのだ。
 天使の広場には大きな櫓が組まれて、その上で今日のために呼ばれた楽士たちが賑やかな音楽を奏で、人々はその櫓を中心に輪を作り、手を取り合って踊っている。
 オーマは、そんな人々を少し離れたところで、目を細めて見やっていた。
 その体には、軍人めいた白い晴れ着をまとっている。いつだったか、居酒屋の女将にもらったものだ。ヴァレルの上にまとっているので、実はちょっとだけ肩や首のあたりがきついのだが、彼はそんなことになど、かまってはいない。
(おばさん、見えるかい? もらった晴れ着、着てみたぜ。おばさんの言ったとおりだったよ。女房の奴、惚れ直したってよ)
 星々が輝く夜空を見上げ、オーマは胸の中で女将に話しかけた。
 あの居酒屋は、今はもうない。
 彼女の死と共に店はたたまれ、今は空家になっている。いずれはまた、誰かが買うか借りるかして、似たような店を始めるのだろう。けれどもう二度と、同じ味の料理が出ることはなく、世話好きで人のいいあの女将と同じ顔を見ることもない。
(俺が、もう少し気を配っていたら……)
 オーマの中に、そんな思いがないわけではない。けれど、どれほど悔やんでみても、失われた命は返らないのだ。
 彼にできるのはただ、前を向いて歩いて行くことだけ。
 オーマは改めて、身に着けた白い晴れ着を見やる。そして、胸元をそっと撫でた。その下――彼の胸には、ヴァンサーの証であるタトゥが刻まれている。
(おばさん、約束するぜ。おばさんのくれたこの晴れ着と、このタトゥにかけて、二度と誰も、おばさんみたいな目には遭わせないってな)
 胸に呟く誓いは、己への戒めでもあった。
「オーマ!」
 そんな彼を、踊りの輪の中から、妻と娘が呼んでいる。
「おう! 今行くぜ!」
 何かを吹っ切るように笑顔と共に答えて、彼はそちらへ大股に歩き出した。
 夏祭りの夜は、ただ賑やかに更けて行く――。