<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>
まぼろしまほら
天使の広場で吟遊詩人は歌っている。
ここは、夢と幻想の世界。
あなたが望めば、如何ようにも物事は変じよう。
夢と思えば夢となり、現と判じればたちまちそれは現のことへ。
聖獣たちは守護する門をあなたに向け開いた。
あなたはこの世界に導かれし者。
世界は云っている。
この世界へ触れるべきだと。
世界は云っている。
あなたには、なすべきことがあるのだと。
世界は云っている。
逢うべきひとがいるのだと。
知るべきことがあるのだと。
望むべきことがあるのだと。
あなたが望めば、如何ようにも世界は変わってゆく。
【00】 夢見
遠い昔、わたしたちの祖先は、或る神の怒りに触れた。
様々な世界を渡りきて、最後にこの世界に辿り着いたのは、きっと。
きっと幸せなことなんだわ。
***
エスメラルダは少女の話を聞き終わり、手にしたグラスを僅かに傾けた。カラン、と澄んだ高き音。気に入りの酒の味でも、今宵は酔いが回りそうにはなかった。
眼の前に坐った、ひどく綺麗に微笑む少女、リンシア。
癖のない細い黒髪は、特に結いもせずそのままで、脚の上で重ねられた手の辺りをくすぐっている。外見は何ら人間と変わるところはない。しかしリンシアは自分を、“呪われた種族”だと云った。
常に世界を移動し続けなければ、消滅するという呪い。
その宿命を背負った種族は、既にリンシアが最後のひとり。仲間はすべて運命に抗い消滅したか、あるいは受け入れて、どこかの世界で果てた。
「わたしたちの種族は、必ず石を持って生まれてきます。この石が光りだしたら、その世界を去らねばなりません」
そうしてリンシアは、今までにいくつもの世界を渡ってきた。しかし今回は、様子が違う。
「石が……割れてしまったのです」
首から提げていたペンダントトップの紅い宝玉には、ちょうど中心を横断するように亀裂が走っている。
「この石がなければ、世界に滞在を許される期間が分かりません。……それに、種族の仲間が消えた時には、その前触れとして、石が割れたのです」
それはつまり、もしかしたら――消滅の時が近づいているのかもしれない。
「わたし、夢があるんです。誰かと一緒に食事して、お出掛けして、それでただいま、とか、おかえりなさいとか、言ってみたいんです」恥ずかしそうに眼差しを伏せてリンシアは言う。「今までは、いつか去らねばならないと思っていたから、なかなかそういう……家族って、云うんですか?……持ったこと、ないんです」
エスメラルダは頷いて、カウンターの上に置かれた依頼書をちらりと見遣った。「それが、依頼ってことで、いいのかしら?」
「はい。……少しの間でいいんです。わたしと、最後になるかもしれない時を、一緒に過ごして欲しいんです」
永久の流氓の少女はそう言って、静かな、とても静かな表情で頭を下げた。
【01】 酒場
「暑……」
本日何度目になるのか分からない呟きは、通りの喧騒に呑まれ、呟いた自身にしか届かなかった。
既に陽は大きく傾いて、橙色が名残惜しそうに聖都を染め上げている。その赤の色合いにさえ暑さが増すような心持ちになるのは、今通りを往く青年ばかりではないらしい。少しでも陽を避けようと路地を奥へ、あるいは店の内へと消えゆく影が次々と――銀髪の青年も、気怠げに片目を眇めると、目についた適当な酒場の看板を追って、地下へ続く階段を下りていった。
掲げられた店名は、黒山羊亭。
***
黒衣の魔術師の姿は、その日黒山羊亭のカウンターにあった。
眼前に積み重ねられた依頼書の束を見つめていたが、先程から視線がある一点へのみ注がれていることは瞭然である。エスメラルダはそれを目ざとく見つけると、さっさと件の依頼書のみを残して束を片づけた。
そうされてから、やっと術師は顔を上げる。
身形より幾分、幼さを残した面立ちだった。艶やかな黒髪が酒場の仄暗い照明を反射している。常ならば穏やかな光を宿す瞳はしかし、何かをその奥底に閉じ込めたように、深い黒色をしていた。
「受けるんでしょ? この依頼」
エスメラルダの指先が、トン、と一枚を示す。
小さな頷きを返した術師は、エスメラルダの後ろに佇む少女を見た。
***
少女はひとり、謐と在った。
ベージュと青色を基調とした民族衣裳の上、腰辺りまで達する黒い髪が絡むことなく滑る。色合いと模様はソーンでも珍しいものだったが、デザインの方は似た衣を身に着けている者を見たことがある。
年の頃は十代半ば。大きな瞳は深い茶に見えたが、陽光の下ではきっと薄いブラウンだろうと容易に想像できるほど、透き通った色をしている。
「初めまして、リンシアと申します」
やや緊張した、けれど明るい声がそう名乗る。
少女の前にはエスメラルダと、それにふたり、男がカウンターのスツールに掛けている。
少女に近い黒髪の青年が先に言葉を発した。
「僕は、榊遠夜といいます。陰陽師――と云っても分からないかな。ソーンでは魔術師や魔法使いと呼ばれることが多いけど」
「魔法が使えるんですか?」リンシアは目を輝かせた。
遠夜は少しだけ考える素振りを見せてから、「そのようなものだね」と大まかに認めた。
リンシアはひとしきり感心してから、傍に坐るもうひとりの青年に目をやった。青年はそれに気づいたか、首を僅かに傾け、斜めにリンシアと視線を合わせる。細身の鎖が首許、しゃらと擦れる音がした。
「あなたも、この依頼を受けてくださる方ですか?」
リンシアの声に、エスメラルダと遠夜の視線も銀髪の青年に向けられる。
「どうするの? 臣」
エスメラルダの重ねての問い。依頼内容は彼女から既に聞いていた。
「……いいぜぇ? ヒマだし、俺」
そう返事をして、青年はリンシアに向き直った。
「臣ってんだ。ヨロシク」
「はい。宜しくお願いします。――臣さん、榊さん」
リンシアは安堵に吐息して、微笑を深くした。
具体的な「依頼」の内容確認より先に、遠夜がリンシアに質問したのは、種族に纏わること、呪いのことだった。
一同の視線は、話に自然とリンシアの胸許に揺れるペンダントに集まった。光量の微小なここでは、紅色と聞く宝玉はずっと闇色に近く、紫暗かとも思われた。
「石が割れてしまったのなら、戻せればいいんだろうけれど……戻せる方法というのは本当にないのかな」
遠夜は宝玉を凝視したまま呟くように言った。
この石が光り輝く時、それはリンシアの種族にとって、世界に別れを告げ、また別の世界へと向かわねばならぬ時。
それを拒み、世界に留まり続ければ、待っているのは消滅。
そして消滅の近きを知るのもまた宝玉に。
石が割れれば、持ち主も共に――消ゆ。
「一応訊いておくけどさ」頭の後ろで腕を組み、臣が口を挟んだ。「『石が割れると消える』って言うけど、どの状態の石を指すワケ? あんたのその石、もう割れてると思うんだけど」
言葉通り、リンシアの宝玉には亀裂が見られる。それだけでなく、なめらかであっただろう表面は艶をなくし、僅かだが欠けてもいた。
少しの沈黙のあと、リンシアは答えた。
「多分、もう時間は、ないのだと思います」
無意識にか、その指はペンダントの宝玉を囲む銀の装飾をなぞっている。
「わたしは、同じ種族の仲間には、数えるほどしか逢ったことがありません。先程お話しした『家族』――この場合は、血縁の意味ですね――も、世界を移動し続けるうち、どうしても離れ離れになってしまうことがほとんどです。ですから、実際にその『消滅』の場に立ち会ったことはないのですが……」
あれは、どこの世界での出来事だっただろう。リンシアのペンダントの独特の装飾を見て、それを教えてくれた冒険商人が居た。
かつて共に旅をしていた男は、恐らくリンシアと同じ種族の人間だった、と。そして大事に紅い石を身に着けていたが、ある日突然それに罅が入ったのだと言った。前触れは何もなかった。商人はその時にすべての事情を聞き、また別の世界へ旅立つことを強く勧めた。しかし男は応じず、
――石を喪うということは、自分も消えるということだ。俺もそろそろ寿命が尽きるんだろう。
何もかも悟りきったように、穏やかに笑んだという。
石の罅は日に日に大きく、あるいは増えてゆき、欠け始め、そうしてついには、石の嵌め込まれた枠の飾りだけを残し、跡形もなくなった。
「その時に」淡々と少女は話す。「『消えた』と、言っていました」
話の情報が正しいのならば、リンシアの宝玉はもう欠け始めている。消滅に向かっている。
「リンシア、石に変化が訪れたのは、いつのこと?」
鋭いエスメラルダの声に、リンシアはペンダントに添えていた指をそっと離した。
「ちょうど一週間前です」
息を呑む複数の気配。
予想していた期間より、石の消滅の速度はずっと早い。
それならば。だから。
「わたしの呪い、石のことについては、いいんです。今回の依頼は、それより残された日々を、どう過ごすかについてのことで」
リンシア、臣、遠夜、エスメラルダ、それぞれの表情は暗くて知れなかった。
「そんな風に、云うものではないよ」
先を言いかけるリンシアを、遠夜が遮った。
「消滅してもいい命なんて、そうそうないはずだと思う。消えていい命も、自身で諦めていい命も」
きっと。
穏やかな声音は揺るぎなくリンシアへ届いた。
【02】 兄妹
しばしの沈黙が、カウンターの付近にはあった。
そう遠くない場処に、酒場特有の絶え間ない騒々しさ、荒々しさがあるというのに、ぽっかりと開いた穴のように、不思議と隔離された静けさが漂っていた。
「とにかく」エスメラルダが仕切る。「石のことは置いておいて、依頼のことについて、話しましょ」
そのために集ったんだもの、と続けるエスメラルダに、遠夜は抗議の声を上げようとした。口を衝く前にしかし、彼女の眼差しによって押し止められる。アトデ。唇はそう遠夜に告げていた。
「……リンシア、具体的に何を願っているのか、教えてくれる?」
こっくりと頷くと、少女は一度深く呼吸して、語り始めた。
先にエスメラルダに話し、簡単に依頼書に纏められた内容を繰り返す。
「えっと……一緒に、過ごして欲しい、ということです。お食事と、買い物と……お出掛けは、お弁当を持ってピクニックで……」
悩みながら指折り数えていく。
「……あまり、『友達』と変わらないような気もしますが」
それでも、誰かと共に過ごしたい。そうリンシアは言った。
ふうん、と臣が首を傾ける。「つまり、期間限定で恋人やれってこと?」
「ち、違いますっ」顔を真ッ赤にしてリンシアは首を振る。「か、家族が、欲しいと、そういうことで……」
口ごもり下を向くリンシアを、囲む一同はあたたかな笑みをもって見遣った。
「ま、何でもいいけどさ。飯に買い物に散歩にえーと、あとは何だ。とりあえず行けばいいよな?」
言いながら、臣は脇の遠夜を見た。
「え? 内容はそれで構わないと思いますが……今からですか?」
酒場の賑わい始める時刻、陽が落ちて間もないとはいえ、外はすっかり夜の気配である。
「だって時間、ないんだろ?」
「あ……」
途端に言葉に詰まる。既にリンシアの宝玉が割れ始めて一週間が経過している。残された時間はもう幾らもないのかもしれない。
遠夜は神妙に頷いて、リンシアを振り返った。
「ところで、エルザードではどこに滞在してる?」
「昨日は近くに宿を取りましたけど……毎日、違う宿に泊まっています」
「今日の宿は?」
「まだ決めてません」
それを聞くと、不意にエスメラルダが話に入った。
「そうだ、それなら、ここに泊まる? どうせなら、あなたたちも一緒に」
「俺?」「僕もですか?」ふたりの言葉が和した。
「そ。これから出掛けるんなら、帰りは遅くなるんでしょう? ふたりの今の住処も離れてることだし、楽でいいと思うけど」
少女と青年ふたりは顔を見合わせる。便利なことは確かだ。
「言っておくけど、お金取るなんて野暮なことはしないからね」エスメラルダは笑う。「ここ地下でしょ? 一階は別の店が入ってるけど、二階と三階はうちで借りてるの。店から直接二階に行ける階段もあるし。どう?」
エスメラルダが示した先、カウンターの横には扉があった。上へ続く階段があるのだろう。
真ッ先に返事したのは臣だった。
「俺は構わないぜ? どうせ帰ってもテントだし、どこでも寝れるからな」
テント? と首を傾げつつ、遠夜も頷いた。
「僕も、それで問題ありません。……君はどうする?」
リンシアは微笑んだ。
「お願いできますか? エスメラルダさん」
「ええ、それじゃあ決まりね。長いこと使ってないから、シーツぐらいは換えておくわ」
そう言って片目を瞑ると、「後でね」言葉を投げて扉の向こうに消えた。
その姿を見送って、改めて三人は顔を合わせる。エスメラルダ一人が抜けただけだが、どこか新鮮な感じがした。
リンシアはまた緊張を思い出したのか、徐々に俯いていく。それをふと、臣の言葉が止めた。
「そうだ。アンタいくつ?」
突然話を振られたリンシアは意図を掴みかねたが、
「年齢ですか? 人間でいうと、15歳です」
「それじゃ、俺らは兄貴になるわけだ」言って、臣は遠夜を見た。「俺より下で、リンシアよか上。合ってるよな?」
「はい、僕は17ですから」
「却下」
「は?」
「兄弟でそんな言葉遣いするかよ」
「ああ……」遠夜は一度納得しかけて、「すると……うん、僕は17だよ……兄、さん……?」とてもぎこちなく言い直した。
「……慣れねぇな」
「……それは、仕方ないことだと……」
本日初めて顔を合わせた相手なのだ。
遠夜と臣が眉を寄せ合っていると、間に少女の軽やかな笑声が響いた。ふたりの顔が同時にそちらへ向く。リンシアは慌てて口を覆った。
「あ……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
遠夜の耳に心地好い声が、リンシアの指を解いた。リンシアははにかむように頬を染め、もう一度「ごめんなさい」と囁く。
片肘をついて見守っていた臣は、やおら立ち上がり、店内をぐるりと見渡した。陽が完全に落ちきったあとの酒場は、少女を置いておく環境には好ましくない。
同じようなことを遠夜も考えていたのだろう。眼が合うと、臣は顎で出口を示す。遠夜は頷いて、リンシアに「とりあえず、出ようか」と声を掛けた。
「んじゃ、デートすっかねえ」
「『家族』で『デート』はないでしょう」
「えー、どっちでもいいじゃん。楽しく行こうぜ」
なあ、と臣はリンシアを振り返る。リンシアは幾度か瞳を瞬かせてから、大きく頷いた。
「……あの、臣……兄さん?」
「何だ、妹」
緊張しながら呼んだリンシアだったが、気軽い臣の返答のお蔭で、言葉はすんなりと続いた。
「兄さんは何歳なんですか?」
「俺ぇ? 152歳」
「えッ」
リンシアの感動詞に、遠夜も声には出さなかったものの、驚きに僅かに目を瞠った。この世界の住人は、外見だけでは年齢がまったく予想できないというのはもう何度も経験したことではあったが、やはりまだ慣れない。
臣はそんなふたりの様子を横目で愉しみつつ、あくまで地球暦とやらに換算した場合だけどな、と心中でのみ付け加えた。
【03】 両脇
黒山羊亭を出て、ベルファ通りも過ぎる。一際高く聳え、都のどこからでもその姿を望むことのできるエルザード城を目指すと、アルマ通りへ到った。
昼の商店街の方が馴染みやすいが、夜の界隈も賑わっている。通りの中心から天使の広場へ向かう道、白山羊亭の辺りは特に明るい。
「お祭りみたいです……」
通りの喧騒を眺め、リンシアが陶然と呟いた。
「お祭り?」遠夜が聞き返す。
「何だか、わくわくしませんか? いつも見ているのと微妙に違う景色って。昼間のアルマ通りも好きですけど、灯りがともったこの道も、きらきらしていて綺麗です」
「……そうかもしれないね」
頬を僅かに上気させ、きょろきょろと辺りを見渡すリンシアの横顔を、遠夜は優しく眺める。
真ン中にリンシアを挟むかたちで三人は並び、ゆっくりとした足取りで通りを往く。日中の暑さの名残は大分薄れ、流れる夜風の清々しさ、ざわめきの心地好さ、成程どこかに胸躍らすものがあるようにも思う。
と、石畳に躓きかけたリンシアの腕を、頼もしく臣の腕が支えた。体勢を整え、リンシアは礼を言って腕を離そうとしたが、何事か思いついたのか臣はそのまま腕を絡めた。驚いて見上げればしたりと笑む臣の表情がある。
「あの、臣兄さん……?」
「仲のいい兄妹だと、手を繋いだり、腕組んだりもするじゃん?」
そんなわけでだ、と前置いて、臣は遠夜に意味深な視線を送った。
「……それは、僕も、という意味ですか?」
「人も多いし、コイツぼーっとしてるから、すぐ躓きそうだしな」
「そんなことはないですっ」透かさずリンシアは口を挟む。
「でも今躓いただろ」
「それは、躓く前に臣兄さんが掴んでくれたから……」
「つまり俺が支えなきゃ、確実転んでたってわけだ」
「……う」
詰まるリンシアの肩を、苦笑した遠夜が軽く叩いた。
「とりあえず、ご飯でも食べようか」
「は、はい」
「じゃあ、行こう」
そう言って、自然と差し出された手を、リンシアは嬉しそうに取った。
「飯、えーと、飯」
アルマ通りと天使の広場を適当に一周し、食べ物屋をいくつか見繕ってから、立ち止まった。
「あんた、好みの味ある? 俺に任せるとすっげぇことになっちまうから、好物があれば合わせるぜ」
「すごいこと?」
「肉とか肉とか肉とか」
真面目な顔で言う臣に、リンシアは破顔する。
「じゃあ、お肉料理にしましょう。わたし、すごい苦いものと、すごく辛いもの以外なら、好き嫌いはないんです。あ、すごく美味しくないものも遠慮したいです」
最後に挙げたものは言うに及ばず、わざわざ「すごく」と形容詞をつけたものを好むものはそうそう居ないだろうと思うが。
その点に対して同意したらしい期間限定の兄ふたりは、少々ずれた感性のもと物を言う妹を微妙な面持ちで眺めた。
「えっと……肉料理、なら広場の方へ行こうか。そっちにこの時間も開いているお店があったはずだから」
気を取り直して店を指定する遠夜に、頷きかけたリンシアは、ふと何事か思い出したように、
「そのお店って、ミートパイ、売っていません?」
「ミートパイ?……ああ、慥かお店の看板メニューのひとつだったと思うよ」
「わたし、そこがいいです!」
弾んだ声で「構いませんか?」と問うリンシアに、ふたりはやや圧倒されながら揃って頷いた。
「ふうん……さすがに色んなメニューがあんだな」
「料理名だけではどんな料理か分からないものもありますね」
広場のエンジェルの像近く、オープンカフェを兼ねたこの店の客の入りは良いようだ。八割方テーブルは埋まっている。広場を見渡せる席に坐って、三人は無難にそれぞれの親しんだ料理をいくつか注文していた。
「せめて写真か絵ぐらい添えとくべきだと思うぜ、このメニュー。『ググッチラーのマリネ』って何だ?」
「さあ。僕は『タクラマカンから来たパスタ』が気になってるんですが……地名に聞き覚えはあるものの、肝心の『来た』ものが分からなくて。純粋にタクラマカン地域の伝統的なパスタかな」
そう思っても、どんなパスタなのか想像できなかった。
「少なくともゲテモノは出してねぇみたいだけどな」
周囲のテーブルを窺っても、見たことのある料理の皿が並んでいるだけだ。
リンシアはといえば、オーブンから取り出されたばかりのミートパイを前にして喜色満面、視線をパイへ据えたまま幾度も頷いている。パイ表面の生地は焼きたてを示すように艶やかな狐色、中心に刻まれた十字からは湯気と共に香ばしい匂いが立ち上る。香辛料もふんだんに使われているのか、食欲を刺激するどこかぴりりとした香が鼻を突いた。
臣はお肉だけではいけません、とリンシアに勝手に注文された野菜炒めを突きながら、広場の方向をちらりと見た。
「あとは買い物だな。他にもやりたいことあるか? ワガママにとことん付き合ってやっから、どんどん言ってみ?」
パイを口に運ぶのに夢中だったリンシアは、きょとんとして兄を見上げた。ふたりの兄は、穏やかな眼差しで妹を見ている。
「露店も結構出てるしね。広場周辺なら、この時間でも危なくないと思うから」
「俺らが居るしな」
「……あの」
リンシアの声に、うん? とふたり同時に先を促す。
「やりたいこと、とはちょっと違うかもしれませんが……えっと……お店で見つけたら、お話しします」
秘密めいた微笑を浮かべ、リンシアはスープに口をつけた。
出された料理をすべて綺麗に片づけてから、店を後にした。
再び両脇の臣と遠夜と腕を組み手を繋いで、先程よりは幾分早いペースで率先して歩いていく。兄たちはやや引きずられるようにして、広場のあちこちを巡った挙句、辿り着いたのは小さな露天の店だった。
アクセサリーを取り扱う店のようだ。そのどれもが緑色の僅かに混じる青い石を使って作られている。石の青みは、まさに空色と称したいほど、はっきりとしたアオだった。
「トルコ石……?」
遠夜の呟きに、露天商の女は独特のイントネーションで「ちょっと違う」と答えた。産出される世界が違うらしい。
「遠夜兄さんの世界に、この石と似た石があるんですか?」
リンシアの問いに、むしろ「兄さん」と呼ばれたことに些か動揺しつつ、遠夜は頷いた。
「ターコイズ……魔除けにも使われる石だよ。災いを遠ざけるというので、旅人が好んでお守りにしたと聞く」
感心して、リンシアは熱心に商品を選んでいる。なぜか臣と遠夜を時折振り向いては、アクセサリーをいくつか手にとって唸っていた。
「何してんだ?」
「兄さんたちに、どれが似合うかなと思って」
「……言っておくが、俺は付けねぇぞ」
振り向いたリンシアの視線が、首許に向いているのに鋭く気づいて、臣は指先で首輪を軽く引いた。「これはトクベツ」
リンシアは何か言いたげに臣の身なりを改めて眺める。着崩す、というより、仕方なく着ている、といった風な着方である。素肌に直接羽織っただけのシャツは釦をひとつも留めておらず、活動的なデザインのはずのジーンズも腰で履き、ベルトに至ってはその機能を果たしていない。
リンシアはしばらく考え込んでいたが、「少しだけ離れていてください」とふたりを店から離して、再び商品との睨めっこを始めた。臣と遠夜は顔を見合わせ、苦笑を交わすと、言われた通りに少し離れた場処からリンシアを見守ることにする。
やがて、
「はいっ」
臣、遠夜、それぞれの前にぶら下げられたのは、青と白の石を交互に紐に通して作られたアクセサリーだった。
遠夜へ渡されたのはシンプルなデザインのブレスレット。リンシア自身の左手首にも、同じものが着けられていた。
「これを、僕に?」
リンシアはくすぐったそうに微笑む。「良かったら、着けてみてくださいませんか? 今だけで構いませんから」
遠夜は首を振り、リンシアと同様に左手首に青石の装飾具を嵌めた。「――ありがとう」
「そして、臣兄さんにはこっち」
そう言いながら、臣に反論の余地を与えず、そのジーンズのベルトループにアクセサリーを通してしまう。
ストラップの形状のそれは、ブレスレットによく似たデザインの短いものだった。
臣は一瞥して、
「失くしても知らねぇぞ」
「大事にしてくれなくたって、いいんです」
拗ねたように言ってから、にっこりと笑う。
「これで、お揃い」
臣のストラップと、遠夜とリンシアのブレスレットと。
等しく、旅人を守護する空色の石が煌めいている。
臣は呆れたように息を吐いたが、特に嫌がるでもない。仕方ない――そう思わせてしまえば成功だった。
「買い物はこれで気が済んだのか?」
「はい」
「他は?」
訊かれて、リンシアは悩みつつ、「……特に、ないです」
「んじゃ、そこら辺軽く散歩して、帰るか」
「あ」
と、遠夜が片手を挙げて流れを止めた。
「どうした?」
「あの、僕はちょっと、先に黒山羊亭に戻ってます」
「どうかしたんですか?」訊ねたリンシアに、遠夜は「うん、ちょっとね」と曖昧に答えるだけだった。
臣は一度胡乱げに遠夜を見遣っただけで、首を傾げるリンシアの腕をぐいと引っ張ると、広場のエンジェル像の方へと向かってゆく。
「え? あの、臣兄さん?」
「『兄二号』は用事があんだろ。それより喉渇いた、何か飲もうぜ」
「さっき飲んだばかりだと思うんですけど」
リンシアの相手をしつつ、臣は遠夜へ向け、ひらひらと手を振った。早く行けということらしい。
遠夜は苦笑して、踵を返す。早足でベルファ通りを目指した。
【04】 紅玉
一足先に黒山羊亭に戻った遠夜は、亭に集う客たちに片っ端から聞き込みをしていた。
リンシアの種族と呪いについて、である。
しかし成果は芳しくない。リンシア自身が一族の最後のひとりだと言っていたように、元々少数の種族なのだろう。その稀少な情報を探すには、遠夜の情報網では手に余る。
他の店にも足を延ばそうかと思案していると、他の客の応対から戻ったエスメラルダが、数枚の報告書を遠夜に手渡した。
「……これは?」
「リンシアから依頼が来たあとにね、あたしなりにちょっと調べてみたのよ」
あとで、と言っていたのはこのことだったのか。遠夜は急いで書類の内容に目を通した。
強調して書かれていたのは、呪いの起源だ。リンシアも詳しくは知らないと言っていたそれは、遠夜が思っていたものより古く遡るらしい。聞いたことのない世界と地名。詳細不明と書かれた古の神。
「荒ぶる神――かな」
その名すら記録に残されなかったその神は、民に危害しか齎さなかった。
そして抗う民によって征せらる。
遠夜は瞳を伏せる。今からこれを追えるだろうか。
「遠夜、リンシアのあの石に、何か感じなかった?」
エスメラルダの問いに、遠夜は慎重に答えた。
「兇悪な炎の気配を。……恐らくここに書かれている神は、火神だったのだと思います」
でも、それだけだ、と先を続けることは、悔しいのでしなかった。それが分かったところで、何も変わらない。
そこへリンシアと臣が帰ってきた。軽やかな足取りのリンシアとふたりだと、臣の気怠い動作が際立って見える。
「おかえり」
何気なく言った遠夜だったが、リンシアはわざわざ遠夜の前で足を止め、ふわりと笑んだ。
「――ただいま」
その後部屋の用意はできている、とのエスメラルダの言葉で、ひと悶着あった。
リンシアの部屋はベッドだが、臣と遠夜は床に寝ることになるという。臣も遠夜もそれぞれの生活習慣を考えると特に抵抗はなかったのだが、リンシアはひどく恐縮した。
結局、まだこちらは準備が整っていない臣と遠夜の部屋を、リンシアが片づけるということで何とか落ち着いた。
様子を見に行っていた臣が、遠夜の居る亭のテーブルまで戻ってきた。
「リンシアは?」
「『一人だけベッドで寝るのは心苦しいので、せめてふかふかのお蒲団と交換します』って、俺らの毛布と交換してたぜ」
「そんなこと、いいのに……」
「俺も言ったんだが譲らねぇ」今しがた下りてきたばかりの階段を見遣り、口許を緩ませた。「案外、気が強ぇのな」
つられて微笑む遠夜に、臣は
「で?」
と突然に促す。遠夜は疑問符を返すことなく、心做し表情を引き締め顎を引いた。
「すみません。まだ、呪いを解く方法については、何も」
「『まだ』、ね。見つかりそうなのか?」
「分かりません。……でも、僕は見つけたい」
見つける、と断言できない自分の未熟さが歯痒かった。
臣はそれ以上は言わず、卓上に広げられた報告書の類を目で追っている。
ふたりが会話もなく同じ卓に着いていると、エスメラルダが呼びにきた。「リンシアじゃ重くて持ち上げられないものがあるそうだから、手伝ってあげてくれない?」
遠夜が答える前に、臣がふらりと立ち上がった。
【05】 幻海
一段ごとに軋みを上げる階段を上がり、臣は二階に二つ並ぶドアのうち、手前の半開きになっている方を覗き込んだ。隣のドアは物置、最上階である三階の一室はリンシアに宛てがわれている。
「あ、臣兄さん、これ、そちらにどかしてくれますか?」
室に入った臣の前で、リンシアは一脚の大型テーブルと格闘していた。部屋の中心辺りの床が、この卓を除いて綺麗にされているところをみると、すべての荷物を壁際に寄せ、臣と遠夜の寝るスペースを確保するつもりだろう。臣は言われた通り、容易くテーブルを壁まで移動させた。引きずることもしなかった。感嘆の声を上げるリンシアと共に、床を軽く拭き終えてから、臣は声を掛けた。
「なあ」
「はい?」
「あんたが世界を移動する時ってさ、どうやんの?」
「どう……方法ですね? その時によって違いますが、一番よく使う方法はとっても簡単です。祈るだけです」
「祈る?」
「はい。この石に触れ、祈ります。具体的に世界の名前を言ったり、風景を思い浮かべたりもしますが、そう多くの世界を知っているわけではありませんから、大抵は『新たな世界へ』って、祈りますね」
「じゃあさ、俺が『見てきて欲しい世界がある』って言ったら、行けたりする?」
リンシアは一瞬きょとんとしてから、思い当たることがあったのか転じて真剣な表情を見せた。
「行けます。けれど、わたしだけです。誰かをともなっての移動は、種族以外のひとでは無理ですし、仮に成功したとしても、とても危険だと思います」
「いや、俺はいいんだ」臣はリンシアの返答に満足して、片笑んだ。「あんたに、行ってきて欲しい」
口調はそれまでと変わらない。けれどそこに確かに、痛切な念があるのを感じ取って、リンシアは頷いていた。
「どんな世界ですか?」
「詳しい場処は分からない。どっかにある、俺の――イヌ族の島」
かつて生活していた、世界。
胸裡にその島を思い起こすと、青の色彩が眼前に広がるようだった。空と、それを映す海の。
その青い空を、一閃、切り裂くものがあった。
その姿だけが、記憶の狭間で鮮烈に輝いている気がする。
あれは鳥だっただろうか、ただの光だろうか、振り上げた剣か。牙か。
この世界に来る直前まで、必要としていたのは牙だった。磨くべきものも牙だった。敵に喰らいつくための、つよく鋭い牙だ。
「一瞬でいいんだ。仲間の様子を見てきて欲しい。で、また戻ってこいよ、ここに。な?」
頼む、口中でのみ囁かれたそれに今一度頷いて、リンシアは紅玉に唇を寄せ、そっと瞳を閉じた。
静炎のゆらめきに似た空間の歪みに、少女が取り込まれてゆく短い間、臣は共に祈るような気持ちで、青い空を想った。
***
リンシアは、まず漣の音を拾った。
世界が移動したのを知って、詰めていた息を落とし、恐る恐る、細く気を吸う。強い潮の香り。純粋な陽射しが肌に照る。どこかふわふわとした感覚を確かめるように、瞼を上げた。
青の世界。
海が広がっていた。
眩しかった。夜の聖獣界から真昼の浜辺へと、突然の移動に、特に視覚は光暈を覚えたように白く、くらりとして覚束ない。
「……っと」
危うく転びかけて、足許が砂浜だということに気づく。波打ち際近く、あと数歩のところで波がゆらゆらと薄く寄せていた。
ここが、臣兄さんの言っていた「イヌ族の島」だろうか。
周囲を見渡せば、湾曲した海岸線と砂浜と、背の高い植物が連なっていた。眼を遠くへ凝らしても、突出した岩場に遮られ、ここが大陸なのか島なのかは判らなかった。島へと祈ったのだから、ここは島なのだろう。そしてやはり、臣のかつての“世界”なのだ。
リンシアは海に背を向けて、島の内へと入ろうと歩きだした。とにかく早くこの島の現状を確かめて、ソーンへ戻らねばならない。ペンダントをぎゅっと握りしめる。
鬱蒼とした森のなかへ足を進めるとすぐ、甲高い鳥の声に雑じって獣の唸りが聞こえてきた。どちらの方向から聞こえるのかまでは分からない。少しの間じっとしていたが、思いきってまた歩き始める。十歩も行かず、低い威嚇の声が近づいた。
正面、
そこに獣が居る。
草を踏み分ける僅かな音が、やけに大きく聴こえている。
樹木の間をすり抜けて降るとろりとした陽光を、獣の身が鈍く返した。
――しなやかな、銀毛のケモノ。
リンシアを警戒し、時折牙を見せつけるように下方から見上げてくる。しかし不思議と恐怖は感じなかった。
「臣兄さんと、同じ色……」
ソーンでリンシアの帰りを待っているであろう青年の髪と、眼の前の獣の体躯を覆う毛は、等しく、しろがね。光を映ずるその色合いが、とてもよく似ていた。
リンシアの呟きを聞いて、不意に獣は威嚇を止め、眼差しを細む。何かの匂いを確かめるように鼻をひくつかせると、唐突にリンシアに背を向けた。
「え……? あの」
思わず声を発すると、獣は一度だけリンシアを見遣ったが、興味を失ったのか再び面を戻し、もう振り返らなかった。そのままゆっくりと森の奥へ消えてゆく。すぐあとに、複数の気配が動いて、同じく消えていった。
リンシアは茫然と佇んでいたが、波の音がまた耳に届くと、急に恋しいような気になって、森を急ぎ足で出た。青く透き通った空と海を焼きつけるほど強く眺めてから、胸許の紅玉を撫ぜた。
***
きゃあ、という短い悲鳴に、うお、という間抜けな声が重なって、さらにドスン、という物音が部屋に響いた。
言うまでもなく、世界をまた移動して戻ったリンシアの悲鳴と、床から三呎ほど上方に唐突に出現した彼女を受け止めた臣だった。床に尻餅をつくかたちとなった臣の上に、リンシアが重なっている。
「……行く時は静かにゆっくりだったのに、帰りは随分と騒がしいことで」
「す、すみませんっ!」
呆れ声の臣の上から慌てて身を離し、リンシアは何度も頭を下げた。
「ま、その様子じゃちゃんと行けたみたいだな。おかえり」
添えられたその一言に、一瞬惚けたように表情を見せてから、リンシアは噛みしめるように応えた。
「はい。――ただいま帰りました、兄さん」
口の端深く、笑んで、臣は一息で立ち上がる。
「で、どうだったよ? 俺の島は」
「空と海が、とても綺麗なところでした」
「ああ、それぐらいしかねぇけどな」
「波は穏やかで、海はずっとずっと遠くまで続いていて、船の姿は見えませんでした」
「船は滅多に近づかねぇんだよ」
リンシアは微笑んで、臣をまっすぐに見上げた。
「銀色の、獣と逢いました」
「……大丈夫だったか」
こくり、と頷く。
「はっきりと姿を見たのは一頭だけでしたが、他にもたくさん、いらっしゃったみたいです」
「そいつは、元気だったか? 怪我とか、してなかったか?」
「はい。きれいで、きっとつよい方だと思います」
「そっか」
特に感慨振るでなく、短く応じる。そうして、リンシアが自分を凝視したままなのに気づいて、訝しげに眉を寄せた。
「何だよ?」
「臣兄さんって、牙、ありますか?」
「はァ?」
いや、あの、と口ごもるリンシアに、臣は声を立てて笑って、答えるかわりに彼女の頭をぽん、と軽く叩く。
頬を膨らませるリンシアの胸で、ペンダントが揺れていた。
少なくとも「今」、必要なのは牙ではない。
そう、臣は思った。
【06】 方法
カウンターで依頼書を眺める遠夜の頬に、出し抜けにひどく冷たい感触が走った。
「泣きそうな顔してる」
エスメラルダだった。
手にした氷の浮かぶグラスが、冷覚の正体だろう。中身がアイスティーなのを確かめてから、苦笑しつつ受け取った。
「僕が、ですか」
「ええ、随分思いつめた顔してるわよ。イエンが怯えてたわ」
「イエン?」
「さっきあなたが聞き込みしてたテーブルの男。……情報収集は、上手くいってないみたいね」
「エスメラルダさんの方は、どうですか」
「あたしの方も残念ながら、としか言えないわね。何より時間がなさすぎる」
エスメラルダの返答を聞いて、遠夜は肩を落とす。同時に行き場のない怒りが自分のなかに蟠るのを感じていた。
リンシアの呪いが解けないか、せめてペンダントを修復できないものか。専門の職人にも当たってみたが、ペンダントの方は多少なりとも宝玉自体を削ることになる。危険すぎた。情報は、絶対的に不足している。
「……泣いちゃえばいいのにね」
ふと落とされたエスメラルダの呟きに、はっと遠夜は顔を上げる。
それに気づいて、エスメラルダは微かに苦笑してみせた。
「あなたじゃないわよ。リンシアのこと。……あの子、本当にたまにだけど、泣きそうな顔するの。でも、絶対に泣かない。泣いてどうにかなるものでもないけど、泣くのを我慢することなんて、ないのにね」
やわらかな声の語りに、強く眉根を寄せる。
視界の端に、階段を下りてきた臣の姿が映った。部屋の片付けは済んだのだろう。
リンシアの顔が、無性に見たかった。
***
二階に姿がなかったため、躊躇いつつも三階へ上がると、ちょうど毛布を手に自室へ入ろうとするリンシアが居た。両手が塞がっているため、先に気づいて遠夜はドアを開けてやる。ありがとうございます、鈴を転がすような声音が、耳に心地好かった。
運んできた毛布をベッドの上に落とすと、リンシアは咳き込んだ。
「……すみません、少し、埃っぽくなっちゃって」
言われてみれば、室内は外と較べ靄が懸かったように薄ぼんやりとしている。普段はほとんど使われていない部屋だということだ、仕方ないだろう。
「とりあえず、窓、開けようか」
「あ、はいっ」遠夜に言われ、リンシアは初めて窓の存在に気づいたようだった。「そうですよね、まず換気ですよね……」
先に立った遠夜は両開きの窓をそっと開く。老朽化が原因で窓枠から外れることを危惧したためだが、造りはしっかりとしたものだった。そのままいっぱいに開く。夜気を孕んだ風が吹き込み、室に新たな流れを生んだ。
「……わたし、この風が好きです」
振り向くと、リンシアは目を閉じて清浄な気をその身に受けている。片側で結われた黒髪の先が、微かに戯れていた。
「この世界――ソーンに来て、初めて感じたのはこの風でした。そして匂い。甘い花、甘酸っぱい果実、水の匂い……食欲をそそる、ミートパイの香り」
細く目を開け、悪戯っぽく笑う。
「耳に届いたのは、楽しい音楽と、陽気なひとたちの笑い声。子供たちの追いかけっこ、それを叱る大人たち」
ああ、ここにはひとが居る。
とても幸せなひとたちが暮らしている。
すぐにそう感じられる世界は実は少ない。ソーンはそのなかでも、特に不思議な場処だった。
「――まるで、夢のなかのような」
自分自身が、願っていた世界だと思った。
「確かに……」遠夜も言葉を返す。「この世界を、そう言うひとたちは居る。ここは夢の世界だと。夢幻の、現実との狭間に位置する世界なのだと」
それならば、今ここに居る自分とは、どういう存在なのだろう。
別の世界にはやはり別の僕が居て、同時にこの世界にも存在しているのだろうか。
それとも、この世界に迷い込んでいるだけで、元の世界では僕は行方不明にでもなっているのだろうか。
後者の可能性の方が高い気がするけれど、それならば。
――彼女は、どうしているのだろう。
常に心に留め置かれている面影が、蒼い夜闇のなか仄めく。
遠夜はきゅっと瞳を閉じた。様々な問いが浮かんでは消えゆく。
「遠夜兄さん」
リンシアの声が、風の流れに逆らって空間を微かに顫わせた。
遠夜はひとつ瞬いてから、視線をリンシアへ戻す。
「遠夜さん……ありがとう」
「どうした?」
「わたしの願いを、聞いてくれて。……それに、『方法』まで、探してくれて」
遠夜は鋭い眼差しになる。
「エスメラルダさんから聞いたんです。色々と聞き込みをしてくれてるって」リンシアはゆるく首を振って微笑んだ。「でも、大丈夫ですから、わたし。たとえ方法が見つからなくても、もうすぐ本当に消えるのだとしても……わたしは、大丈夫」
語尾は小さく、リンシアの唇の動きでそうと知れた。
何が大丈夫だというのだろう。
なぜそんなに穏やかに受け入れようとするのだろう。
そうして、自分は――僕は、ただこの少女の言葉を聞いていることしかできないのか。
「僕は……まだ、足掻くよ」
強く唇を噛みしめた。
――僕は多分、諦めが悪いうちのひとりだ。
誰かを護ろうとして、いつも勝手に体が動く。眼の前、敵に身を預け死に向かう姿があったのなら、止めたくて、どうしようもなくて、動くんだ。
消えるということで、同情しているのかと聞かれたら、否定はできない。
けれど、僕にとって、知り合った命が消えるというのは我慢できないことだから。
だから、探すんだ、その方法を。
不可能を可能にできることがあるのなら――生きて、くれるのなら。
「言っただろう? 諦めていい命なんて、ないんだって」
リンシアは寂しげに微笑むばかりだった。
それを見ているのが嫌で、遠夜は視線を逸らした。部屋の隅の闇は色濃い。「そろそろ、寝ようか」
はい、小さな応えは呼気に紛れて、遠夜の耳にはっきりとは聞こえなかった。
***
遠夜がリンシアの部屋を後にすると、階段の手前に、臣が壁に身を預けて坐り込んでいた。両目は閉じられていたが、眠っているわけではないらしい。遠夜が近づいたのを察すると、片目を開け、億劫そうに立ち上がる。共に部屋に戻った。
「リンシアのペンダント、見ましたか」
「ああ。亀裂が深くなってたな。欠けてんのも見た」
「……明日は、どうしましょうか」
「そういやピクニックに行きたいとか、言ってたなあ」
「ピクニック……どこがいいでしょうね」
臣は少しだけ遠くを見るような目つきをした。「アクアーネって村は知ってるか?」
「ええ、水の都といわれている村ですよね。そこへ?」
「いや、その途中に原っぱがあんだよ。年中、花が咲いてるとかいう」
「ありましたっけ?」遠夜はアクアーネ村周囲の地理の記憶を手繰る。「僕も近くを通ったことはありますが、そんな草原なんて……」
「あるんだよ。俺は鼻がきくんだ」
得意げに笑う臣に、明日の行き先はそこに決まった。
【07】 幸福
朝食は黒山羊亭で取った。普段は夜にしか利用しない店に朝に居るというのは、不思議な気分だった。
エスメラルダと馴染みの壮年のバーテンダーが、出掛けるという三人へお弁当を渡してくれた。ここでもリンシアは恐縮していた様子だったが、「こういう時は素直に貰っておくもんだ」という臣の意見には遠夜も賛成だったので、何度もぺこぺことお辞儀を繰り返す彼女を引っ張って、まだ過ごしやすい聖都を抜けた。
これから陽は高くなる。気温も一気に上昇するだろう。
遠夜は四季というものが感じられるこの世界を、有難く思う。
エルザードを離れて北西にゆくと、途端に河川の多い地域に入る。アクアーネ村周辺は避暑に人気の地で、リンシアたちの他にもこの方向へ向かう人々が多くあった。しかし先導する臣の後をついていけば、徐々にそれも少なくなり、自然堤防となった丘陵を越えたところで、とうとう自分たち以外にひとの姿は見えなくなる。かわりになだらかな隆起を繰り返す緑野が一面に広がっていた。
「あんまり離れんなよ。落とし穴みてぇに湿地があっから」
ぶっきらぼうに言った臣だが、万一湿地帯に近づいても注意してくれるだろう。
リンシアはそう思いながら、意識は眼の前の色彩に向けられていた。
薄紅の、
緑を覆いつくすほど、風に波をつくるほどに、花たちがそよそよ。
時々そこに顔を覗かせる、黄色や真ッ白の花も、どれもが優しい色をして太陽を仰いでいる。
リンシアは丘を一気に駆け下りた。やわらかな緑は足許をくすぐるだけで、少女の行く手を意地悪に妨げたりなどはしない。
臣はその姿が視界にあるのを確かめて、見晴らしの良い丘に腰を下ろした。近くに遠夜も坐る。
「――浮かない顔だな」
「寝不足なんですよ」
「明け方抜け出して、どこ行ってたんだ?」
遠夜は瞠目して、臣の横顔を窺った。
「……知ってたんですか」
「同じ部屋に居たんだ。気づくぜ、普通」
苦笑する。「これでも気配を消すのには、自信があったんですが」
「俺のが上だな」
に、と片笑んで、面はリンシアへ向けたまま、視線だけを一瞬遣した。
「無理を言って、方々の図書館を廻ってたんです。でも結局、何も掴めなかった。……すみません」
「俺に謝っても仕方ねぇだろ」
「はい」
「アイツに謝るんでもねぇな」
「はい」
それからしばらく、黙ってふたり、風に吹かれていた。
ずっと眺める先には、ひとりの少女が跳ねるように花畑に遊んでいる。纏う民族衣裳の青が、花の合間にちらちらと、新たな花が咲いたようにも見える。そこへ、大きく揺れるペンダントの紅が、閃くように注す。遠夜は右手の先で、手首の青い石に触れていた。
祈っているのかもしれない。願っているのかもしれない。
少女がこのまま、明日も、明後日もその先もずっと、何度でもこの花畑で遊ぶことができるようにと。
臣は横目でそんな遠夜を一瞥すると、立ち上がって大きく伸びをした。何ものにも邪魔されない風が、天空と草原の間を思うがままに吹き抜けている。
「――飯」
「はい?」
「腹減った。そろそろ昼じゃねぇの」
この草原まで来るのにも大分時間を要している。
陽は中天に差しかかろうとしていた。光よりもその熱が強く感じられるのは今時分だけだろう。
「もう、そんな時間でしたか」
臣はしゃがみ込むと、惚けた顔の遠夜を軽く小突いた。「しっかりしろよ。ほら、リンシアも来たぜ」
遠夜はゆっくりと頷いて、弁当の収められたバスケットを引き寄せた。
「ただいまっ」
リンシアの帰りに、おかえり、と声音が揃う。
満足げに笑ってから、リンシアも隣に腰を下ろした。その手に、夢中でつくっていたのだろう、小さな花束がふたつみつ握られている。薄紅の花が緑の葉と茎に括られていた。
弁当を広げながら、
「臣兄さん、さっき遠夜兄さんのこと苛めてたでしょう」
リンシアが得意そうに言った。先程遠夜を小突いていたのを指しているのだ。
「いいんだよ。弟は兄貴に苛められるために居るようなもんなんだから」
「……そうなんですか?」
サンドイッチを摘まみながらいい加減に言う臣に、リンシアが真剣に訊き返した。「それなら、弟さんがかわいそうです」
この場合、同情されているのは僕なんだろうな、と苦笑しながら遠夜は「横暴です」と答えておく。ふと、リンシアの胸に紅い輝きがないのにどきりとして、それからペンダント自体がないことに気づいた。
「ペンダントは、どうしたの?」
「え?」
大きな瞳を瞬いて数秒置くリンシアに、まさか失くしたのだろうか、と言いかけたが、
「あ、遊んでるとき、邪魔なので外したんです。ポケットに入ってますよ」
花に鎖が絡みますから、とリンシアは笑う。
遠夜はほっとして、自分が思った以上に脆くなっていることを自覚すると、そっとまた苦笑を洩らした。
昼食を終えて、三人は並んで丘に寝転がった。低いところで浮遊している白雲が、掴み取れそうなほど間近にある。
言葉はなかった。
やわらぐ陽射しと、雲の影と、翔らう鳥と、すべてを攫ってゆく風と、それを追いかける花びらと――いつしかそれに、睡りが舞い降りた。
***
それからどれほどの時間が経過したか。
最初に目を覚ましたのは、臣だった。否、臣が瞼を上げる前に周囲を習性のように探ると、すこし離れた場処に身動ぐ気配。薄く瞳を覗かせそちらを窺えば、リンシアの背中があった。何をしているのかまでは見えないが、臣は何となく、分かってしまった気がしていた。
「リンシア」
「はいっ?」
臣が名を呼ぶと、びくりと背を震わせて、リンシアは振り向いた。
その返事には不自然さなど欠片もなく、突然声を掛けられて驚いた――そう、ただそれだけの動作だと云ってしまえる。
けれど。
「今隠したモン、見せてみな」
ゆっくりと身を起こし、臣は片手を無造作にリンシアの方へ差し出す。
リンシアは瞳を細め、見せたことのない痛切な表情で、ただ首を横に振った。身体は臣の方を振り向いてはいないので、その腕のなかまでは知れない。
臣は一度肩を竦めると、立ってリンシアへ近づく。
風は凪いで、いつしか草木のさざめきも消していた。
臣が傍らに立っても、リンシアは今度は掌に握られたものを隠そうとはしなかった。隠せるとは思わなかった。もう知られているのじゃないか、気づかれているのじゃないかと、思っていたから。
軽く握っていた指を、ゆるゆると解く。
指の間から、こぼれ落ちる――紅。
ペンダントの銀枠に嵌められていた宝玉は、もうほとんどが欠けて消え失せていた。
リンシアの指から落ちたそれは、固体を保ってはおらず、けれど液体でもなく、唐突に力を失くしていく光のように、地に落つ前に消えた。
「……あ……っ」
顫えた声は、臣やリンシアから発せられたものではなかった。
振り向いたそこに、大きく目を見開いた遠夜が半身を起こしている。リンシアの手からこぼれた紅を、見ていた。少女にとって命の時間と等しきその紅が、こぼれて、消えてゆく。
惘然とする臣と、リンシアの視線が合った。
そうして、
次の瞬間には、遠夜は地を蹴って少女を抱きしめていた。
――今、見てしまったから。
――泣きそうな顔をした君が、見えてしまったから。
「……ごめん」
臣と、謝るべきではないと確かめ合ったけれど、他に遠夜は言うべき言葉を持たなかった。果たして、呆れた表情の臣が傍に居たが、彼も何も言わずに、ただリンシアの髪を、くしゃりと不器用に撫ぜた。
「泣いて、いいんだ。リンシア」
「……遠夜兄さんの方が、泣きそうな顔してる」
ふっと、口許が綻ぶ。
「エスメラルダさんにも、同じことを言われた」
「遠夜兄さんは、泣き虫さんなんですか?」
「どうだろう」
どうなんだろうね、と繰り返す。
ふたりとも言葉をなくしたように俯くと、臣の手がまた伸びてきて、今度は遠夜の髪をも、ぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。
「え、何なんですか、臣さ……」
「黙ってろ、泣き虫」
揶揄を含んだ声と手から逃れようと、遠夜が身を捩っていると、初めて逢った時のような、少女の無邪気な笑い声。ただ愛らしいその笑みは続かず、途中から嗚咽混じりになり、とうとう完全に泣き声に取って代わった。
遠夜は静かにその背を撫で、リンシアは臣の腕に縋っていた。
リンシアが完全に泣き止むまで、ずっと、そうしていた。
横目に確かめたペンダントの宝玉は、辛うじてひと欠片が、枠に残されているだけだった。
その最後の欠片さえも、ゆっくり、確かに、光となって消えてゆく。
「時間がもう……ないんです、兄さん」
穏やかな声だった。
けれどさっきまでの、どこか哀しい響きを含んだ声ではなかった。
ただただ、穏やかな声だった。
何も言えぬ遠夜のかわりに、「ああ、そうだな」と臣の常と変わらぬ応え。
「ありがとう、ございました」
「ああ」
「結局、たった一日しか一緒に居られなかったけど、本当に、本当に嬉しかった……」
リンシアは瞳を閉じる。
臣と遠夜は、眼の前の少女の指先が、脚が、肩が、宝玉と同じような光の粒子となってゆく様を、静かに眺めていた。
消えるとは、そういうことだった。
風にそよぐ黒髪が、光を纏い、不思議な色彩を空間に拡げてゆく。
リンシアは目を開けて、最後の言葉を告げようと口を開く。
「……」
それを、臣の指先が遮った。
「別れの言葉は要らねぇよ」
瞬いて臣を見上げるリンシアに、いつものどこか不遜げな笑みを返す。
「また、俺んとこに来なよ。――待ってっから」
それに答える言葉は、もうなかった。
光はリンシアを包み、輪郭はぼやけてゆく。滲んでゆく。消えてゆく。
「いってらっしゃい、リンシア」
強い遠夜の声が、少女の面影が消える間際、響いた。
いついつか、また「ただいま」と返してくれる日が、来ますように。
光は、洪水のように辺りに溢れ、またひとつに集約すると、天へ吸い込まれるように昇っていった。
ありがとう。
臣さん、遠夜さん。
大好きなふたりの兄さん。
わたし、この世界に来て、良かった。
様々な世界を渡り、最後にこの世界に辿り着いたのはきっと――いいえ確かに。
とてもしあわせなこと。
はい、さよならはいいません。
またあなたたちに逢いたいから。絶対に、逢ってみせるから。
あなたの家族に、友人に、知り合いに。なりたいとは思うけれど、それよりわたしが願うのは。
あなたたちの笑顔が、また見たい。
それだけを願う。それだけで満たされる。
別れを惜しむのではなく、次の機会の約束を胸に。
いつか、
どこかで、
――またね、兄さん。
わたしたちは、きっと出逢う。
【08】 予感
リンシアが“消えて”から、臣と遠夜はエルザードへと戻った。ふたりとも、聖都に入るまで一言も喋らなかった。
来た時には三人だったのが、帰りには二人になっているという当たり前のことが、どうしてこんなにも苦しいのだろうと、遠夜は思う。
「そんなに沈むなよ」
見兼ねた臣が声を掛けた。
「……沈んでなんて、いません」
その声が沈んでんだよ、と思ったが口には出さなかった。かわりに苛立たしく溜息を落とすと、
「ソーンってのは、変なとこだよな」
訝しげに臣を振り向いた遠夜に、先を続ける。
「空間とか、時間軸とか、全部無視してやがる。数秒前までは別の世界で普通に暮らしてたのに、気づいたらここに居る」
「あ、ああ……それは、言えていると、思います」
「だからさ」
勿体振るように置いて、臣は適当に手近な路地を指差した。
「たとえば、その角の向こうに、逢いてぇヤツが居るかもしれねぇってこと」
だろ? と首を傾ける臣に、遠夜は狐につままれた面持ちになる。
そういう、ことなのだろうか。そんな奇蹟が容易く起こってしまう、世界なのだろうか。ソーンとは。
――そうかも、しれない。
遠夜は自分がソーンを訪れた時のことを思い出して、口許だけに微笑をのぼらせた。
「臣さん、それは僕を励ましてくれたんですか?」
「そんな柄でもねぇことするかよ」
そう返して、そっぽを向いてしまった。
遠夜はどちらにしろ励まされたことに変わりはなかったので、
「ありがとうございます」
と、穏やかに礼の言葉を紡ぐ。
臣はばつが悪そうな顔をしていた。
「……オイ、それより裏と表どっちだ?」
「え?」
唐突に振られ、遠夜は困惑する。
「いいから答えろよ。どっち?」
「じゃ、じゃあ表……?」
キン、と気味好い金属音がして、遠夜の眼前を何かが過ぎる。確かめる間もなくそれは臣の掌に落ち、たし、と臣は両手を合わせた。ゆっくりと重ねた手を開く。銅貨が一枚、乗っていた。
「裏だ。俺の勝ち」
「何がですか」
「エスメラルダへ依頼の報告。あんたが行くことに決まり」
「……報告はこれからするつもりだったので構いませんが、ふたりで行くのでは駄目なんですか」
「やだね」臣は投げるように答え、コインを無造作にポケットに突っ込む。「俺はこのままマイホームに戻る」
「テントですか」
「悪ぃかよ」
「いいえ」
そのまま通りを逸れて行こうとする臣を、遠夜は思い出したように呼び止めた。
「報酬はどうするんですか? これからエスメラルダさんから渡されると思いますが」
ああ、と生返事で面倒そうに振り向くと、
「あとで届けてくれ。場処は教える」
「さすがにそれは……」
言いよどむ遠夜に臣は意地悪く笑みを返す。
「『兄貴』には従うもんだろ」
「兄弟は解消されたんじゃなかったんで――」
と。
ふたりの間を、擦り抜けるように駆けてゆく影があった。
生意気盛りの少年が、息を切らして路地を走ってゆく。
臣は舌打ちして、踵を廻らそうとし、その少年の向かう先を見遣って歩を止めた。遠夜も同様に、眩しげに路地の先を眺めている。
「レイカ姉ちゃん、忘れ物! 教会にアップルパイ持っていくんじゃなかったのかよ!」
振り返った少女は、弟が手にした包みを見て首を傾げた。
「え? 確かに持って――」
「ホラ! 中身、食器しか入ってないじゃん」少年は追いつくと、姉の腕に提げられたバスケットを覗き込んだ。「神父さまは優しいひとだから笑って許してくれるだろうけどさ、姉ちゃんのパイ楽しみにしてるガキらはがっかりするだろーが」
「ああ、ありがとう」
今度はちゃんとパイの容れられたバスケットを握りしめる。
ふと、少女がこちらを向いた。視線が合う。
ふたりの姿を認めると、少女は頬を染め、僅かに俯いた。
臣と遠夜、どちらからとなく笑みが洩れる。
笑声に、少女はおずおずと顔を上げた。
悪意の欠片もないふたりの表情とぶつかって、少女はゆっくりと、笑みを咲かせていった。
風は聖都を抜け、何かの予感に膨れる白雲を追い越し、果てない青をまっすぐに目指す。
あなたが望めば、如何ようにも物事は変じよう。
夢と思えば夢となり、現と判じればたちまちそれは現のことへ。
聖獣たちは守護する門をあなたに向け開いた。
あなたはこの世界に導かれし者。
世界は云っている。
この世界へ触れるべきだと。
世界は云っている。
あなたには、なすべきことがあるのだと。
世界は云っている。
逢うべきひとがいるのだと。
知るべきことがあるのだと。
望むべきことがあるのだと。
あなたが望めば、如何ようにも世界は変わってゆく。
ここは、夢と幻想の世界。
――まぼろしも、まほらに変わる。
<了>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 外見年齢 / 職業】
【0277/榊 遠夜(さかき とおや)/男性/17歳/陰陽師】
【1799/臣(おみ)/男性/22歳/旅人】
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■ ライター通信 ■
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初めまして、香方です。
このたびは黒山羊亭冒険記「まぼろしまほら」へご参加頂きありがとうございます。
あざといオープニングかなあと思いつつ、参加者様がどういったプレイングでいらっしゃるのか予想がつかず、いつにも益して不安な窓開けでした。
そうして頂いたプレイングに泣きそうになりました……NPCに対して、そして自身に対しての想いがよく伝わってくるプレイングだと思います。
それぞれお持ちのシチュエーションノベル等で出身世界への思慕がおありのようでしたので、少々絡めて書いてみましたが、イメージの相違などございましたら申し訳ありません。
また、NPCのリンシアをどうするかについては、プレイングとプロットを突き合わせて悩みましたが、こういった結果となりました。
あらかじめ「ひとつだけ」と提示していたのでご了承ください。
どのように解釈されるかは、PCさま、PLさまにお任せ致します。
本当にありがとうございました。
――ちなみに「リンシア」の名は、「零夏」と字をあてます。
香方瑛里 拝
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