<東京怪談ノベル(シングル)>


小さな墓標

「ふぁあぁあ〜ぁ」
 盛大な欠伸を漏らし、男は首を軽く鳴らした。そうそう見かけない見事な巨躯、漆黒の髪、緋色の眼。重そうな鎖の飾りや留め具をいくつもつけた派手な服は、彼の威圧的な容貌に拍車をかけている。
 午後の陽の光は柔らかく緑を照らし出す。穏やかな森の中とあっては、眠気に誘われるのも仕方がないことだった。
 先刻から目に映るものといえば、鳥や野兎、枝の上を駆けていくリス。
 変わったことなど何もない。あえてあるとすれば――明らかに森の雰囲気とそぐわない男の姿だろうか。
「本当にいるのかよ。例の魔物ってなぁ」
――あの森にゃぁ、それは綺麗な髪の長い魔物がいるってぇ話だ。
 つい先日、馴染みの店で聞いた。なんでも店主が旅商人から聞いた話で――人はそれを噂というのだが――商人の知人が、その魔物に家族を殺されたのだ、という物騒なおまけつきだ。
 真相を確かめてやろう、などとは思わない。男が森を訪れたのは、単に興味を惹かれたためだった。
「……あン?」
 男は足を止めた。心地よい風が肌を撫でていく。
――歌声が聞こえる。
 美しい旋律だ。男が知っている言葉ではないようだったが、笛の奏でる柔らかい音に似ている。
 男は一瞬逡巡し、足をその歌声が聞こえてくる方角へと向けた。
 木々の合間を抜け、茂みを越えていく。水の匂いが風に乗って運ばれてきた。
 男が草を踏み分けると、清水を湛えた泉があった。その泉の傍らに、小さな影が座り込んでいる。
 それは、歌声を止めると男を振り仰いだ。
 不思議そうな色を浮かべた双眸は泉の色。真珠色の体は裸身で、肌と同じ色の髪は長く、草の上にまで流れている。
 五、六歳の子どもに見えるが、放つ気配は人のそれではない。
 いとけない瞳で見つめられ、男は思わず瞬いた。軽く脱力する。
――なるほど。髪の長い綺麗な魔物、ね。
 苦笑し、男はその場で膝を折った。目線を合わせるようにして相手の目を覗き込む。
 魔物は、不思議そうに小首を傾げた。その仕草は小動物のようで可愛らしい。
 男は魔物に向かって、にぃ、と笑った。どこか意地の悪い笑顔になるのは性分だ。
「よう。さっき歌ってたのは、おまえか?」
 魔物はひとつ瞬いた。ふっくらした唇を開き、鳴く。鳥が歌うような声だ。
「うん?」
 もしや話せないのだろうか。そういえば、先刻の歌も男にはわからない言葉だった。
「あー、そうだなぁ……えぇと」
「……さっき、うたってたのは、おまえか?」
「あ?」
 聞こえてきた幼い声に、男は再び魔物と目を合わせた。
「今、喋ったか?」
「いま、しゃべったか?」
 おや、と男は瞬く。魔物の子は男の言葉をそのまま復唱している。だが、からかっている様子はない。
 少し考えて、男は口を開いた。自分の胸を指し、
「俺はオーマ。オーマ・シュヴァルツ」
「おれは、おおま。おーま、しゅばるつ」
「オーマ」
「オーマ」
 何度か繰り返すうちに、オーマが己を指すとすぐに「オーマ」と応えるようになった。
 この魔物は人の言葉を真似し、覚えることができるようだ。
「オーマ」
 小さな指が、オーマの服の裾を掴む。あまりの可愛らしさに脳髄をがつんと殴られた心地で、オーマはその手に己の手を重ねた。
 魔物の子は、花が咲き零れるように微笑んだ。


 それから数ヶ月。
 オーマは折を見てはその森を訪れるようになっていた。いっそ自分の家に連れていこうか、とも思ったが、森に馴染んだ魔物はそれを嫌がった。
 魔物は瞬く間に言葉を覚えた。ほどなくして、オーマと会話ができるようにまでなった。
 気安い、他愛ない会話を交わすのが楽しみにもなっていた。ちなみに、オーマにとっての他愛ない会話とは多分にむさ苦しい「愛」が込められたものである。勢いだけの話ともいう。
「このマッスルなラヴパワーをもってすれば、殺伐荒涼不毛な大地もあっという間に大胸筋エルドラドへと進化するのだっ!」
 今も、そんな熱弁の最中である。
 魔物は大木の下で涼んでいる。その体には、オーマが持ってきた服――オーマの趣味なのでもとは装飾過多だったが、気に入らなかったらしく飾りの多くは外されている。反抗期か、などとオーマが項垂れたのは少し前のことだ――をまとっている。
 話を聞いているのかいないのか、といった風情で、オーマが立派な巨体で拗ねると、魔物は可愛らしい姿でからりと笑った。実力あるのみ、とオーマが熱い抱擁をしようとすると、鋭い返り討ちにあう。
「っち、なかなかやるようになったじゃねぇか、おまえ」
「オーマが教えてくれたから」
「んなもん、教えた覚えねぇぞ」
「教えてくれたよ。だってオーマ、馬鹿だもん」
「失礼な。このラヴリィマッスルな俺様のどこが」
 言い合いながらも、互いに笑みが浮かぶ。
 小突こうとしたところで、オーマはぴくりとその動きを止めた。魔物も表情を硬くする。
――誰か、いる。
 反応は魔物の方が速かった。その長い髪がうねり、鋭利な槍となって草木の陰に突き刺さる。
「――ッ!?」
 オーマは目を見開いた。
 くぐもった悲鳴とともに、見慣れない男がひとり、凶器を手に草陰から転がり出る。その額には白い槍が突き刺さっていた。
 魔物の髪が無造作に男から引き抜かれ、鮮血が噴き出す。男はわずかに痙攣し、そのまま事切れた。
「おまっ……おまえ、何を!?」
 思わずオーマは激昂し、魔物の腕を掴んだ。強い力と声に魔物は驚いて、不思議そうに見返してくる。
「僕とオーマを狙ってた」
「殺す必要はなかった!」
「誰かを殺そうとするなら、殺される覚悟はできてなきゃおかしい」
「だが……!」
「オーマは優しい。だから僕もそうした。あいつは殺そうとした。だから殺した。なにがいけない?」
 魔物はひたすら不思議そうだった。当然のことをしたといわんばかりだ。
――その商人の知人が、その魔物に家族を殺されたのだ、と。
 こういうことだったのか、と思う。この魔物は――鏡なのだ。
「く……」
 オーマは歯噛みした。オーマは医者だ。医者は人を救うのが仕事。たとえ何であっても、その死を見るのは辛い。
「オーマッ!」
 不意に、オーマは強い力で横に突き飛ばされた。したたかに体を打ち付け、低く呻く。
 そうして――気づいたときには、遅かった。

 草陰から飛んできた凶刃が、小さな体を引き裂いていた。

 オーマは顔を凍りつかせた。もうひとり、隠れていたのだ。
 華奢な体はあっけなく倒れ、赤が広がっていく。致命傷だ――長年の経験で、オーマはそう直感した。
 血が雪色の四肢を鮮やかに染める。どんな顔をしていたのだろう、オーマを見上げた魔物は薄く苦笑したようだった。
「オーマ……」
 愛しげに呟かれる名前。柔らかな微笑がその口元に浮かぶのを、オーマは信じられない思いで凝視した。
「……――オーマが無事なら、いい」
 それが、魔物の最期の言葉となった。


 死んだ男が、かつて魔物に近親を奪われたのだと知ったのはその後のことだった。
 男の仲間は逃げたのだろうか、行方が知れない。
 オーマが最初に魔物と出会った泉のほとりには、今、小さな墓標があった。
 ささやかなその墓標には、時折オーマが花を持ってくる。
 その墓標を前にするたびに、魔物との日々とあの時の罪悪感が蘇った。

――だから、馬鹿だっていうんだ。

 笑い声が聞こえた気がして、オーマは空を振り仰ぐ。
 白い鳥が一羽、蒼天を舞っていた。