<東京怪談ノベル(シングル)>


琴羽


 身の内から弾けるような感覚を、まだ覚えている。それは終わりきった出来事としてではなく、未だに奥底でじりじりともがいているのだ。


 誰がつけたか、逢魔が刻。茜色の光を惜しげもなく注ぎながらゆっくりと沈んでいく太陽は、街も人も木々でさえも、赤く染めていく。
「綺麗だねぇ」
 オーマ・シュヴァルツはそう言ってにかっと笑った。自分の経営している病院の屋根から見る夕日も、またオツなものだとオーマは思う。
(赤いっつっても、柔らかい赤なんだよな)
 くつくつとオーマは笑う。太陽が降り注ぐ赤の色は、赤黒く生臭いものは思い起こさせない。
 それは全く、別のものだから。
(もっとも、そんな事を確認しなくたって、別物には違いないんだけどな)
 かつて自らの住んでいた場所を思い越しつつ、オーマは苦笑を漏らす。かつていた世界では、戦いが主となった日々を過ごしていた。こうして移り行く美しき世界をゆっくりと見ることも無い。
 平和、という実感がふつふつと湧きあがってきた。
「そりゃ、色んな制約をつけてるけどよ」
 オーマはそう言い、纏っている服をひらひらと振った。このソーンと言う異界地において、オーマが用いる力である具現と呼応するヴァンサーの戦闘服である、ヴァレル。異たる侵食が強いソーンにおいては、最早欠かす事の出来ない普段着となっている。
 そして、そのような制約をつけたのは他でもない自分自身である。
(俺ぁこの世界を消滅させたくねぇからな)
 くつくつと笑い、またひらひらとヴァレルを揺らす。夕日の所為で、オーマ自身もオーマの纏っているヴァレルも、真っ赤に染まっている。
 代償によって、己や在りしもの全てを護るが為のヴァレル。それを疎んじた事はなく、自らに課せた制約を鬱陶しいと思ったことも無い。
「具現、か」
 オーマはぽつりと呟き、柔らかな赤の光をじっと見つめた。


 オーマがかつていたゼノビアには、ヴァレルと同様な働きを持つ「ヴァラフィス」と呼ばれるものが存在していた。と言っても、ヴァレルのように目に見えるものでは無い。
 ヴァラフィスは、いわゆる「言霊」と呼ばれるものに近いのだから。
 ヴァンサー就任時に具現体得が義務となるために、ヴァレルの着用とヴァラフィスの取得は当然のように行われていた。
 様々なものを護る為に。
「言葉って言うのは、大事なもんなんだな」
 ヴァラフィスを用いなければならないと知った時、オーマは素直にそう感じた。戦闘時に用いなければならない具現能力発動を為すために、または普段はその具現能力を封じる為に、ヴァラフィスは用いられていた。それにより、能力を最小限に自らのうちに封印させているのだ。
 そうすれば、具現行使時に技の威力を高め、同時に代償から全てを護る役目をなすことができる。ヴァンサーならば、誰でも知っている基本中の基本である。
「たかだか言葉、されど言葉」
 オーマは呟き、そっと笑う。
 ヴァラフィスに用いる言葉は、具現言語。ヴァンサー同志ならばいざ知らず、第三者には通じる事の出来ないものだ。奇妙な言語の羅列と響きに聞こえると言う。
(まるで、歌うみたいだな)
 第三者からどのように聞こえたかを尋ねた時の返答を聞き、オーマはそう感じていた。
 例えば、歌の歌詞が分からなければ「ららら」と歌うように。
 例えば、掛詞と造語を多く用いた抒情詩のように。
 その言葉たちが意味をなすことはなく、ただただ適当に並べられて踊っているかのようだった。
 自分にとってはちゃんとした意味を持ち、また同じヴァンサー仲間のつむいだヴァラフィスも同じくちゃんとした意味を持っていた。
 第三者のように、意味なき言葉の羅列としては決して聞く事は出来なかった。
 だからどうだという事は特に無いが、何とはなしに勿体無いような、残念なような、不可思議な感覚だけが残っていた。
(そりゃ、意味のある言葉として聞こえるって言うのもかなりいいことだとは思うんだけどよ)
 オーマは思い、くつくつと笑う。
 意味のある言葉を厭うわけでも、ヴァンサーであるが故に分かってしまう事を悲しむ訳でもない。
 ただ単に、ほんの少しだけ、羨ましかっただけだ。
 意味の無い言葉の羅列を直接耳にする事は無い。だからこそ羨んでしまう。ただ、それだけだ。
 その思いは、異世界であるソーンにやってきても残ることとなる。


 大分日は沈んでしまっていた。すっかり太陽は姿を隠し、あとは柔らかな赤い光が完全に消えていくだけである。
「今だったら、どんな風に聞こえるんだろうな」
 オーマはぽつりと呟く。
 具現に侵食されていないソーンでは、その意と力がなすことが無い。つまりは、行使不可能だという事だ。
(だが、俺は覚えている)
 ヴァラフィスという力の使い方を、使った時の感覚を、そのもの自体を。
 未だにオーマは覚えているのである。今すぐに使って見せろと言われたら、環境さえ整っていたら使う事が出来るくらいに。
 勿論、使う事は無い。使う用事が無いのだし、使う事もできないのだし、何より使おうという気は全くないのだから。
「こいつと、一緒だよな」
 ヴァレルはソーンにいる限り普段着として用いる事を決めたように、ヴァラフィスもソーンにいる限りは使う事は無い。そう、決めたのだ。
 具現が侵食し続け満ちていたゼノビアではない、この異郷の地であるソーン。ここにおいて、ヴァラフィスの存在は在っても無くても同等の理由しか持たない。
「ここは、ゼノビアとは違うんだからな」
 オーマは呟く。ソーンと言う存在は、そのままであればいいと思っている。ゼノビアのようになる必要は何処にも無く、今までと同じようにあればいい。
 同じように大事な人がいるものだから、時々感覚が麻痺してくる。ここは本当に異界の地なのか、という他愛も無い疑問だ。
 勿論、すぐに気付く事が出来る。ここは異界の地であり、今までいた場所ではないのだと。だからこそ、ヴァレルを普段着とし、ヴァラフィスを使おうとする事は無いのだと。
 ゼノビアに満ちていた具現の無い世界である為、実際に使おうとしても使う事は出来ないだろう。だが、肝心なのは使えない事ではない。使おうとしないことなのだ。
「俺ぁ、ここの世界が好きだからな」
 オーマは呟き、にかっと笑った。こうしてゆるやかな時間を過ごす事の出来るソーンを、具現の侵食も無く平和に満ちているソーンを、ヴァラフィスを使うことも無く時が流れるソーンを。オーマは心から愛しているのだ。
 だからこそ、ヴァラフィスの必要性は全く認められない。また、それでいい。
「まあ、勿体無い気はするけどな」
 こうしてヴァラフィスを用い無いと言う事は、第三者によって聞こえていた奇妙の言語の羅列はありえないという事だ。歌詞のわからぬ歌のような、意味の分からぬ抒情詩のような、力無きものの聞くヴァラフィスを知ることはなくなってしまったのだ。
 今でも覚えているヴァラフィスの行使を、オーマは思い返す。
 オーマにとって意味のある言葉である具現言語は、己が内の具現を武器具現の際と同様に具現変換されたものだ。その時に感じていた息遣いや力の存在を、今も尚胸の奥底に残っている。
 ぴん、と弦を弾くかのようなその感触を。
 言葉に羽が生えたようにふわりと力の波に乗っていく感触を。
 忘れる事も無く、未だに胸に秘めているままだ。こうして、必要の無くなった今でさえも。
「……暮れちまったか」
 すっかりと消えてしまった朱色の光を惜しみつつ、オーマは呟いた。
 そうして暗くなった空を、目を細めつつ見上げてから、オーマは屋根から下りて家へと入っていった。
 歌を、抒情詩を、弦を、羽を。ゆるやかに思い起こしながら。

<琴の音に生えし羽のようにも感じ・了>