<東京怪談ノベル(シングル)>


残された娘

 白月が浮かんでいる。
 熱気の篭るベルファ通りは、夜の帳が下りてなお騒がしい。立ち並ぶ店からは暖かな灯が漏れ、嬌声や罵声が絶え間なく聞こえてくる。
 酒と香水と夢の香りに包まれたこの通りは、今が盛りの最中であった。
 一日の疲れを癒しに訪れる愚か者どもが、うつつを忘れて飲み騒ぐ。
 そんな通りに、ひとりの男がいた。
 男の名をオーマ・シュヴァルツという。
 胸元を大きくはだけ、そこかしこに鎖や留め金をつけたあからさまに人目を引く服を身にまとい、通りを歩いている。
 他を圧倒する巨躯、天を仰ぐ黒髪、夜の街明かりに沈む真紅の眼、左胸には幾何学模様の刺青。
 一見ひどく遊び慣れているように見えるこの男は――ある意味では人生を謳歌しているが――家庭に誠実な夫であり、父親でもあった。
 今も、早めに酒を切り上げて帰宅するところである。
「ふーんふっふふーん♪」
 上機嫌で音の外れた鼻歌をしながら、石畳を踏んでゆく。顔が少し赤いのは、いい具合に酒が入っているせいだ。
 飲み仲間たちは、それぞれに散っていった。今、オーマに連れはいない。
 酒も手伝って心地よい気分になりながら、オーマは横道へと入っ――

 ぱっしゃぁあん!

 冷たい感触とともに、何かが頭上からぶちまけられた。オーマは反射的に瞼を伏せ、立ち止まる。
 唇に触れたそれを舐め取ると、甘い果実の味がした。
「え? ご、ごめっ……待って! 今下りるからっ!」
 慌てた声を追って仰げば、ちょうど真上にテラスがある。そこに娘がひとり立っていた。
 娘は手に持っていたグラスを手すりに置いて、前置きもなしにその欄干を身軽に乗り越える。
 三階の高さだ。
「――っ!?」
 驚愕に目を見開き、反射的にオーマの腕が伸びた。受け止めようとしたところで、胸元に気持ちよく娘の蹴りが入る。
「どわっ!?」
 オーマはバランスを崩し、軽く酔っていたこともあって、そのまま仰向けに倒れ込んだ。



「いやー、はっはっは。驚いたぜ」
 それから数分後、オーマの姿は娘が仮宿にしているという家の中にあった。
 水気を含んだタオルを手に、気まずそうに笑う娘の姿もある。
「ごめんよ。まさか受け止めようとするとは思わなくてさ――普通は驚くよな」
 言いながら、椅子に座らせたオーマの胸板に湿らせたタオルを乗せる。そこにはくっきりと娘の靴跡が残っていた。
 娘は軽業師の父を持ち、自らも軽業をして各地を旅しているのだという。あの程度の高さから着地するなど、お手のものなのだ。
「いやいや、なかなか見事な蹴りだったぜ。着地の邪魔して悪かったな」
 苦笑して、娘は水を注いだコップをオーマへと差し出した。気にすることはない、と笑いながらも、オーマは遠慮なくコップを受け取る。
 酒で火照った体に、冷えた水はひどく美味かった。
「……あのさ」
 水を飲み干すさまを眺めていた娘が、言いづらそうに切り出す。
「あんた、ヴァンサーだろ」
 ヴァンサー――異世界で生まれ、聖獣の加護あるこの世界にまでも現れた、ウォズと呼ばれる異端の存在を封ずる者たち。ウォズは具現の力を操り、人を襲い、時に命を奪う。
 ウォズに唯一対抗できるのは、同じ具現の力を操るヴァンサーだけだった。
 オーマは目を瞬かせて、薄く笑う。
「よくわかったな」
「それ」
 娘は指で男の胸に刻まれた刺青を示した。何かの目のようにも、棘を持つ杖のようにも見えるその幾何学模様は、見る者が見れば一目でそれとわかる。
「ヴァンサーの証なんだろ? よく知らないけどさ」
「おう、まぁな」
 機関――国際防衛特務機関ヴァンサーソサエティ――に正式にヴァンサーとして認められた者には、例外なくこの刺青が刻まれる。ウォズという異端を狩ることができる存在としての証であり、守り手の証でもあり、超人的な能力を持つ異端者、という意味では烙印でさえあった。
「じゃあ、あんた、ウォズ殺すんだ?」
「殺しはしねぇ。封印するだけだ」
「なんで殺さないんだ?」
「代償がでかすぎるからさ」
 自嘲するように笑むオーマに、娘は訝しげな視線を向ける。納得したようには見えなかったが、オーマがそれ以上話す気がないと悟ると、話を切り替えた。
「えぇと……なんだっけ、バレル?」
「ヴァレルか?」
「そう、それ。戦闘服なんでしょ、どこにあるのさ」
「ここにあるぞ」
 オーマはおかしそうに笑って、身につけている妙に派手派手しい服の裾をつまんでみせた。動きに合わせて、鎖が重い音をたてる。
 娘は呆気に取られたように口を開けた。
「それ!?」
「おう、これ」
 何度か口をぱくぱくさせて、娘は盛大に毒づく。
「――それ着て戦うのか!? バッカじゃないの!?」
「おいおい、そりゃないぜ」
「あんた鏡見たことあんのか? そんなに色んなもんじゃらじゃらさせて――胸元開いてるしさ。どうやって戦うってんだ!」
「どうやってって……そこは俺様の華麗な肉体と熱い――もとい、篤い人望で」
「……馬鹿?」
「はっはっは、照れてるな?」
「照れてない! ……じゃあ、なんで今ヴァレルを着てるんだ? 酒を飲みにきただけなんだろ」
「世の中ってなぁ、いつ何があるかわかんねぇだろ?」
 ヴァンサーの能力は強大だが、その代償も大きい。侵食を抑えるために、専用の戦闘服ヴァレルをまとう。もとある世界よりも侵食が酷いこの世界では、日常的に身につける。
 ヴァレルを作るのは専門の能力者であり、オーマの場合は姉だった。
「それ、オレ着れるかな?」
 しげしげと眺めながら言う娘に、オーマは片眉を上げた。「なに言ってやがる」と口に出そうとして、視界が不意に歪む。
 四肢に痺れが走り、椅子から転がり落ちた。


 目覚めたとき、部屋は暗かった。
 自分の部屋か、と思ったが背には床の感触がある。霞がかかった頭を軽く振って上体を起こすと、異常に気づいた。
 服がない。
 下着は着ていたが――それだけだ。
「……あれ?」
 おかしいな、と頭を掻いて、オーマは思い出した。あの娘だ。
「ちっ、この俺に毒を盛るとはなかなかやるな。しかもかなり積極的じゃねぇか」
 言いながら、不敵に笑む。姿が姿なだけになんとも情けないが、部屋にはそれを指摘できるような者が誰もいない。
 だが、奥の部屋からは物音がする。
 オーマは立ち上がり、足を奥の部屋へと向けた。危険な気配は感じない。
 薄く開いた扉からは、ほのかな光が漏れていた。
「……何やってんだ? おまえ」
 思わずオーマは口に出した。そっと中を窺ってみれば、オーマのヴァレルに悪戦苦闘する娘の姿があるではないか。
 娘は慌てて振り返り、羞恥に顔を染めた。怒ったように声を上げる。
「なっ、なんだよ! 覗くなよ!」
「覗くなって、おまえ、人の服剥がしてどうする気だ」
「ど、どうするって……」
「……それ、どう見てもおまえにゃサイズが合わないと思うんだが」
「う、うるさいなっ! あっち行けよ!」
「おいおい。人のもん盗んでおいてよく言うぜ。返しな」
 オーマが手を伸ばすと、その分娘が後退る。
「……あのなぁ。それないとおっちゃんはすっげぇ困るの。返してくれないか?」
「……」
「おーい」
「……」
 頑固な娘の様子に、オーマは息を吐いた。両手を広げ、肩を竦める。
「どうしてそれが欲しいんだ? おまえにゃ必要ないだろう?」
「……いる」
「なんで?」
「………………ヴァンサーになりたいから」
 ほとんど呟くような娘の言葉に、オーマは呆気に取られた。思わぬことに軽く動揺する。
「オレの親父はウォズに殺された」
 娘は顔を上げ、オーマを睨んだ。その目には憎悪が灯っている。
「あんたたちが……ヴァンサーがもっと早く来れば! そうすれば親父は死なずにすんだ!」
「……」
「オレはあんたたちなんか信用しない。だから、オレがやってやる。ウォズなんて全部殺してやる!」
 ヴァンサーがウォズを屠るのは禁忌だ。同族でもあるが故に――封印に留まる理由は、そこにある。
「だからオレは……」
「……ヴァレルを手に入れたって、ヴァンサーにはなれねぇぞ」
 静かに告げると、娘の瞳が揺れた。――娘も、それはわかっているのだ。わかっているのに。
 ヴァレルや刺青があるからヴァンサーなのではない。それはあくまでも後から与えられるものに過ぎない。
「親父さんはそれを望んだのか? おまえがそうやって何かを憎むことを」
「……」
「親父さんは立派な軽業師で、おまえもその技を受け継いだんだろうが。もしおまえまで殺されちまったらどうするんだ? 親父さんの技はそこで消えるのか?」
「……」
「なぁ。そんなのはもったいねぇよ。あんなに身軽な奴ァそうそういないぜ?」
 復讐だけに囚われて生きる――もし、それが己の娘だったら、と思うと。
「……切ないな」
 ふと零れた沈痛な呟きに、娘はオーマを見上げた。オーマは苦く笑う。
「俺を憎めよ」
「……」
「俺を憎め。俺はヴァンサーだ。おまえの親父さんを助けられなかった。――憎んでいいんだ」
 子に語りかけるような口調に、娘は戸惑った。ウォズを、ヴァンサーを、憎んでいた――はずなのに。
「体ん中のそういうのは、全部俺にくれ。受け止めてやる。だから」
 オーマの手が、娘を抱き寄せる。
「……だから、自分を責めるのはやめてくれよ」
 娘の目が、驚いたように見開かれた。

 憎かった。
 許せなかった。
 ウォズが父を殺した。ヴァンサーは間に合ってくれなかった。
 けれど。
 それよりも。

 どうして何もできなかった?
 どうして、父を助けられなかった――!?

「……っ!」
 娘は、己の体が震えるのを抑えられなかった。視界がぼやけ、双眸から何かが零れていく。

 許せなかった。
 他の何よりも、誰よりも――

 娘は嗚咽を漏らした。堰を切ったように溢れるものを、留めることはできなかった。やがてそれは、叫びへと変わっていく。

 父のような胸に縋って、娘は泣いた。


「……親父は許してくれるのかな」
「可愛い娘が生き残ってくれてるんだ。許すも何もねぇだろ」
「……あのさ」
「おう」
「……自分でやっといて悪いんだけど、服着てくれない? できれば今すぐ」
「はっはっは。なんだ、さては惚れたな?」
「そんなわけあるか! まるで変態みたいだろう、あんた!」
「変態とはなんだ。この肉体美を見よ!」
「――まるで、じゃなくてマジで変態だった。頭痛い。あっちいけ」

「これからどうするつもりだ」と訊けば、「わかんない」と返ってくる。父がいた頃のように旅に出るかもしれないし、そうはしないかもしれない、と。
 痛みは消えない。憎しみも、そう簡単には消えてくれない。
 それでも、娘は少しだけ柔らかく笑うようになった。

――今は、それでもいいか。

 オーマは、そうひとりごちた。