<東京怪談ノベル(シングル)>


戒めの鎖


【T】


 それはただの思いつきにすぎない。
 常よりも緩慢に時間が流れていくように感じられるほど退屈だったある日のことだ。臣は持て余す時間をいかに潰していこうかと考えていた。しかしだからといって上手く楽しめるようなことが思いつくのかといったらそうではなく、イヌ族の島という限られた場所のなかでは尚更に退屈すぎるといっても過言ではない時間を有意義なものにするのは困難なように思われた。
 することもなければ、何かが起こるでもないイヌ族の島は至って平穏だ。頭上を仰げばのんびりと白い雲が風に流れ、青い空を泳ぐよう優雅に鳥が飛んでいる。欠伸ばかりがぷかりぷかりとこぼれて、無為に時間ばかりが過ぎていく。何度目の欠伸になるのかもわからなくなった時、臣はふと視線の先にある水平線の向こうにある場所へ行ってみようかと思った。手漕ぎボートで丸一日ほどかかる場所にある人間の島。少なくともこの島よりは文明が発達したそこであれば、これほどまでに暇を持て余すことはないのではないかと思えた。そして同時に行くまでにかかる時間、身近ではない文化や暮らしを思えばしばらくの間退屈するようなこともないのではないかと期待が生まれる。一つを思いつけばただそれだけが楽しみになり、臣はそれまで動くことを忘れたように怠惰に過ごしていた躰をしゃきっと伸ばす。
 そして人間の島へと向かうべく、まずは手漕ぎボートを用意することに決めた。


【U】


 波の音だけがただ静かに繰り返す海の上を漂うこと約一日。目指していた人間の島へ辿り着いた頃には既に陽が傾き、辺りは夜の気配が漂い始めていた。ふわりふわりと海の上を漂っている間中、臣は向かう先にある珍しいと思えるであろうものへの期待ばかりを募らせていた。イヌ族の島ではまだ発展途上にある文明が人間の島でははるかに発展していると聞いていたことが臣の期待をますます強くしたせいだ。退屈だった日々のなかから、何か面白いものがある日々のなかに束の間でも足を踏み入れることができると思えば自ずと心は軽くなる。
 降り立ったのは小さな入り江。手漕ぎボートが流されないようしっかりと括りつけて、臣は全く見知らぬ土地を散策すべく一歩を踏み出した。爪先はただ真っ直ぐに生活の中心地と思しき場所へと向かっていってが、しかし辿りついたところで何か買い物ができるのかといったらそうではない。イヌ族の島から半ば思いつきで飛び出してきたといっても過言ではない臣には人間の島で使われている金銭はおろか人間の島で有効であると思われる一切を持ち合わせていなかったせいだ。一通り町のなかを散策して、当初の観光という目的を僅かにでも達成すると臣は銀色の狼へと姿を変え、空腹の悲鳴を響かせる腹を抱えたまま町外れの森のなかへと足を踏み入れた。
 森のなかはイヌ族の島と大して変わりない場所だった。静かで、既に陽が落ちたせいもあって鳥の声も響かない。時折響くのは臣と同様に腹を空かせた獣の声のようなものばかりで、気味が悪い。
 そんななか不意に臣の鼓膜に触れる些細な音が響く。咄嗟にそちらに視線を向けると小さいながらも丸々と太った兎が一羽、立ち止まって臣のほうを見ている。しかし相手が狼だと判断するや否や大きな後ろ足で地面を蹴って臣に背を向け駆け出した。臣がそれを黙って見送ることができるわけがなかった。空腹は未だ癒えていない。そんな矢先に現れた兎の丸々と太った姿を目にしておきながら、逃すことができるのかといったらそうではなかった。
 行動は早かった。そして行動を起こすと同時に臣の思考は停止して、ただ目の前を走り行く兎の姿を両の手に捉えることばかりを考えていた。そのせいだろう。兎が人間の家が建つ敷地内に入ったことに気付くことができなかった。そしてそこに仕掛けられた罠の存在にも気付くことができず、わけもわからないままに片足に走った衝撃によってその存在を知るに至った。兎は逃げ去り、無様に罠に足を噛まれた臣だけがその場に残された。辺りにはわずかに猪の匂いがして、そのための罠なのだろうなとぼんやりと考えながら、臣はいかにしてこの場を逃げればいいのかと痛む足を抱えながら考えていた。
 人間の姿になればこんな罠を外すことは容易い。しかし辺りはまだ人工的な明かりのせいで明るく、人間たちが寝静まっている様子はない。今ここで姿を変えて、その刹那を目撃されたりでもしたら面倒なことになるのは明らかだった。
 とりあえず。思って臣はおとなしく人間に捕まることを選んだ。捕まったところですぐに殺されるわけでもないだろう。寝静まるまでおとなしくしていて、それから逃げても遅くはない。
 次第に近づく跫音を遠くに聞きながら、臣は覚悟を決めた。


【V】

 人間は面白いほどに臣のことを怖がった。しかし所詮それは臣の身に自由がないからこその怖がる態度で、どこかで囚われた臣のことを嘲笑っている気配がした。そんな人間の態度に僅かな苛立ちを覚えながら、臣は押し込まれた納屋の片隅で頸に嵌められた頸輪の窮屈さに辟易していた。こんなものを嵌められなくとも今はまだ、逃げるつもりはないのだ。辺りはどこか騒がしい。この騒がしさがすっかり消えてしまうまではここを動いてはいけない。イヌ族の島で培われた勘が囚われた臣に平静を与えてくれていていた。
 囚われてから一体どれほどの時間が流れたことかは判然としない。
 辺りに絶対的な夜特有の静寂が戻ってきたことを確認して、臣は狼の姿を崩し、人の姿へとその身を変えるとずっと目をつけていた斧へと手を伸ばした。狼にとってはどんなに強固な頸輪であっても、人の姿になれば壊すことなど造作ない。振り上げた斧で頸輪から伸びる鎖を断ち切ると、臣は一つ大きく伸びをした。そして自分の愚かさに小さく自重し、おもむろに斧を放り投げると納屋の出入り口へ向かって歩き出す。
 帰ろう。
 島へ帰ろう。
 退屈しのぎには十分すぎるほどの出来事があったが、総てがひどく面倒に思えてこれ以上長くここに留まる必要性が感じられない。
 頸に嵌められた頸輪が窮屈だったが二度とこんな愚かなことを繰り返さないよう自身への戒めとしてこのままにしておこうと思う。こんなことになるのはもう二度とごめんだった。
 外へと続く納屋のドアを開け放ち触れた、しんと冷えた外の空気に臣は大きく深呼吸をした。