<東京怪談ノベル(シングル)>
太陽の心
軽く地を蹴ると七鍵は舞い上がった。真白の翼が風を捉えてはばたく。
そうして飛んでいる時、七鍵は一人だ。風が届ける声に耳さえ傾けなければ、そこは七鍵が七鍵なだけでいられる、そんな小さな時間に変わる。
村はずれの一際大きな樹の高い枝に降りると、少女は大きく伸びをした。
「はーぁ、一休み、一休み」
休んでなくちゃ、やってられないのよね。
そんな事を呟きながら七鍵は太陽に手をかざす。こうすれば太陽の輝きが七鍵の心の濁りを薄めてくれる。今はもうそんなに拘らなくてもすむけれど、昔はそれが必要だった。
そう、七鍵はこの力が好きではなかったから。
その力は七鍵の家系に生まれる女に必ず宿る。それが運命の約束だ。そしてその力があるが故に彼女達は一つの役目を義務付けられる。
洗心医――それが、その役職の名前だ。文字通り心を洗う、それが彼女達の仕事だ。好むと好まざるとに関わらず、七鍵もまたその職に付き、人の心を洗う。心の矛盾に傷付く事は許されない。日々の仕事に一々傷付いていればいつのまにか心は磨耗していく。
――そして。
七鍵は目を伏せた。引き結んだ唇をそっと噛み締める。
そして、自分自身を汚していき、いつか破滅を選ぶのだ――かつての母のように。
そもそも人という生き物は矛盾に満ちている。
よく思われたいと思い、愛されたいと願い、幸せを求める。
それだけなら綺麗なものだ。けれど、その一方でもう一つの感情が芽生える。
何故思い通りにならないのかと理不尽に怒り、何故自分以外が愛されるのかと腹を立て、誰かの不幸を願う。
その度に心は汚れていく。綺麗な、綺麗な優しい気持ちで作られた心が濁った何かに変わっていく。
それはどうしようもない事なのだ。
しかし、七鍵はそれが悲しかった。まだ人の綺麗さを信じていたかったからかもしれない。
洗心医という職は、それでも容赦なく七鍵に現実を教えた。
優しくて、気遣いを耐やさない人の心が見えた時、七鍵は声を失った。
――ざまあみろ。不幸がアンタにはお似合いよ
どうして、そんな事が思えるの? そう思うなら何故優しくするの?
いつもにこにこ笑いながら大丈夫という人の心が見えた時、七鍵は涙した。
――もうどうしていいのか判らない。でも心配はかけたくないの。
どうして、そんな風に笑えるの? そんな傷を抱えてどうして笑えるの?
問い掛ける事は許されなかった。それは視えてしまっただけのものだったから。明かされたものではなく、暴いてしまったものだから。だから人を信じられなくなっても、その理由を言えずに、ただ唇を噛み締めるだけだった。
「どうして、みなくちゃいけないの?」
幼い日、母にそう尋ねた事がある。銀色の髪をそっと撫でながら、優しく母は答えた。
「そうね、どうしてかしら? 不思議だわ。でもね、きっと視える事に意味があるのよ」
それは洗心医だからという事なのかな?
今はもう会う事も叶わない母の面影にそう問い掛ける。
母はいつも悩み傷付いていた。
その特殊な力ゆえ、人は彼女の事を羨んで、少しでもその恩恵に預かろうと近付きたがり、目的を同じくする輩を貶めた。
そんな争いの耐えない日々を過ごす中、優しく母を支えてくれていただろう父は、日々の醜い諍いに疲れたのだろう、身重の母を置いて家を後にし、二度と戻る事はなかった。
母はいつも優しかった――そして寂しそうだった。辛そうだった。
真夜中に目が覚めた夜に見た母は、何かに耐えるように声を殺して泣いていた。辛い、悲しみの色にその心は染まっていて、七鍵には声をかける事すら出来なかった。
七鍵を守る手はいつも優しかったけれど、その母の事は一体誰が守ってくれていたのだろう?
洗心医は他人の心を洗う事が出来ても、自分の心を洗う事は出来ない。だから、母は自分の疲れを癒す事は出来なかった。ただ日々の辛さと悲しみと疲弊を押し隠し、降り積もり雪のように心の奥底へと溜め込んでいった。
真白い雪ではなく、真っ黒な雪が母の心に降り積もるのを七鍵は黙って見ているしかなかった。母の心を洗う事が七鍵には出来なかった。ただ見ている事しか出来なかった。
――だから、あの日もただ見ているだけだった。
母はどこか遠くを眺める眼差しで薄く笑ってドアから出て行った。その姿を七鍵は声もなく見つめる事しか出来なかった。
あまりにも黒いその心はまるで闇のよう。
深く染まり凝ったその色は人を最早寄せ付けない闇の色。
人の心を洗い続けて、人の心の汚れを肩代わりして。母は疲れてしまっていたのだ。
母は帰って来なかった。その疲れを道連れにして身を投げたから――。
もし、七鍵は思う。
もしも、私が出かけないでって言ったら止められていた?
それとも、やっぱり同じ結果だった?
ちくり。
指を刺すトゲの感覚に七鍵は自分が幹を握り締めていた事に気が付いた。
「やだ。刺さっちゃった」
慌てて人差し指に滲んだ血を舐める。この位の傷なら手当てをしなくても平気だろう。
「母さん……、今だったら私が母さんを助けてあげられたのかな?」
今、七鍵は村の願い通り新たな洗心医となった。それは村にいる以上、七鍵の運命であったが、七鍵は自らそれを選び取ったのだ。
この力を持つ七鍵にとって洗心医は天職だと思えた。
人の心を視る力が意味をなすのはきっとその職しかないと思った。
でも、人の心の真実に傷付かないでいられるほど、私は強くない。だから、私もいつか母さんと同じ道を選ぶかもしれない。
けれど、と七鍵は思う。流されたから洗心医になった訳では決してない。
誰かを救う事が出来るとは言わない。ただ、もしも誰かが七鍵の力で少しでも癒されたら、それでいい。
――きっとその笑顔で私も救われるから。この力の意味を見出す事が出来るから。
だから今七鍵は洗心医として頑張っている。辛い事もあるけど、後悔はしていない。
それに、何よりも、傷付けたり、憎み合うばかりでない心を七鍵は知っている。
一時期は必要以上に人に近寄るまいとしていた時期もある。その心を視ずにすむ時間がない以上、七鍵は遠ざかるより他なかったのだから。しかし、それも今は過去の習慣となりつつあるかもしれない。一緒にいたいと思う相手と、側にいると居心地が良いと思える相手と、七鍵は巡り逢ったかもしれない。まだそれは確信には至らない、相手の気持ちさえない不安定な感情だったけれど、それもまた楽しく思える程に相手と過ごす時間が心地良かった。
そう長い時間を一緒に過ごせる訳ではないのが残念であったけれど、相手を拘束する訳にはいかないのだから仕方がない。会えない時間の間のお土産話を楽しみに、そして七鍵もまた楽しい土産話を作るために、時間を過ごしていく。時には思い病む事もあるけれど、それも昔程ではなかった。
「次はいつ会えるかな?」
約束がある訳ではなかったけど、きっと会えると信じて七鍵は幸せな微笑みを浮かべた。
うーんと、大きく伸びをすると新鮮な空気が胸を満たす。大きく息をつくと悩んでいた気持ちもどこかへ消えていった。問題が何処かへ行きはしないけど、心が軽くなる。
これって心を洗ってるのかな?
そんな風に思って。
「さあ、また夕方まで頑張らなくっちゃ」
七鍵はひらりと地上へ舞い降りる――その心は太陽にも似た明るい輝きを放っていた。
fin.
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