<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
それはきっと、お日様の味
うーん…やっぱり…」
だめか、と呟いて、黒兎は深い溜息を吐いて、目の前の木を見上げた。他より少し大きめなオレンジの木。他にもでこぽん、はっさく、みかんからリンゴ、ブドウまで、季節に応じてあらゆる果物が実を結ぶこの果樹園は、黒兎の店の御用達だ。都や町から離れているのは難点だが、格安で果物狩りも行えるこの農園には、以前にも何度かこうして収穫に来た事がある。今日はオレンジとでこぽん、レモンなどのかんきつ類を採りに来たのだが。
「うーん…」
再び伸び上がった黒兎の手は、虚しく宙を掴んだ。届かない。元々小さい黒兎だが、新月で兎型になっている今は、手が使えない分更に不便だった。木によじ登る事は勿論、梯子を持ってくる事すら覚束ない。手の届く範囲、木の下の方にも沢山実は成ってはいるものの、やはり陽のよく当たった上の方の枝についた実の方が、格段に味が良いのだ。下の実で我慢するしかないのかと思いつつも諦めきれず、黒兎はもう一度爪先立ちになってふらふらと両手を伸ばした。と、その時。どさああっと、空から何かが降ってきた。
「わっっ」
『それ』が人間であり、また空から降って来たのではなく、後ろからがばあっと抱きつかれただけなのだと気づいたのは、いきなり覆いかぶさってきた『それ』が、
「うっわーっ!」
と悲鳴とも歓声ともつかない声を上げたからだ。その声には、聞き覚えがあった。
「…い、一之瀬さんっ…」
長い金髪にすらりとした背丈、加えてこの腕力。黒兎が彼女、一之瀬麦(いちのせ・むぎ)に出会ったのは、少し前の事だ。そういえば、ペットと一緒にテント生活をしていると、聞いたような気がする。今はこの傍に住んでいるのだろうか。…などと考えている場合ではなかった。この一之瀬麦、可愛いものを見つけると無条件に抱き締める癖があるらしい。何しろ半獣人の黒兎にすら大感激したくらいなのだ。今の姿を見たら…。
「可愛いぃなあ!でっかい兎や!!!こんなん初めて見たわ」
案の定、麦に後ろからぎゅうっと抱き締められた黒兎は、蹴りを繰り出しそうになる足を必至に抑えつつ、それでもじたばたともがいた。だが、それすらも今の麦にかかっては、『超可愛い』仕草にしか見えないようだ。
「ばたばたしとる〜」
などと言いながら撫でくりまわされ、息も絶え絶えになって
「は、放して…」
とお願いした後、黒兎はようやく解放された。ぷるぷるっと身体を震わせ、毛並みと耳を整えた黒兎を、麦がじいっと覗き込むように見つめる。
「クロちゃん?ほんまにクロちゃん?」
「…そうだけど」
「ほんまにクロちゃんや〜!」
歓声と共にまた抱き締められて、黒兎はぐえっと悲鳴をあげた。
「うわっ、ごめんごめん。ほんま可愛いもんやから、つい…」
あははと笑う麦を、じろりと睨んだが、無論気にするような麦ではない。あくまでもマイペース、そして強引。けれどどこか憎めない不思議な人だと、黒兎は思う。何より彼女は、黒兎の作った菓子を、とても美味しそうに食べてくれたのだ。蹴らずに済んでよかったと思っていると、麦がふうむ、と首を傾げた。
「せやけどクロちゃん、こないなとこで何しとるん?店には行かへんの?」
「新月だから。この恰好じゃ、調理は無理だし。せめて明日使うオレンジとかでこぽんとか採ろうと思って。ここ、うちの店長の知り合いの果樹園なんだ」
「果樹園…オレンジ…?」
黒兎の言葉に木を見上げた麦が、あ、と声を上げる。
「ほんまや〜!大きいなあ」
とばかりにひょいと手を伸ばした麦は、軽々と、黒兎が取ろうとしていた上の実をもぐと、黒兎が止める間も無くさっさと皮をむいて口に放り込んだ。
「あ…」
ありがとう、といおうとした口の形もそのままに固まった黒兎の目の前で、麦は美味しそうに実を齧ると、うん、と頷く。
「あの店の御用達なら、絶対美味しい筈や思たんやけど、ほんま大正解や!」
「…一之瀬さん…」
「いやー。食糧探して長い事山ん中彷徨うてたから、喉もすっかり渇いててん。ああ嬉し」
「あの…」
もいでくれたんじゃなかったんだ…。世の中そんなに甘くない。確かにそうだ。その通りだ。
「どないしたん?」
がっくりと肩を落とした黒兎の様子に気づいたらしい麦が顔を覗き込んだが、黒兎はううん、と首を振り、
「何でもない」
と溜息を吐いた。こんな事で時間を潰す訳には行かない。持ってきた籠はまだ空なのだ。とりあえず、もう少し背の低い木を探すしかないかと思っていると、何かがぽん、と飛んできた。オレンジの実だ。見上げると、麦が木の上から手を振った。
「これ、採りに来たんやろ?早よせな、陽ぃくれるわ」
ほら、とまたもう一つ、オレンジの実が飛んで来る。
「手伝ってくれなんて、言ってないのに」
ぼそりと呟くと、三つ目のオレンジを手にした麦が、そらそやな、と笑って、
「ほんなら、うちから頼んだるわ。手伝わして!」
黒兎が断る理由は、無かった。身長もあって身も軽い麦は、黒兎の取りたかった上の方の枝から易々と実をもいで落としてくれる。それをキャッチして、籠に入れていくのが、黒兎の役だ。オレンジの次はでこぽん、そして蜜柑、後はレモンも欲しいと言うと、麦はほいきた、と黄色く輝く実をもいでくれた。黒兎が持ってきた籠が一杯になったところで、収穫は終了。最後の一つをもいできた麦に、黒兎は低い声で、
「…ありがとう」
と礼を言った。ええのええの、と麦が片手を振る。その額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「何や、クロちゃんて放っとかれへんの。弟思い出してしまうからやろか」
「弟?」
それは初耳だった。麦が頷く。
「クロちゃんと同じくらいの年のな、弟がおってん。もうずーっと会ってへんけど」
ほんの少し寂しげな麦の笑顔に、黒兎はちょっと胸が締め付けられる感じがした。来訪者である麦が、弟に再び会える可能性は低い。
「一之瀬さん…」
かける言葉が見つからずに逡巡していると、麦がぽん、と背中を叩いた。
「なんて、ちょい暗い話になってしもたなあ。でも、うちは平気や。信じてるし」
「信じてる?」
「そや、あの子にはまた会える。いつか、絶対」
うん、と黒兎も頷く。
「会いたい会いたい言うて泣いて暮らすんは、うちの性には合わへんもん」
「確かに、あんまり想像出来ないけど…」
「そういう事や」
にかっと笑った麦にばん、と背中を叩かれて、黒兎は歩き出した。もうすぐ陽が沈む。麦に会えていなければ、今頃まだあのオレンジの前で立ち尽くしていただろう。先を行く麦の後をぱたぱたと歩きながら、黒兎はもう一度小さい声で、ありがとう、と呟いた。果樹園を抜けると、馬車が出入りする道に出た。山の周囲を囲む森が見渡せる。傾きかけた夕陽が、森と、道と、麦と、籠の中のオレンジたちを輝かせていた。
「綺麗やなあ」
と麦が言い、その通りだと黒兎も思った。しばらく立ち止まって夕暮れの森を眺めた後、歩き出そうとした黒兎は、麦のあれ、と言う声で足を止めた。見ると、すぐ傍の木々の奥から、何やら湯気が上がっているようだ。その方角に向かって、小さな道筋がついている。獣道だろうと想像がついた。
「これ、もしかして…」
呟いた麦が、止める間もなく走り出す。黒兎も慌てて後を追った。茂みを抜け、岩を飛び越え、その先に見つけたものは…。
「温泉や!!!!」
麦が叫ぶ。黒兎も驚いた。近くに休火山がある事は知っていたが、まさかこんな近くに温泉が涌いているとは。見ると、川も近く、大きな岩が重なり合って、数人で入るならば丁度良い程度の湯船になっているのだ。温泉特有の匂いは、あまり無い。
「ええなあ、温泉。でも何や一つ足らんような…あ、そや。クロちゃん」
「…何?」
「でこぽんの皮、うちもろてもええ?」
「・・・いい…けど」
首を傾げつつ言うと、麦はにっと笑って彼の籠からでこぽんを一つ二つ取り出すと、素早く皮をむいて、持っていた巾着に詰めた。
「ほんでな、これをな」
歌うように言いつつ、ぽん、と巾着を湯に投げ入れる。途端にふわっと良い香りが辺りに広がった。
「へえ…良い匂い」
「そやろ?疲れも吹っ飛ぶで、クロちゃんも一緒に入ろ!」
「え」
何言ってるの、と言おうと振り向いた黒兎は、思わずわっと声を上げた。
「何してるの!!!」
「だから、入ろて」
何のためらいも無くシャツに手をかける麦から、黒兎は慌てて目を逸らした。その様子を、麦が面白そうに見ているのがわかる。目を白黒させて後ろを向いた黒兎をよそに、麦はぽーんぽーんと服を脱ぎ捨てていく。
「い、一之瀬さん!僕…」
「なーに?ほら、さっさと入りぃ…」
「帰る!!!!」
籠を抱えて、文字通り脱兎の如く駆け出した後ろから、麦の声が聞こえたが、勿論振り向きはしなかった。
「全くもう、何考えてるんだよ!!」
真っ赤な顔で駆け抜けた帰り道、どこをどう通ったのかはよく覚えて居ない。次に黒兎が麦に会ったのは、その翌日の事だった。調理場から焼きあがったクッキーを持って出てきた黒兎は、オープンカフェのテラス席で、また山のような菓子を並べている麦を見つけたのだ。しばらく考えた後、黒兎は早足で調理場に戻ると、冷蔵庫の中から冷たく冷えた皿を一つ取り出した。店長に、
「すみません、僕休憩入って良いですか」
と言い置いて外に出ると、そのまま、テラス席で菓子をぱくつき始めた麦の所に向かった。
「うーん、美味し!この甘酸っぱさが何とも言えへんなあ。あ、こっちのジャムはマーマレードや。昨日のオレンジ…」
「違うよ」
振り向いて目を丸くした麦の前に、手にしていた皿を置いた。ひんやりと冷たい器に入っていたのは、輝くようなオレンジ色をした、ジュレだった。
「昨日のは、これ」
「これって…」
「オレンジとでこぽんのジュレ。その……バイト代…?」
照れ隠しにそういうと、麦はそら嬉しいなあ、と言って、スプーンで一口すくった。
「……どう?」
恐る恐る聞く。
「何や、お日様の味がする!」
「お日様…」
そや、と麦が頷き、そして少し声を潜めて、
「でも今度はお風呂も入ろうな」
と、にやりと笑った。途端にぼんっと顔を赤らめた黒兎を見て麦が笑い、彼女があまり楽しそうに笑うので、むくれかけた黒兎もつい、ほんの少しだけだけれど、顔を緩めた。クロちゃんもひとくち、と半ば無理やり口に突っ込まれたジュレは冷たく甘く、ほんのり酸っぱくて、麦の言う通り、もしかするとこれがお日様の味なのかもしれないと、黒兎は密かに思った。
<終わり>
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